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北大西洋本鮪(クロマグロ)定置網事業その4

<2008年シーズン>

2007年に仕入れたマグロはよくわからぬまま相場の上昇とともに会社に莫大な利益をもたらした。それとは裏腹に私の気持ちは沈んでいった。そう、2008年シーズンが近づいてきたのである。前回も述べたが、仕事を覚えられぬまま帰国したにも関わらず、諸事情があり昨年同行した上司は今回は同行できず、別の上司が同行することになった。事実上私が責任者ということになった。全くもってやり遂げる自信がなかった。ましてや2か月間の船上生活を思い出すだけで、日に日に憂鬱になっていった。

当時のヨーロッパは金融バブルに沸いており、スペインもその例外ではなく価格交渉においてもかなりの強気(鼻息が荒いのはいつものことだが)。日本の市況も良かったこともあり、2008年の価格は前代未聞の2100円で決まった。前年が1500円だったので40%のアップである。そしてそのころはまだ漁獲枠というものがなく取り放題だったので、結果としてその年は1000トンのマグロを2社で分けることとなった。

そして忘れもしない2008年4月6日、ついに日本を立ち私の海外出張史上3カ月という最も長い出張が始まった。今回同行する上司は遅れて5月の上旬から参加することになっていた。今回は5隻の加工船をチャーターしており、なんと私が1隻の加工船の責任者として乗ることになったのである。仕事を覚えていない私に吐き気がする程の責任がのしかかった。そしてララチェに到着。

港から運搬船で3時間のところに私の乗る加工船Cは停泊していた。朝の2時半に港を出た。が、しばらくして信じられない光景が目の前に現れた。港の防波堤を超えた瞬間、海が大荒れに荒れていたのである。瞬く間に洗濯機の中に放り込まれたような状態に陥ったのである。完全に自分の位置情報を失った。後にも先にも船酔いをしたのはこの時だけだった。胃の中のものは全て吐き出したが、それでも私の胃はまだ何かを出したがっていた。体を捻じ曲げられた私の目にまたもや目を疑うような光景が現れた。運搬船からバイクのサイドカーのような小さいボートがロープでつながれており、なんとそこに人がしがみ付いて乗っていたのである。

なんてタフな野郎なんだ。

グロッキーになりながらも、あまりの衝撃が今も忘れられずにいる。そして3時間が経ちやっと運搬船が加工船に到着。しかし船から船に乗り移るのに加工船のクレーンにバカデカいポリタンクを吊り下げて、そこに乗って移るのだが海が荒れているのでクレーン操作が上手くいかず、クレーンが私の顔面を強打した。そして流血。今でもわずかに傷が残っている。自分の中では良い思い出である。

時化はその後、さらに勢いを増し何日も続いた。風速は30m/秒(台風並み)を超え波も波の高さも10m以上はあったと記憶している。操舵室からみる景色はレオナルド・デカプリオも真っ青のまさに映画の1シーンのようであった。心のBGMはもちろんこの曲


♪あの頃を 振り返りゃ 夢積む船で

荒波に 向ってた 二人して

男酒~ 手酌酒~ 演歌を聞きながら~

なあ 酒よ お前には わかるか なあ 酒よ♪


語るまでもない。吉幾三先生の名曲である。

しかし、あまりも暴風が凄まじく甲板に貼ってあるベニヤ板が剝がれてしまった。船長がワーカーに直すように指示するのだが、暴風にあおられながら命綱もなしに直していた中国人ワーカーのど根性を見たのだが、その数年後瞬く間に日本の経済が中国に抜かれていったのは私の中では妙に納得がいくのである。

やがて時化はおさまり取り上げが始まる。

その前にここで船上生活についてまとめておきたい。

◎船上生活

その年乗った加工船Cはスペイン最大のマグロ会社が保有する加工船。ちょうどプロフィール写真がそれである。船の幹部は全員韓国人。船員はベトナム人。ワーカーは中国人とインドネシア人。全員が初対面。ここで2カ月生活することがいかに孤独なことかを想像して頂きたい。当時は今と違ってインターネットなど使えず携帯電話も国際電話なので簡単にはかけられない。一切の娯楽はなく外の世界からも遮断される。基本的に網にマグロが入らなければ仕事はないのだが、都合よく毎日マグロが入るものではなく長ければ10日ほど仕事がないこともザラにある。その時は何をするか?操舵室の屋上に上って日焼けをしながらひたすら瞑想に耽るのである。時の流れが異様に長く感じられる。体感速度が3倍ほどである。つまり1時間が3時間。1日が3日。1週間が3週間。1か月が3カ月。2カ月が6カ月。。。途方もなく長い。一日の行動は全て大自然に委ねられるのである。次に食事であるが、質素極まりない。キュウリで白飯を食べたこともある。そんな時のためにあの日清食品さんの名作カップヌードルを積んでもらったりするのだが、調子に乗って毎日お世話になってしまい、ある時からパッケージを見るだけでしんどくなり、押し入れにしまったまま二度と見ることはなかった。基本的には大好きで、世界最古であり世界最高のカップ麺だと思っているが、その時から醤油味だけちょっと苦手になってしまった。

◎血抜き地獄

基本的な私の役割は、簡単に言うと鮮度が良くカットが綺麗な製品を作る現場監督。そして脂の乗りでABCDの4段階に選別し、それを会社にレポートする。その比率を見てそのシーズンの終了を判断したりもするので非常に重要なデータになる。しかし選別もできなければ綺麗なカットの意味もよく解らず、血抜きしかできない私はとにかく自分に出来ることをやろうと思い網場に行ってひたすらマグロと格闘し血を抜きまくることにした。選別は船の乗組員にお願いすることにした。網場、そこはまさに戦場。高鮮度で取り上げるには1分1秒を争う。そしてやはりモロッコ人はタフである。暴れるマグロの尻尾にロープを付けるのであるが、ちょっとでも蹴られようものなら骨が折れてもおかしくない。ロープをクレーンに引っ掛け運搬船に乗せる。それを私が血抜きする。暴れ狂う200kgのクロマグロを包丁で〆る。マグロの尻尾で蹴られないようにスキを見てヒレの下にある動脈を切りエラの脇の心臓を切る。何1000匹もやってるとだんだん職人技の域に達し”蝶のように舞い蜂のように刺す”の動きになってくるのである。網に入ったマグロの尾数と加工船の処理能力と相談しながら2隻の運搬船をピストンで加工船に運ぶよう漁師たちに指示をする。効率的に運搬しなければマグロがヤケてしまうからである。また放っておくと運搬船上でマグロの上にマグロを重ねてしまう。これだとマグロがうっ血してダメージを負ってしまうので、マグロを重ねないように指示する。しかし言うは易し。まずは言葉の壁がある。とにかく自分で動いて示すことが大切であった。そうすると彼らもマネをする。また彼らは英語を話さないので”one two three"も通じない。このことは昨シーズンすでに学んでいたので、片言の簡単なスペイン語で応戦した。かと言って簡単に言うことを聞いてくれる人たちでもない。彼らにとってはマグロを早く取り上げるよりも網から溢れた晩御飯のオカズのサバやアジを拾うことのほうが大事なのである。結局怒り狂って最後は日本語で喚き散らしていた。怒っていることは伝わったようで、次第になんとなくコミュニケーションは取れるようになり、なんとなく仲良くもなっていた。顔も名前も覚えちゃいないが、だいたい名前はハッサンかモハメである。よくミントティーやサバサンド、干しブドウなんかをくれるようになった。運搬船の衛生環境を考えると全然欲しくなかったが、それでも苦笑いしながら食べた。脱線したが、多い時には300匹を一人で血抜きした。夜寝ていてマグロに埋もれる夢を見てうなされるようになっていた。これは帰国してからもしばらく続いた。

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◎船長との関係性

何回も述べてきたように私はこの仕事に対して何もわからないズブの素人だったが、加工船に対しては色々と要求をしなければいけない立場であった。しかし船の総責任者である船長はこの道数十年の大ベテラン。何もわからない私が何かを要求するとすぐさま返り討ちにされた。性格的にもユニークで強烈な性格の人であった。愛嬌がありよくしゃべる。船長室に呼ばれてよくお菓子をくれた。しょっちゅう頭突きをされたし、頭を噛みつかれることもあった。とにかく喜怒哀楽の激しい人であった。何を言うにも気を遣う。良い人であるが全然言うことを聞いてくれない。ただし仕事ぶりはプロフェッショナルで何度も助らた。私ができないことをフォローしてくれていた。

◎船上生活唯一の娯楽

モロッコ最北部海域はよくイカが釣れる。この海域に停泊する時は乗り組み員一同イカ祭りである。釣りの苦手な私でさえ参加する。

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こうやって食べる刺身は心の底から美味しいと思う。

◎死を覚悟した瞬間

2ヶ月の船上生活の中で、一度だけ下船する事があった。何であったかは忘れてしまったが、何かの用事があってララチェに戻り、タンジールのスーパーまで車を1時間かっ飛ばして買い物をしなければならなかったのである。一仕事終えてから下船し、車で買い物を済ませアパートに戻ったのはもう深夜0時に近かった。何も食べていなかったのでとにかく腹が減っていた。マグロの返り血でドロドロに汚れていたのでシャワーを浴び、はごろもさんの名作シーチキンをこれまた不朽の名作ペヤングソース焼きそばに混ぜて貪り食った。名作×名作。ここに空腹という最良のスパイスが加わりとてつもなく旨かった記憶がある。そして翌日の出港が朝の3時だったので1時間ほど仮眠を取り、2時に港に向かった。日本人なので、時間に正確に。とはいえ早すぎである。置いていかれないか不安だったことをご理解頂きたい。しかしこれがいけなかった。港のちかくに車を置き、運搬船が接舷してある岸壁に向かう途中、事件は起きた。

ワオーン ワウ ワウ ワウ!!!!!

狼の様な遠吠え(その時の私にはそう聞こえた)が聞こえたと思ったらドンドン声が近づいくるではないか、しかも一匹ではない。気づけば一瞬にして10匹ほどの野犬に囲まれていた。私の脳裏に浮かんだのは、

狂・犬・病

の三文字。発病すれば100%死に至るというその病気がここまで自分に接近したのは生まれて初めてだった。嚙まれたら人生終わり。それくらいの緊張感。その犬たちは病にかかっていないのかも知れないが、そうである保証もない。それより目の前の敵を何とかしないといけなかった私は手カギと呼ばれる木の棒の先に金属のカギがついたマグロを引きずったり持ち上げたりする道具を振り回して応戦し、逃げ回った。しかし、次の瞬間私の足に衝撃が走り、目の前に地面と夜空が次々に入れ替わるのがわかった。どうやら港に置かれた全長3mくらいの巨大なイカリに足を引っかけ蹴っつまずいたようであったが、自分では何が起きているか解らなかった。実際の速度とは裏腹にヤケにスローモーションのように転がる世界を見ながら私は、

終わった

と思った。ところが、あまりも私が派手に転んだため犬がひるんだのである。そのすきに逃げ出し私は港に住むホームレスのオジサンに助けてもらったのである。体中が痛いわ怖いわ情けないわで本当に打ちひしがれる思いであった。

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↑手カギ

◎吸血バエ地獄

モロッコのハエは血を吸う。もともと家畜などの血を吸っているようだが、5月後半からモロッコではうだる様な暑さになると、陸から吸血バエがやってくる。マグロの血に引き寄せらるようである。噛まれるとかなり痛いし、跡が痒く腫れる。ひどい時は少なくとも100匹ほどから血を吸われたことがある。まさに地獄である。

◎上司との合流

5月上旬、上司が加工船Cに乗船し合流することとなった。基本的にとても優しい方だったし面倒見の良い上司であった。おかげで孤独感は緩和され少し気は楽になった。私のこともよくフォローしてくれていた。しかしY社からのプレッシャーを加速することになるのである。Y社が上司に求めていたのは私のフォローではなくもっと踏み込んだ仕事であったのだ。そもそもこの事業はX社からY社を通して我がZ社が買い付けを行うのが本来の筋だったのをY社を通さずX社から直接仕入れを行う共同事業であった。掛かる経費も全てY社とZ社で折半することになっていた。よって我々Z社もY社と同じだけの機能をその出張で果たさなければならないのであった。このような理由から昨シーズンの私の働きぶりはさぞ腹立たしいことであっただろうし、今シーズンもまだまだ未熟な私に対してストレスを感じていたであろう。もちろんそれは言葉でも伝えられており、毎夜のごとく電話で説教も続いていた。そこに来て上司の合流。まだ入社4年目の私は初めて来た10ほど歳の離れた上司に遠慮があった。やるべきこと、やって欲しいことを伝えられなかったのである。Y社から上司へのクレームは全て私のところに来た。そのたびに私は上司には言えず。ただただ謝るばかりであった。抱え込んでしまったのである。自分の能力ではとてもこの仕事ができるようになると思えなかった。また例のごとくY社のI氏から電話で怒られながらふと上司が屋上でサングラスをかけ音楽を聴きながら日焼けしているのが目に映った。私も作業のない時は日焼けをしていたので、そのこと自体は何の問題もないはずだったのだが、疲労困憊な上に説教されている私とのコントラストがあまりにも鮮やかで、全てがバカバカしく思えてしまったのである。電話の後、上司を部屋に呼んだ。

私「私にはこの仕事が出来るようになると思えません。もう無理です。日本に帰ります。そして辞表を書きます。」

上司「今はすごく大変かもしれないけど、いつか笑い話になるときが来るからもう少しがんばろうよ。」

私「・・・・・・」

なんか無性に腹が立った。

もうどうにでもなれ

そう思いながら悔しさで目に涙を浮かべた私の耳奥にあの歌が流れてきた。

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♪・・・・ 人生が少しだけ うるさくなってきたけど

逃げ場所のない覚悟が 夢に変わった

帰りたいけど帰れない 戻りたいけど戻れない

そう考えたら俺も 涙が出てきたよ

くじけないで 嘆かないで 恨まないで飛ばそうよ~

あの時笑って作った しゃぼん玉のように~♪


言わずと知れた長渕先生の名曲である。


吹っ切れた

思えばそれまでの私は無意識に周りからの評価ばかり気にしていた。卒業した大学の名前でなく本質で評価されたいなどと格好の良いことを考えながら、心の奥底では変なプライドを持っていたのだと思う。そのプライドが根底から剝ぎ取られ、自分がいかに無意味で矮小な存在であり、そして大自然の中で無力であるかを知った。私に足りていないものは覚悟であった。なるようにしかならない。やるべきこと、物事の真理は一つ。それをやるかやらないかだけである。その結果いかなる評価が下されようが、自分が納得できれば良いのである。やらずに後悔することはあっても、やって後悔すことはない。大事なことは自分で決断することである。私が何かにビビったり、恥ずかしがったりすることはほとんどなくなったのはこのころからである。

それからは、言うことを聞いてくれない船長にも気を遣わずしつこく要求を伝えた。真剣に向き合うと次第にブツブツ怒りながらも言うことを聞いてくれるようになった。

そして上司の進言もあり、血抜きは加工船のスタッフに任せて私は選別をするようになった。

この時から現在に至るまで私の人生も紆余曲折あったが、この時出張をともにした上司とは酒を交わしながら、この時の思い出に浸りたいものである。

◎選別の難しさ

マグロの脂は〆た直後から時間が経つと段々と見えてくる。つまり同じマグロでも鮮度の状態により脂の見え方が違うのである。取り上げ直後と最後の方では3~5時間ほどのタイムラグがあり、鮮度が全く異なる。それらを考慮に入れながら脂の良し悪しを判断しなければならない。その判断する要素が、見た目の脂の乗りの他に、マグロの形や鱗の立ち方、皮目の厚さ、腹の厚さ、卵の成熟度などである。そして一番難しいところが、その結果が冷凍して日本に搬入後、実際に切って解凍してみないと結果がでないことである。1シーズンで数千匹の取り上げである。一匹一匹を追いかけて結果を見られないので全体像で掴んでいくしかない。つまり経験を積むしかなく、いかに自分なりのデータベースを作れるかがカギとなる。幸い私はセリ人としても結果を見届けられた上にその後10年で数万匹ほどのマグロを選別してきたので比較的正確なデータを積むことができた。こういった感覚は生産現場に立ち合わないと得ることができない。私の財産になっている。しかし当時の私は何のデータもなく答え合わせができない状況で全く理解できぬまま選別をしていた。わかるようになるまでに更に2年ほどの時間を要した。

◎シーズン終了のゴング

6月中旬、海面をワタリガニが泳ぎ、緑色の小鳥が船に訪れ始めると地中海に入ってくるマグロの脂が抜け産卵の準備に入ると、その年もシーズンが終了。2カ月ぶりの陸。この解放感はたまらない。上司やI氏以外のY社社員は帰国し、私とI氏はマグロのコンテナ転載のため2週間ほどアパートで待機することとなった。

しかしそのアパート生活数日目に事件は起こる。水が止まってしまったのである。シャワーを浴びれない。トイレが流れない。追い打ちをかけるような暑さ。ヤケに熱いと思って町の温度計をみると40℃と表示されているではないか。古典的な漫才ではないが、6月で40℃なら8月はどれだけ熱いのか?とにかく早くこの国を脱出したかった。部屋の水が出ないので、アパートの屋上にある水道でI氏と奪い合うように水浴びをした。そうしたら向かいのアパートに住むオジサンに怒られた。イスラム国家なので、人前で裸になるのはNGだったようだ。レンタカーの窓ガラスが割られキュウリしか買えない程度の小銭を盗まれた。またレンタカーが車検を受けてなかったとしてI氏が警察に拘束された。

やがてコンテナ転載が始まった。タンジールで転載。しかしスムーズにはいかない。やたらと時間がかかるのである。理由としてはコンテナ会社の人間が時間通りに来ない。あと数分で終わるのに、昼食タイムを入れてくる。などなど。そして最悪の事態が。予約していたコンテナが来ない。そこでスペイン領のラスパルマスという島に移って残りの転載をすることになった。やっとモロッコを離れられる。その前夜、またまた事件が起きる。I氏が何かの食べ物か飲み物に当たったのである。一晩吐き続けた。私とI氏の関係性は驚くほど良好になっていた。私が懸命に仕事をすることを認めてくれるようになっていたし、困難を共有する同士のようであり、兄弟のようであり、子弟のような関係になっていた。絆のようなものが生まれていた。にも拘わらずI氏が苦しむ様子を見てなす術がなかったが、完全に精神が衰弱しきっていた私はそれを尻目に早く治ってくれないとモロッコを出られなかったらどうしようという思考になっていた。おそらくほとんどの人が理解できないだろう。心の底から自分を軽蔑したが、同時にそれが極限状況における人間の本当の弱さであり、本質的な部分であると知った。誰もが本来持っているであろう弱さ。皆それに蓋をして生きている。だからこそ人は愛おしいのだと思う。このころから私はそれまでよりも人のことを慮ることが出来るようになった。

幸いI氏は大事に至らず翌朝には体調を回復させた。そしてラスパルマスに向った。お驚くほどスムーズに転載は終わり、その日の夜私はお世話になった船長を含む加工船の幹部たちを食事に誘った。現地にある韓国料理屋であった。他愛もない会話をしながら楽しく食事を終え、最後に酔っぱらった船長が私に言葉をくれた。

船長「あなたはこれから絶対に一人前になる。なぜならあなたにはハートがあるから。」

その時は全然仕事が出来るようになる気はしなかったが、嬉しかったことは記憶している。

かくして2回目のモロッコ出張は終了となった。帰国したら日付は7月7日になっていた。長かった。


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◎販売

何度も言うが、マグロは仕入れて終わりではない。販売をしなければならない。昨シーズンから引き続き堅調な相場をキープしていたためその年の仕入れ値は過去最高の値段になっていた。

しかし、2008年9月あの事件が世界を震撼させる。そう、

◎リーマンショック

である。当時はそんな名前も付いておらず、社会人として未熟な私は何が起きているか解らなかったが、相場がわずか1週間の間に500円@kgも下がっていくのは解った。なす術がなく黙って見ているしかなかった。この凄まじい相場の下げは日を追うごとに私を憂鬱にしたのを記憶している。結論から言うと1000円@kg×200トン=2億円の損失であった。あっという間に昨シーズンの利益は吹き飛んでしまったのである。私を揶揄する声もあったと記憶しているが、その事はその後の私自身の飛躍のエネルギー源となった。ただそれよりも出張での地べたを這いずり回った苦労が水泡と化すようで、この頃が精神的にどん底だったと思う。

下がればあとは上がるしかない。次回からはセリ人としての飛躍を書いていきたい。

続く。。。













































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