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パン屋日記 #42 鬼ヶ島店

本当のパン屋日記は、
修羅場に次ぐ修羅場です。

ほっこりする暇なんて、一つもありません。


当店は、
広島のみで展開しているローカルチェーン
「どうぶつベーカリー」の本店です。

当店の他にもいくつかの支店があり

大型予約などで人手が足りないときは、
社員が行き来して 店同士で助け合っています。


ある日、

弊社の稼ぎ頭である「鬼ヶ島店」の
ベテラン女性社員が

仲が良かったはずのベテラン女店長と

めっちゃケンカをして、突然辞めました。

ベテラン女性社員は、
それはそれは怖い人で

わたしは心の中で、
「女鬼軍曹」と呼んでいました。

彼女は長年、
傍若無人に振る舞い

たくさんの人を
傷つけていたように思います。

女鬼軍曹と一緒にすすんで働いたのは、
坂下先生ただ一人でした。

「よく(軍曹)さんと働けますね」
と感服して申し上げると、

「怖いのは怖いんですけど、
(軍曹)さんはめちゃめちゃ仕事が速いので、
 効率の勉強になるんです」

とおっしゃるのでした。


鬼ヶ島店では、
その女鬼軍曹が原因で

何人もの従業員が心を病んだり、
退職したりしました。

新しい人を採用するも続かず、
慢性的な人手不足。

その上、
軍曹自身が突然退職してしまったので、
鬼ヶ島店は窮地に陥りました。


経緯が経緯なだけに、
鬼ヶ島店を助けることについて
みんな消極的でした。

鬼ヶ島店をすすんで助けに行ったのは、

そう

坂下先生、ただ一人でした。

「どうしてあんな店を助けに行くのか」と、

後輩社員のこうめちゃんは、
ほとんど怒っていました。

人手が足りないのは、どこも同じなのです。

わたしは、坂下先生の「どうして」に
一つだけ心当たりがありました。

坂下先生がどうぶつベーカリーに就職したのは、
高校卒業後まもなくのこと。

まだ何もできない坂下先生は、
せめて大きな声を出して頑張ろうと思い

「いらっしゃいませ!
 いらっしゃいませ!
 ありがとうございました!
 ありがとうございました!」

と、一生懸命声を出していました。

そんな時、当時本店で働いていた女鬼軍曹が

坂下先生のところへつかつかとやってきて、
氷の釘を刺しました。

「ちょっと、うるさいんやけど。
 雰囲気壊れるけんやめてくれる」

軍曹がプイとその場を離れると、

驚いて固まっている坂下先生のうしろから、
女店長がひと言。


「わたしは、いいと思うけどなあ」


その女店長こそが、
現・鬼ヶ島店の女店長なのです。


わたしが知っている
坂下先生と鬼ヶ島店長のエピソードは、
それ一つきり。

わたしは、
「どうしてあんな店を助けに行くのか」という
こうめちゃんの気持ちもわかりますし、

あのひと言が、

入社直後の坂下先生の心を
どれほどあたたかく溶かしたかということも、
よくわかります。


ところで最近のわたしは、

一見やさしそうに見える
鬼ヶ島店の女店長が

「あの女鬼軍曹とケンカして、
 軍曹が辞めるほど勝ち切った」

という事実の恐ろしさに

(ねえ、みんな、気づいてる?)

と、そわそわが止まらないのでした。


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