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パン屋日記 #29 足りなかったもの

クマ崎さんのお留守番も、ついに最終日です。

「お電話ありがとうございます。
 どうぶつベーカリーです」

『iccaか?』

名乗る前に、名指しです。
クマ崎さんでした。

『今日の定食は何ぞ?』

「シーフードフライ定食で、1,100円です」

『高い』

「すみません」

高くて、すみません。

「ランチ、来られるんですか?」

『わからん』

「そうですか。お待ちしておりますね」


クマ崎さんは、

うん、と言って電話を切りました。


その日のランチタイム。

『来たぞ』と言って、
レストランではなくパン屋の方に、
クマ崎さんがやってきました。

クマ崎さんが
朝7時45分以外の時間に来店したのは、
この日が初めてでした。

『飯は食うたんか』

「わたしはもう食べました」

『払うちゃるけん、一緒に食え』

「だから、食べたんですってば」

レストランのテーブルにご案内すると、
本日のランチを注文してくださいました。

そして、

『だれか飯を食うとらんやつはおらんのんか。
 払うちゃるけん、一緒に食え!』

と、スタッフみんなに
言って回るのです。


その時になってやっと

クマ崎さんは、
お昼に食べるものが無くて
困っていたのではなく

お昼を一緒に食べる人がいなくて
困っていたのだとわかりました。


クマ崎さんのお食事中

用事があるふりをして、
何度もクマ崎さんのそばを通り

天気の話や、カープの話をしました。

『多い』と文句を言いながらも
全部食べきったところが

クマ崎さんらしいなあと思いました。


さて、10日間にわたるクマ崎さんのお留守番も、
ようやくおしまいです。

この10日間でわかったことといえば、

クマ崎さんの奥さまはおそらく

とんでもなく心が広く、
とんでもなくよくできた

すばらしい方なのだろうということです。

お留守番を終えた翌日には

この10日間では見たことのないような、
肌ツヤのいいクマ崎さんがやってきました。

あの「悪かったな、ありがとう」の顔をしつつ
『食え』とだけ言って持ってきたのは

旅行から帰ってきた奥さまに持たされた、
おイタリアのチョコレートでしたとさ。

めでたしめでたし。


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