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事件を起こした犯人が「発達障害であること」を報道するのほんとクソ

例えば、ニュースで次のようなAとBの報道がされた場合、皆さんはどんな印象を持たれるだろうか。

A「〇〇区の路上で男女数名がナイフで刺されるという事件がありました。犯人は現行犯逮捕されており、動機については、誰でもいいから殺して死刑になろうと思った、と話している模様です。また、犯人の古くからの知人である男性に取材をしたところ、普段は気さくでいいやつですよ、と答えてくれました。」

B「〇〇区の路上で男女数名がナイフで刺されるという事件がありました。犯人は現行犯逮捕されており、動機については、誰でもいいから殺して死刑になろうと思った、と話している模様です。また、犯人の古くからの知人である男性に取材をしたところ、彼は発達障害があってキレると怖いんですけど、普段は気さくでいいやつですよ、と答えてくれました。」

Aは「彼は発達障害があってキレると怖いんですけど」という部分がカットされています。

AとBで報道の印象は大きく変わると感じたことだと思います。

果たして、この報道に「発達障害」という言葉を出す必要があるのかということを皆さんにも考えていただきたいです。

僕は昨今の事件の犯人が発達障害だったという報道するニュースも含め、マスコミは発達障害というものは、「悪いことを起こす人」「凶悪事件を起こすの発達障害がある人」など、悪いイメージを植え付けるためにわざわざ発達障害という言葉を使って報道をしているのではないかと思ってしまうのです。

僕はもっと想像力のある人たちがマスコミにはいるのだと思っていましたが、そうではないんだなと思います。

「事件を起こした犯人=発達障害」という報道されると、世間は発達障害に対してどんなイメージを持つだろうか。

発達障害という言葉がいつ頃から世間に認知されるようになったかは定かではないが、歴史的に見れば、2006年に発達障害者支援法が施行されていることから見ると、発達障害という言葉はまだ歴史の浅い言葉なのかもしれない。

例えば、ハンバーガーと聞いて思い浮かべるのは、大抵の人はパンの間にハンバーグが挟まっているあれを思い浮かべるでしょう。ある人は魚のフライが挟まっているものチキンを揚げたものが挟まっているものをそのイメージすると思う。

一方、発達障害という言葉はどうだろうか。

その人の人生において、発達障害という言葉がどれだけ身近に感じて生活をしてきたかで、それをイメージする容易さは変わってくると思う。

僕は発達障害という言葉を確実に認知したのは2007年の頃だと思う。発達障害者支援法が施行されて、1年が経った頃だ。
僕は当時、特別支援学校で教員をしていたので、発達障害という言葉が職場内で飛び交っていた。その後も僕は発達障害を身近に感じながら生活をしてきた。大学院に進学した理由も発達障害が絡んでいたし、大学院に入ってからはずっと発達障害について学び、論文を書き、発達障害がある型たちと関わり過ごしてきた。

そんな僕でさえ、発達障害について正しく説明をしてくださいと言われれば、現在における定義を含め、発達障害といものを正しく説明できるかと言えば自身がない。

では、発達障害という言葉を身近に感じてこなかった人たちはどうだろうか。

発達障害のどんなイメージを持っているのだろうか。

発達障害というものはこういうものだということをどこで知識として得るのだろうか。

それは生活の中で自然に得られるのではないかと思う。それには今回テーマにしている報道も入るだろう。

その報道が発達障害を偏った(悪い)イメージにさせるような伝え方をすれば、それが世間の普通になってしまう。

そして、発達障害がある人たちは良いイメージを世間から持たれず、端っこに追いやられてしまう。

そうなるとどうなるか。

鬱などの二次障害を発症したり、世間に対する怒りが犯罪へと繋がってしまうこともあるだろう。

それが例えば、発達障害が良いイメージとなれば、発達障害がある人たちは世間からなんの障壁を感じることなく暮らすことができるのではないだろうか。

僕も発達障害と診断されているが、障害を感じるのは僕ではなく社会に対して感じることが多い。つまり、社会が発達障害というものを正しく理解しないから発達障害がある人たちは苦しむのだ。

僕は障害福祉の仕事をしているが、障害福祉を管轄する東京都やその他の自治体の部署と関わっていて思うのだが、障壁を感じることがある。決まりだ、ルールだ、規則だ、例外は認められないなどと述べて、障害というものを理解しようとしないと感じることが多くある。

どうか、障害という言葉自体がなくなる世界にこれからなっていくことを僕は願う。

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