同性愛者の解離

今回は心理学における解離という現象と同性愛の関係性について書きたいと思います。
※解離についての解説はこちらになります。

また心理学における解離という現象を社会現象として捉えるという内容の記事がこちらになります。
こちらも今回の記事と関係が深いので読んでみてください。

まず初めに伝えなければいけない事は僕がゲイであるという事です。
そもそもこのnoteを始めるキッカケはnoteで自分がゲイであるという事をカミングアウトした事にあります。
※カミングアウトの記事はこちらになります。
初めて書いたnote記事がこちらになるので、今とはだいぶ文章の書き方などが違うと思いますがよかったら読んでみてください。

同性愛者の人たちというのは自分が同性愛者かもしれないと気が付いた時に多くの場合、困惑するでしょう。
近年では多様性などという言葉が浸透してマイノリティに対して理解を示すように促されたり、寛容である事が求められてはいます。
しかしながら実際のところ世の中はまだまだ異性愛者である事を前提に動いているのも現実です。たとえば男性であれば女性に対して恋愛感情を持つものであるという前提で「彼女はいるんですか?」と聞かれたりする事も多いでしょう。

その為、自分が同性愛者だと誰にも言えなくなってしまったり、自分が同性愛者だと認めたくないというような心理が働いたりする事が多いでしょう。
今現在同性愛者である事をオープンにして生きている人たちも多くの場合は周囲の人たちに対して同性愛者である事を隠してきた時期があるでしょう。
僕自身もそうでした。
今回の記事はこの同性愛者である事を隠す事によって生じる弊害を心理学における解離と絡めて考えてみたいと思っています。

同性愛者である事を隠す為には同性愛者ではない自分を演出するという戦略があります。
多数派である異性愛者たちの前で同じように異性が好きであるフリをするのです。
これはつまり自分に嘘をつくという事です。

あるいは恋愛について話すとどうしても自分の性的指向の話がネックになってしまうので、そもそも恋愛の話を極端に避けるというようなパターンも想定できるでしょう。
これによって自己開示する事そのものが阻害されてしまう場合もあるでしょう。
酷い場合には人との関わりそのものを避けたり、拒絶してしまう事に繋がってしまうのです。

同性愛者にとって困難な時期はやはり思春期になってくるでしょう。
クラスメイトの同性の同級生に対してドキドキしたり性欲などが湧くようになれば嫌でも自分が同性愛者である事を認めざるを得ません。
しかし同性愛者の思春期における困難というのは決してこれだけではありません。

同性愛者は異性愛者に比べてイジメに遭うリスクが非常に高いのです。
同性愛者である事を隠そうとする事で自己開示や自己主張が難しくなった人たちはどうしても弱気になってしまい何処か振る舞い方がぎこちなくなります。
イジメをする人というのは相手の弱みにつけ込んでくるため、同性愛者の人たちはイジメのターゲットに選ばれやすくなるのです。

また同性愛者の言動には一定の傾向がある事は多くの人が認識している事でしょう。
ゲイであれば異性愛者の男性に比べて言動が女性的な傾向があります。
レズであれば異性愛者の女性に比べて言動が男性的な傾向があります。
(これはあくまで傾向の話で全員がそうだという意味ではありませんし、男性らしいとか女性らしいという表現もあくまで男性にはこういう傾向があるとか女性にはこういう傾向があるというだけの話です)

僕の場合は自分がゲイなのでレズに関してはまだまだ分からない事が多いので、ここではゲイの例をメインに扱っていきますが、ゲイの男性は男社会に馴染む事に困難を感じる人が多いように思います。
今の10代の子たちがどうなのかは分かりかねますが、ゲイの人に多い女性的な言動に対してはオカマだとかホモなどと言われてイジメられるのは定番ではないでしょうか。
特に異性愛者男性は同性愛者の男性に対して嫌悪感や抵抗感を示す人が女性よりも多いように感じます。

このようにゲイの人は学校などで馴染むのに苦労する場合が非常に多いです(特に男社会)。
女性的な傾向が強い為にそもそも趣味嗜好が合わなかったり、コミュニティの中で浮いてしまったりという苦労もある上にゲイである事を隠す事に神経を使うという困難はまだ未成熟な10代の子供たちにとってあまりにも大きすぎるストレスだと思います。

思春期の同性愛者はイジメなどのリスクを避ける為に自身の中性的な言動を矯正しようと努力をしたり、異性に興味があるフリをしたりする事で神経をすり減らして自分らしくいられない時間を過ごす人がとても多くなります。
異性愛者と比べるとキャラを演じたり、自分を偽らざるを得なくなる人が多いのです。
ここで行われるのがまさに解離なのです。

解離とは自分の人格の一部を切り離して他人事にするという自己防衛戦略です。
解離性障害などのように精神科や心療内科で診断されるようなケースに限らず、軽い解離の場合であればそれなりに身近にある防衛機制の一つと言えるでしょう。
これが軽い解離で済むのであればさほど大きな問題にはなりません。

しかしながら同性愛者の場合は同性愛者である自分を切り離して他人事にするという苦しい生き方をしているだけでなく、同性同士のコミュニティの中で浮きやすくイジメに遭う場合が多いです。
親しい友人ができてカミングアウトをしてその友人に理解してもらうなどのパターンであればまだ救いはありますが、誰にもカミングアウトする事もできずに同性愛者である自分を隠している中でイジメに遭うというのは深刻なストレスになります。
このような事から同性愛者は解離が発生しやすいのではないかと推測しています。

異性愛者でもイジメなどを理由に解離が起こる場合はありますが、同性愛者の場合はそもそも性的指向を隠す為に普段から解離をしているのに近い状態で生きています。
それも何年も継続的にです。
性的指向を隠すという土台がある事でストレスに対して解離で対処しようとする傾向が強くなるのではないかというのが僕の仮説です。

そしてここから完全に僕の経験則なのですが、今までたくさんゲイの人たちと出会ってきましたがゲイの人たちには複雑性PTSD(あるいは発達性トラウマ障害)のような状態になっている人が多いのではないかという事です。

※複雑性PTSDの症状をChatGPTより引用します。

  1. 感情調整の困難

    • 感情のコントロールが難しい。

    • 激しい感情の波が頻繁に起こる。

  2. 自己認識の変化

    • 自己価値の低下。

    • 無力感や罪悪感の強まり。

  3. 関係性の変化

    • 他人との信頼関係が築きにくい。

    • 親密な関係を避ける傾向がある。

  4. 回避行動

    • トラウマ体験に関連する場所や人を避ける。

    • 日常生活の活動を回避する。

  5. 再体験

    • トラウマのフラッシュバックや悪夢。

    • 突然のトラウマ記憶の再体験。

  6. 過覚醒

    • 過度の警戒心や驚きやすさ。

    • 睡眠障害。

  7. 認知および気分の変化

    • 記憶の問題や集中力の低下。

    • 持続的な否定的な感情。

また複雑性PTSDについては過去にこちらの記事で扱っているのでこちらも読んでみてください。

複雑性PTSDは親からの性的虐待やDVなどが長期的に続く事が発症の原因として語られやすいのですが、長期的なイジメなどを理由に発症する場合もあります。
複雑性PTSDを語る上ではやはり解離という現象が非常に重要になってきます。
複雑性PTSDはトラウマ体験の痛みを解離でやり過ごす事の繰り返しで発症します。
同性愛者である事を隠して自分らしい振る舞いを抑圧しているという解離が起きやすい土台の上にさらに長期的なイジメなどが起これば、複雑性PTSDになるのも不思議ではありません。

複雑性PTSDのようにトラウマをたくさん抱えたまま生きている人というのは傷が無数に表出している状態と言えるでしょう。
痛風が「風が吹いても痛い」と言われるのに少し似ています。
特に解離が解けている状態だと他人から言われたちょっとした一言などで激しい精神的な痛みを伴う場合があります。

また、僕は新宿二丁目のコミュニティに関してもこの解離の現象が当てはまるような気がしてなりません。
解離を起こして自分を切り離す事で自己を喪失し、そしてその時に躁的な傾向が出て双極性障害Ⅱ型のような症状が出ると言われています。
(ここではこれを解離的躁転とでも呼びましょうか)
双極性障害Ⅱ型自体が実は解離と関係のある病態なのではないか?という仮説も浮かびましたが、この辺りはまだあまり詳しくないのでとりあえず置いておきます。
僕は新宿二丁目にはこのような躁的な雰囲気が非常に強いのではないかと感じています。

これは普段は同性愛者である事を隠して生きているという事による反動という側面が強いでしょう。
同性愛者ではない自分として生きてきている人が、逆に同性愛者という側面だけを切り取って過ごす場が新宿二丁目的なコミュニティなのではないでしょうか。
確かに新宿二丁目においては同性愛者である事はオープンにできますが、だからと言ってそれがありのままであるかというと違うのではないかと僕は思っています。
同性愛者であるという事はその人のほんの一要素でしかないのにそこだけを誇張して主張するというのがありのままであるとか等身大であるとはとても思えないのです。

解離によって自己を喪失し、自己がないからこそハメを外せる、周りの目を気にしないでぶっ飛んだ事ができる、これが解離性躁転の特徴です。
自己があれば傷つくリスクがある、周りの目が気になる、でも自分がいるという感覚ごと喪失してしまえばなんでもできるという全能感のようなものを手にすることができるのです。

新宿二丁目に行った事がある人もそうでない人もなんとなくイメージが湧くのかもしれませんが、新宿二丁目というのは閉鎖的な空間においてハメを外して躁状態になるという類の空虚さをドーパミンで誤魔化す雰囲気が強いのではないでしょうか。
いわゆるオネエ的なキャラの店主が誇張したキャラでズバズバと切り込んで下ネタや自虐ネタやイジリなどを勢い良く放つ事で笑いを取るというようなスタイルが定番なのかなと思っています。
(お店によって違うとは思いますし必ずしもそうではないとは思いますが、あくまで傾向として捉えるとという事です)

冒頭にリンクを貼った「社会的解離」の記事でも書いたような解離的で閉鎖的な社会が新宿二丁目という空間において出来上がってしまっているのではないかと思うのです。
つまり自分の都合の悪い部分をなかった事にして自分の見せたい一部分だけで関わったり、二丁目以外で過ごしている時とは明確にキャラを使い分けてまるで別人であるかのように強気で過ごすという事です。
そしてそれによって自分という存在がまるで割れた鏡のようにバラバラになって自分自身を一人の人間として統合できなくなり、自分を見失ってしまうというまさに解離的な現象が起きやすいのが新宿二丁目であり、同性愛者を始めとするマイノリティコミュニティなのではないでしょうか。
※ゲイの世界の閉鎖性についてはこちらの記事でも解説しています。

僕は決して新宿二丁目が絶対悪であるという事を言いたいわけではありません。
ただ新宿二丁目的なゲイコミュニティというのが同性愛者の人たちが同性愛者である事を切り離して生きている事によって起こる解離やそれに伴う解離性躁転というものを分かりやすく表している存在であるという事が伝えたいのです。
新宿二丁目のようなゲイコミュニティというのは社会的解離の記事で書いたような解離的社会の縮図とも言えるものでしょう。
新宿二丁目でしかオープンでいられないというような人にとっては自分を解放できる場所として捉えられるのかもしれませんが、そもそも論で言うのであれば新宿二丁目のようなコミュニティが必要なくなるくらい同性愛者の人がオープンに生きる事が当たり前になる方が本当は望ましいのではないかというのが僕の率直な感想です。

ゲイに限らずの話ですが、マイノリティはマイノリティ同士でだけ関わればいいというような流れは多様性とはまるで真逆の方向性に向かっていると言えるでしょう。
否定はしないけど肯定もしない、同じ仲間同士で誰にも迷惑をかけずに勝手にやっていく分にはいいんじゃない?というような感覚なのでしょう。
もちろんそれが全て間違っているとは思いません。

しかしながら本来であればマイノリティがマイノリティ性を公言する事が特に問題視される事もなくありのままが受容されていく事が望ましいと思いますし、そのような土台があれば無理に新宿二丁目のような閉鎖的ゲイコミュニティに依存する必要はないのではないのかと思います。
僕には新宿二丁目にいる躁的なキャラの同性愛者たちがありのままであるとか自然体であるという風には到底思えないのです。
過去の記事で僕はこのように書いた事があります。

本人としては「ありのまま」のつもりなのにありのままじゃないという厄介な現象が起きます。
ある種、そのような人がわざわざ自分と向き合おうとする事は本人の体感としてはむしろありのままではないのかもしれません。

これはつまり今の自分の姿がありのままであると思い込んでいるありのままを喪失した人たちがたくさんいるということです。
そして彼らの作り上げた擬似的なありのままに対して「それは不自然ではないか」と指摘をしても彼らは自分自身のありのままを否定されたと認識してしまうのです。
解離性躁転による躁的自己防衛の厄介さはそこにあります。

解離性躁転にはある種の全能感が伴います。
それは時には自己愛性パーソナリティのように強烈な誇大妄想を生み出すものです。
そこに対して彼らにとってのネガティブな指摘をするという事はこの全能感に水を差すようなものです。
(このように自分はなんでもできるという強気な態度は幼児などに見られるものでこれを幼児的万能感などと呼んだりします)

そしてこのような過剰な自己愛による万能感というものは同時にありのままの等身大の自分を否定する事に繋がります。
つまり自分自身の一部分を無視した上での自己受容というものは逆説的には自己否定と同じという事です。
根っこには受け入れ難い都合の悪い自分や劣等感が存在しており、間接的にそれらを否定•拒絶しているセルフネグレクト的な精神状態であると言えるでしょう。

近年ではLGBTの人権を訴えるようなパレードなども盛んになってきています。
しかしながらこのようなパレードも何処か解離性躁転的な誇張したキャラの爆発の為に利用されているという側面があると考えています。
単なる権利の主張というよりもいつも抑圧されてオープンにできない人たちが一種の躁状態によって派手な格好をしたりショーをしたり露出度の高い服装でアピールしたりとどことなく演技性パーソナリティ的な雰囲気を感じてしまうのです。

LGBTという存在がどうしてもイロモノ扱いされてしまうのはそこにも原因があるように思えます。
無論、法律に触れない限りであればパレードなどにおいて自由に表現する事に関しては「やめろ」というつもりはありません。
しかしながらそれらが何処かイロモノ的で不自然なものとして捉えられてしまうのも仕方がない事ではないかと思いますし、果たしてそのようなパレードが本当の意味でのLGBTに対しての権利主張に繋がっているのかどうかは考えなくてはなりません。

ごく普通に日常の中にLGBTの人たちが生活しているのであるという根っこの1番大切な部分が誇張したキャラの主張によって正しく伝わっていないというのが現状ではないでしょうか。
確かに派手なキャラの誇張をする事で注目はされやすくはなりますし、話題にはなるでしょう。
しかしながら多くのLGBTは決して常にショー的な生き方をしているわけではありません。
ごく普通に異性愛者とまるで変わらない同じ人間として日常を送っているという事が正しく伝わってくれる事を願うばかりです。

※同性愛者の生きづらさについてはこちらの記事でも書いてありますので読んでみてください。


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