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「人間の理というは明日の理が無い」

普段の何気ない暮らしのなかで天理教的なものの見方を意識することはどんな時だろう。

 教会を預からせて頂いている私でも、四六時中お道のことを考えているわけではない。車を運転している時、ブツブツと文句を言っている自分に気づいてハッとすることも度々である。何も考えずにボーッとしていることもある。

 そんな私が一番、お道の考え方を意識するのは、人と話している時である。例えば、訪看で傾聴する際に、病気やその他のことで苦しみ悩んでおられる胸の内をお聞きした時に、お道ではどう考えるだろう、と思う。もちろん、その場でお道の話をすることはないのだが、聞けば聞くほど、なにか違うという気持ちになってくる。

 おさしづでは「ずつない事はふし」と仰る。ずつないというのはなす術がない状況を指す。八方ふさがりのどうにもできない苦しさに耳を傾ける時、性急な価値判断をせずに、届かぬながら私もその苦しみを同じように経験しようとする。が、ふと、頭のどこかで、苦しんでいるその状況にそこまでフォーカスしなくてもいいのになと思うことがある。この苦しみがいつかきっと誰かの役に立つ日がくる、なんて思いが頭をよぎる。

 人間思案のすべてが悪いという訳ではないが、「明日の理が無い」と仰るように今置かれている状況や問題に集中しすぎる傾向がある。長い時間の流れのなかで、今日の自分にとって都合の悪いことも明日にはよかったと思えることもある。苦しんでいるとき、辛いときにはなかなか持つことが難しい視点である。おやさま50年のひながたと照らし合わせて考えることで、この広い視野を保つことができるのではないか。

 教祖のお通りくだされた道すがらを思えばこそ、今の苦しみが子々孫々の幸せにつながると信じることができる。明日の理を楽しみに思えばこそ節のなかを勇んで通ることができる。

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