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#55 今となってはおとぎ話のように

閉業前の、ラスト・ラン。

ほとんど2ヶ月ぶりに
厨房からあたたかな音が聞こえ、

古い陶製のシャンデリアに
明かりが灯りました。

自分用の飲み物を取りに
レストランの方へ行くと

お客さまがめいめいのお好きなお席で、

朝と昼の間のゆっくりとした時間を、
静かに楽しまれていました。

そうだった、

わたしの好きなパン屋は
こんな感じだったと

胸いっぱいにあたたかさが広がる一方で

これがあとたった7日間で
永遠に失われてしまうことが、

惜しくて仕方ありませんでした。



レストランの従業員は、
ラスト・ランが終われば解雇されます。

正直なところ、

みんながどんな様子で出勤し

どんな様子で仕事をするのか、
不安でたまらなかった。

答え合わせとしては、

朝の挨拶からむっとしていた
1人のパートさんを除いては

シェフも松内チーフもフジ子さんも、
みんないたって「普段通り」でした。

むっつりと落ち込んでいる
そのパートさんのことは

気持ちはわかるんやけど、
かける言葉がないんよ、と

みんなが遠巻きに見つめていましたが

よく考えてみれば、

不安も不満も口にせず

普段通りに振る舞ってくれる
残り3名の方の徳が

異様に高いという
だけだったのでした。



「そういえば、クマ崎さんは来ましたか」

と尋ねると

「ええ、ええ。初日から来られましたよ」

と、フジ子さんが教えてくれました。

クマ崎さんは、
閉業を惜しんで来店した用務員の木村さんと

タッチの差で会うことができなかったそうで

「あら、木村さん、
 さっき帰られたんですよ。
 クマ崎さんは、また来られますか?」

とフジ子さんが尋ねると、

「うん、来るよ。毎日来る」

と答えたそうです。

クマ崎さんと用務員の木村さんは
お互いに好き同士なのですが、

意外にも連絡先を交換しておらず

なかなか再会することのできない、
映画の主人公みたいになっていました。



これまでのお決まりは、

クマ崎さんがマイ・ドレッシングで
モーニングを食べているところに

朝のコーヒーを飲みに来た弊社の社長が、
ゴルフ雑誌片手に腰かけ

前日の古新聞を集めに通りかかった木村さんが
そこに加わって、

ちょっとひと息入れる、という流れでした。

春、夏、秋、冬

いかにもカフェーらしいそんな風景が、

今となってはおとぎ話のように

淡々と繰り返されていたのでした。



【常連客の「クマ崎さん」のお話】

◾️クマ崎さんのお留守番
https://note.com/icca333/n/nbd4cb5c7fea1

◾️青のチェック
https://note.com/icca333/n/ne0b12b017dde

◾️クマ崎さんのりんご事件
https://note.com/icca333/n/nadbb3dd7d620

◾️足りなかったもの
https://note.com/icca333/n/ne6b6f7b97377

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