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日本人だからこそ生じる英語のダブスタ

英語は、数学や論理学などと違って、その理解や習得に、自分の脳力は依存しません。なぜなら、ネイティブの子供や、「アルジャーノンに花束を」のチャーリーが使いこなせているからです。どうぞ最後までお付き合いください。

英語は悪くない、私にも問題は無い。

ということは、英語と私とのあいだを介在するものが悪いと言うことにならないでしょうか。だから、既存の日本語英語とは全く違うアプローチを試みています。

日本人が最も混乱するIFのダブスタについて取り上げてみます。

中学で習う現実可能なif(直説法)と高校で習う現実不可能なif(仮定法)。日本語だと文法上の区別はなく二つに分けない。それは日本語では「もし」は、仮定かどうかが判断基準のため、両者は同じ仮の話。だから、この両者を、日本語英語にあるように現実可能性の度合いの差で分けようとすると、日本人には区別が無いので理解し難い。つまり、英語を学ぶ日本人にとって" if "は、日本語の「もし」と英語の「もし」の二つの基準、二重基準が存在することを意味します。

詳しく見ていきましょう。
英語では実は、我々が中学で習う直説法の「もし」を、そもそも仮定として分けていません。一般の話と同一視している。仮定を純然に自分に影響を与えるか否かを基準に分けているのです。

(これ以降をしっかり捉えるためにはココを読んで新しい目を獲得する必要があり)

そのために、日本語では一つの仮の話だったことを、仮定法(下図)という範疇で切り分けることになのです。
なぜなら現実不可の仮定こと(高校で習うif仮定法)は自分に影響しないから。中学でのif(直説法)は、(ココのリンク先のSubjunctiveで言及しているように)自分に影響するから。
だから日本語では一つの仮の話であったものが、二つに分かれて、混乱するのす。

日本人だから生じる重大な英語の二重基準

  1. Present,past formと現在形、過去形→詳細は先のリンク

  2. ifと「もし」

  3. canと「出来る」→詳細はリンク

  4. nounと「名詞」


改めて考えてみると、二重基準があると言うのは、言語にとって極めて致命的な問題です。
なぜなら、訳すために日本語の基準に合わせると、英語の基準からズレ、だからといって、英語の基準に合わせると、今度は日本語でよく判らなくなる事になるからです。
この解決法はひとつしか無い。それは、日本語に訳さないこと!なんとね!!
こうすれば日本語の基準(日本語の言葉の概念)に干渉しません。

そう、この大問題は日本語に訳している限りは解決出来ないと言うこと。

と言うことは!と言うことはっ!!英語習得に必要な何千時間や留学は、この日本語に訳さない、そのために必要な「時間」と「手段」だったというになり、真の語学学習とは、いかに日本語に訳さずに、自分の頭の中に「絵と動き」を描くかで、それを目指す事が外国語習得と言うことになる事になる。日本語に訳すことでは無く。つまり、英語習得は、英語を日本語に訳すのではなく、英語が表すこの主語が、どういう動きをしてどうなったのかを頭に思い描くことで、日本語訳にするためには、それを日本語に表現し直すという、ワンテンポ増やすことが、遠回りのようで一番の近道、真の英語習得だと言うことです。現日本語英語が目指している、英語から日本語に直接変換させることではなく。

旧態の英語から日本語に直に変換する方法は一見簡単簡便のように見えるが、実はそれは大いなるワナ。言語能力が優れたギフテッドでしか学べない学習方法・・・
という、元も子もないということに・・・涙

二重基準があっても何ら意に介さない言語能力に優れた人たちギフテッドは、いったいどういう頭の構造をしているのだろうか

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ!

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