探求学習と渋沢栄一を育てた尾高惇忠の教え
「『探究の学び』経験者たちの大学生活」という朝日新聞EduAの記事を読んだ。
ベネッセ教育総合研究所の調査によれば、高校時代に自分の興味・関心事に主体的に取り組む学習(= 探求学習)を経験した生徒は、大学に入ってからの学習時間が長い傾向にある。
では、高校時代に探求学習に取り組んだ生徒は、そこでどんなことを学んだのかについて、2人の大学生へのインタビューから考えてみようというもの。
「探求学習」は、2022年度の高校の新学習指導要領に新たに登場するキーワード。
でも、これから新たに登場するからといって、探求学習という考え方そのものは、かならずしも新しいわけではないのでは? というか、うんと昔は、むしろ探求学習こそが、学びの基本形だったんじゃないか?
そんなことを考えたのは、先日たまたま読んでいた、渋沢栄一の回顧録、「雨夜譚(あまよがたり)」の中に、「これって、まさに探求学習じゃないか!」と思えることが書かれていたから。
何がどうなるか分からない時代を生き抜くために
探求学習は、これまでの「総合的な学習」を発展させたもの。
2018年の文科省「高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説:総合的な探求の時間編」によれば、探求学習とは、「物事の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営み」を繰りかえしながら、学びを深めていくこと。
探求学習では、以下のプロセスを繰りかえす。
このプロセスでは、「各教科・科目等における見方・考え方を総合的・統合的に働かせる」(「つなぐ力」!)ことによって、「特定の教科・科目等の視点だけで捉えきれない広範かつ複雑な事象を多様な角度から俯瞰して捉える」とともに、「実社会や実生活の複雑な文脈や自己の在り方生き方と関連付けて問い続ける」ことが大事。
探求学習という新しいコンセプトの目的は、「予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら」、よりよい未来、よりよい人生、よりよい社会をつくるために、「自ら考え、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力」を養うこと。
2008年の改訂学習指導要領の中で打ち出されて以来、学校教育が育成をめざしてきた「生きる力」の重要な要素を具体化・明確化したものだ。
新高等学校学習指導要領の2022年度からの実施を前に、移行措置として2019年からいくつかの高校で探求学習の取り組みが行われている。「『探究の学び』経験者たちの大学生活」記事は、そうした取り組みの経験者にインタビューを行っている。
学びの目的は、「働きを生じさせる」こと
とはいえ、探求学習は、けっして新しいコンセプトではない。というか、むしろとても古いコンセプトだと思う。
というのも、先日読んだ渋沢栄一の回顧録(講演会で生い立ちを語る渋沢栄一の言葉を門下生がまとめたもの)、「雨夜譚」を読んでいたら、渋沢栄一のいとこであり最初の先生である尾高惇忠の言葉として、まさに「探求学習をやりなさい」みたいなことが書かれていたから。
むずかしい本の一字一句を暗記しても、しっかり理解して、真に自分のものにならなければ意味がない。「四書五経」を読めという人は多いけど、そこに書かれていることを本当に理解できるようになるのは、年をとって相応の経験を積んだ後の話。
いまやるべきことは、なんでもいいから自分が面白いと思うものを読むこと。
そうすれば、「ここはこういう意味なんだろう」とか、「こうじゃなきゃいけないぞ」とか、考えが自然と自分の中に生まれてくる。そうした「働きを生じさせる」ことが何より大事。
そうするうちに、だんだんといろんな本の間に「つながり」が見つけられるようになってきて、むずかしい本の意味もしっかりとらえられるようになる。
新しいは古い、古いは新しい
「雨夜譚」に描かれている尾高惇忠の教えは、「物事の本質を自己との関わりで探り見極めようとする一連の知的営み」そのもので、「実社会や実生活の複雑な文脈や自己の在り方生き方と関連付けて問い続ける」姿勢を何よりも大事にした、探求学習にほかならないと思う。
それは、渋沢栄一の「生きる力」をしっかりと支えている。
軍事クーデターで幕府を倒そうと考えていたら、ひょんなことから幕臣に。しかしその幕府は、かつての自分のような志士によって倒され、「亡国の民」としてフランスから帰国することになる。
そこで心に決めたのは、「駿河にいって一生を送ることにしよう、また駿河へいって見たら何ぞ仕事があるかもしれぬ、もし何にもする事がないとすれば農業をするまでの事だ」ということ。
でも、明治政府が放っておいてくれるわけもなく、そこから「日本資本主義の父」としての新たな人生がはじまる。
尾高惇忠の教えは、「予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら」、よりよい未来、よりよい人生、よりよい社会を創るための原動力となっている。
自分の興味・関心事に主体的に取り組む学習とは、「おのが志」から生まれる学習で、「一つの真ごころ」を失うことなく、「万ずの事」に向き合うことができれば、相手がどんな大軍であってもけっしてひるまない、ブレない自分でいられる。
そういうわけで、探求学習はこれから登場する新しいコンセプトではなく、むしろ近代教育が生まれる前の時代への先祖返りなんだと思う。
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