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わたしを変えた後悔

仕事や趣味や学校など、どこかでいっしょに過ごしていて、心に通じるものがあったけど、今は日常的に会うことがない誰か。今はどうしているのか気になる誰か。もっと話してみたかった誰か。そんな誰かの顔や名前が心に浮かんだら、できるだけすぐ連絡する。久しぶりでも、特に用事がなくても。思い立ったときに、「あなたのことを気にかけているよ」と伝えるひとりキャンペーンを、私はここ数年、ひっそりと続けています。

先方は怪訝に思うかもしれないし、なんだかちょっと変な人みたいですが、意に介さず連絡することにしています。「また今度」「いつか」と言ってやりすごしているうちに、その機会が絶たれてしまうかもしれない。それを身を以て知った苦い後悔があるからです。

取り返しのつかない報せ

2018年の夏、平日の夕方でした。当時勤めていたテレビ局のオフィスの自席でPCに向かっていたとき、携帯に着信がありました。電話をかけてきたのは、カメラマンをしている先輩でした。
「イチジョウ、Mさんと一緒に仕事してたよね?わりと親しかったよね?」
「はい。すごくお世話になってました。どうされたんですか?」
「闘病してたのは知ってた?」
「はい。知っていました。復帰されてからは何度か立ち話したりとか…」
「実は、再発して入院していて、昨夜、亡くなったんだよ。」

Mさんは、わたしよりいくつか年上で、撮影部で活躍する数少ない女性のひとりでした。女性が増えてきているといっても、技術職は体力勝負ということもあって極端に女性が少なく、カメラ「マン」と言えば言葉通りほとんど男性です。そんな状況にあって、Mさんは単に「女性カメラマン」であるだけでなく、撮影技術が抜群なうえ、人一倍深い洞察力と共感性の持ち主でした。指名が絶えず、多くのディレクター、プロデューサーが信頼し、慕っていました。

わたしにMさんと仕事をするチャンスが巡ってきたのは、女性向けの朝の情報番組を立ち上げた頃でした。番組では時折、乳がん手術後の再建手術、セックスレス、暴力的な関係から脱出したシングルマザーなど、なかなか話しづらい、デリケートな話題に深く切り込んだ特集を組んでおり、撮影にあたっては、絶対的に信頼できるカメラマンが必要だったのです。こうしたテーマの取材は、プライベートな問題を明かしてくれる当事者の女性たちの協力なくして成り立ちません。誰かの助けになるならと、自身のつらい経験を打ち明けてくれる彼女たちを傷つけることなく、心理的な安全を守りながら撮影できるのは誰だろうと考えたとき、Mさんしかいませんでした。さりげない存在感、あたたかい眼差し、それでいて伝えるべきことがニュアンスを漏らさず伝わる的確な映像。Mさんでなければ実現しなかったであろう取材が、いくつもありました。

絶たれてしまった「いつか」

報せを受けたとき、わたしが最後にMさんと仕事をしてからすでに5年近くが経っていました。その間、わたしは朝の番組を離れて別の番組の担当となり、Mさんは乳がんを患って治療に専念したのち、復帰されていました。大病を経験されたというのに、Mさんはいつも快活で、意欲にあふれていたように見えました。会社の通路などでちょくちょくすれ違っては1,2分立ち話をしては、「今度お茶しましょう」とか「昼ごはん食べましょう」と言って別れるといったことを繰り返していました。

Mさんの訃報を告げる電話を切ったとき、わたしは我に返りました。そういえばこのところ、姿を見かけていなかった。わたしがみすみす「また今度」を繰り返しているうちに、Mさんは逝ってしまった。もう二度と会えないのだと思うと涙が止まりませんでした。その日は仕事などまったく手につかず、夜まで何時間も、どこからこんなに涙が湧いてくるのかわからないくらい泣き続けました。

時間なんて、作れたのに。理由なんて、何でもよかったのに。

今になって振り返ると、あの涙は、Mさんを亡くした悲しみの涙であると同時に、自分への怒りの涙、取り返しのつかない悔しさの涙だったように思います。わたしにはMさんに聞きたいこと、伝えたいことがたくさんあったのです。彼女から学び取りたいことがたくさんあったし、なにか恩返しがしたかった。ありがとうと言うだけでも、その足しにはなったかもしれない。そしてなにより、わたしにはそのチャンスがあったはず。電話番号も、メールアドレスも知っていたのに、時折すれ違って「また今度」とまで言っていたのに、行動を起こさなかった。用事がなかった?そんなの別に「ゆっくり話したかったから」でよかったじゃないか。おたがい忙しい?ウソだ、時間なんて作ろうと思えばいくらでも作れたはずだ。やり場のない感情を落ち着けるのに、一日や二日では到底足りませんでした。

「顔が思い浮かんだ人に即連絡する」キャンペーン

4年前の夏、取り返しのつかない後悔を経験して、わたしは変わりました。ひとつは、流されて疎遠にならない、ということです。日々、忙しく暮らしていると、目の前のことに流されがちになり、顔を合わす機会が途絶えたら疎遠になりがちです。今の時代、ソーシャルメディアでつながっているならそれでいいやという気持ちにもなります。でも、本当にそうだろうか?不特定多数に向けた投稿で知る近況とは別に、あなたのことを気にかけている、というメッセージを送るのも時には必要なんじゃないか。多少不審であろうと、唐突であろうと、思い立ったときには、大切な人には直接連絡をとって調子はどう?と尋ねる。それがつながっているということじゃないか、と思うようになったのです。

2020年の春、コロナによって突然社会が閉ざされたとき、わたしは誰かのことが偶然思い浮かぶたび、その人に「どうしてる?」とメッセージを送っていました。過去のプロジェクトで一緒だったエンジニア、地方局に勤務している後輩、ツイッターだけでつながっていた学生時代の友人、スタンフォード大学に滞在していたときに意気投合したクラスメイト…。特に用事はありません。コロナ禍ですから、久々に会って飲もうということにもなりません。それでもおたがいの安否を確認し合って、二、三往復メッセージをやりとりをする。時には長い会話に発展することもありました。「ありがとう」と言われたこともあります。何をしたわけでもなく、自己満足かもしれませんが、漠然とした不安に社会全体が包まれていたあのとき、誰かが自分を気にかけてくれる、あるいは自分には気にかける誰かがいると感じることには、なんらかの意味があったのではないかと思います。

You Only Live Once

もうひとつ、Mさんの死を機に、わたしの内面で変わったことがあります。「漫然と生きていないか」自問するようになったのです。ひょっとすると、わたしが「また今度」と言ってのらりくらりしていたのは、自分がふわふわと生きていて、生き切ろうとしていたMさんと向き合うだけの中身がないと薄々感じていたからじゃないかと、そう思ったからです。

Mさんの訃報の前、数年にわたって、わたしはずっと自分の生き方や仕事についてモヤモヤしていたのです。2018年の5月、NYの国際会議でモヤモヤの正体に気づくまで、仕事や家事や様々な用事で身の回りを忙しくすることで目を逸らしてやり過ごし、自身の内面に向き合うということをしていませんでした。表向きは多忙で、人からは充実してるように見られていたけれど、内面が空疎だった。だから、本当に重要なことを優先できなかったんじゃないか。尊敬する人の時間を使うことに躊躇があったんじゃないか。悲しみを整理しながら、そんな思いがこみ上げてきました。

2018年の夏以降、わたしの人生は少しずつ、でも加速度的に変化していきました。本当は自分が何をしたいか、自分に問いました。そして勉強に身を入れたのがひとつ。最初は語学をやり直し、続いて海外で研究員をし、気づいたら会社を辞めて大学院へ留学を決めていました。実名で意見を言うようになりました。ドキュメンタリーの自主制作やら地域の活動やら、会社にとらわれない枠組みで仕事を考えるようにもなりました。なにか大きなことを成し遂げたわけではなく、人生の模索の途上ではありますが、もしMさんがご存命だったら、「最近どうしてる?」と聞かれて、「特に」とか「別に」とか口ごもることはなく、笑顔で近況を伝えられるだろうし、心から感謝を伝えられるだろうという気がします。

時の流れとともに、わたしも年齢を重ね、Mさんが亡くなられた齢に近づいています。Mさんがわたしに遺してくれたように、わたしも誰かに何かを遺せるだろうか。渡米を間近に控え、そんなことを考えています。



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