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高野友治の著書を読んで感じ入った箇所を抜粋
みかぐらうたのキホンのキ。
お道で「ご恩報じ」について説かれることが少なからずあると思う。 たすけていただいたご恩に報いる、という意味合いのことが多い。 確かに、信仰においてご恩を感じるというのは、その第一歩であるようにも思う。 が、しかし、である。 なぜご恩報じを説くのであろう。 そもそも、この道の信仰は、たすけていただいたら(恩に報いるのではなく)他人をたすけなさいと教えられるのであるから、むしろフォーカスは人だすけに向かうその方向にあるべきなのではないだろうか。 私どもの教会の火災に際
2021年7月8日。ちょうど一年前の今日、うちから出火。教職舎は全焼。神殿も階下もすすだらけ。 茫然自失。燃えてゆく建物とあわただしく消火作業をしてくださる消防員の方を見ながら、無力さを痛感したあの日から1年。 その無力感、喪失感が朝から何度も蘇ってきて、改めてまだ復興が終わっていないことを実感し、何も変わっていない自分にあきれる。 こんな夜には、半崎美子さんの歌声と胸に刺さる歌詞に癒やされよう。去年の夏、幾度となく夜な夜な半崎美子さんの曲を聴いて涙を流して、そしてまた
「寄り添う」の最上級は「向き合う」だと思う。傾聴するものとして、どれだけ真っ直ぐに向き合えるのか、いつでも真剣勝負。
わたしの好きなシンガーソングライター半崎美子さんがパーソナリティを務めるラジオ番組が2本あって、そのどちらも日曜日に放送される。1本は早朝で、もう1本はお昼前。そのお昼前の番組を聴いていて、救われたというお話。 先週、母の日に放送された「ハンザキラジオ」で半崎美子さんは谷川俊太郎の詩を朗読してくださった。最初は、半崎さんらしいなと思いながら温かい気持ちで聴いていたのだが、次のひと言に涙が止まらなくなってしまった。 私は、母とそんなに仲が良くない。母の日に贈り物をしようと思
普段の何気ない暮らしのなかで天理教的なものの見方を意識することはどんな時だろう。 教会を預からせて頂いている私でも、四六時中お道のことを考えているわけではない。車を運転している時、ブツブツと文句を言っている自分に気づいてハッとすることも度々である。何も考えずにボーッとしていることもある。 そんな私が一番、お道の考え方を意識するのは、人と話している時である。例えば、訪看で傾聴する際に、病気やその他のことで苦しみ悩んでおられる胸の内をお聞きした時に、お道ではどう考えるだろ
大学での講義を終え、参拝に行った。教祖殿に行くと、ちょうど修養科生がおさづけの理を拝戴しているところだった。 おやさまに、いろいろと報告やお願いをしていると、ふと修養科中におさづけの理を拝戴されたときのことを思い出して、胸が熱くなった。 あの日々は遠ざかりつつあるも、あの日感じた胸の高鳴りは今も鮮明に残っている。もちろん、一番うれしかったのは本人たちだろうけど、それでも、今も私の胸のなかで輝きを放っているのは、あの日の一人ひとりの笑顔。 その笑顔がクラスみんなの笑顔につ
無責任な発言と聞くと、みなさんはどっちを思い浮かべるだろう。 あぁ、また、無責任なこと言って、かき乱すのはやめてくれー涙 無責任だけに、話を聞いても、聞かなくてもええからラクやん。 人にアドバイスをするときに、アドバイス=指示・命令になっている人は①のように感じられると思う。アドバイス=あくまで私見(つまり、私ならこう考えるが、あなたがどう考えるかは知らないし、そんなことまで責任は持てません=無責任)という人は、②のように受け取られるのかなと思う。 相手の主体性を認め
元ネタはこちらです https://news.yahoo.co.jp/articles/7ebf0fbeb225f661b9ce72d35a42aaa54561da62 苦しいとき、つらいとき 何に心がとらわれているのか(何にフォーカスしているの)に気づく 「~しなければならない」「~すべき」 →→「~にこしたことはない」(~できない自分もあることを理解) そのとらわれから、心を解放してあげる 「~だから辛い」「辛いのは~だから」 →苦しめてる理由を書き出す