考えて分析しても減らない感動

何かに感動した場合、それを理論的に説明したり、分析的な言論で表すことが出来ます。

しかし、「言葉で説明するのは野暮」と言う考え方に代表されるように、感動と言葉での説明は相容れないと言う見方があります。
それは何故かと言えば、その試みによって、感動が冷めてしまったり、純粋な気持ちが失われてしまう事があるからでしょう。

例えば、自分にとって絶対的に感じられる大切な感動が、技術的なものとして語られたり、誰にでも当てはまる普通のものとして説明されるようで特別なものと感じる妨げになったり、と言った理由です。


しかし、逆に言えば、分析したり言葉で表すことによっても感動が減らなかったり、むしろ理解によって増すのであれば、それは否定する必要の無い素晴らしい試みだと言えます。


例えば、レストランに行って、料理の味はもちろん、お店の内装や、スタッフのおもてなしなど、全てが素晴らしくて感動したとします。

その経験だけでも十分に良い思い出になりますが、「この料理がこういう調理法なのは、こうやって美味しさを損なわずに保つ知恵が詰まっているんだ」、「あのスタッフのおもてなしには、こういう配慮があるんだ」などを知ったとします。

当然、人の好みにはよるのですが、「相手がそこに込めた思いやり」、「良い結果を生むための精いっぱいの工夫」などを言葉で理解して知ることは、その感動をむしろ深く理解する助けにもなるのではないか、と感じます。


逆に、言葉だけ理解して「大したことないものだ」と断じたり、知識の優越でマウントを取るような言論は、感動を薄れさせるものになるでしょう。

つまり、分析したり、言葉で語ることに良し悪しがあるのではなく、「その言葉による理解がどんな意図に基づいているか?」が大事なのだと考えます。


※丁度最近、東京ゲームショウ2020 オンラインのSQUARE ENIXの配信で、感動を言葉で表しつつ、さらにその感動を増したり、深く知って共有したりと言う試みがあったので、とても共感しました。

・【FF9】この曲ヤバい!なんかイイ!からの卒業 ゲーマーのための語彙力教室−前編−【ゲームさんぽ@TGS2020】
https://www.youtube.com/watch?v=r05g9m4DBv0


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