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指のない彼とのこと

前の記事でも触れたように、私は少しの間児童相談所の一時保護施設で暮らしていた。
入所から1か月ほどで自宅に戻ることはできたけれど、その後も大体月に1度のペースで児童相談所に通うことになった。
そこは結構へんぴなところにあったので、バスがあまり通ってなかった。
そのため児童相談所の職員さんが送迎をしてもらえるように手配してくれた。

「着いたら運転手の人がインターホンを鳴らすと思うから、そしたら車で送ってもらってきてね。」

私が初めて送迎してもらった日。
学校から帰って、家で少し待っているとインターホンが鳴った。

「迎えに来ました。ロビーで待っていますね。」

はい、と返事をしてロビーに降りていくと、スーツを着た30代後半くらいの男性が待っていた。恰幅の良い彼は少し額に汗をかいていて、清潔そうな白いハンカチでその汗を拭っていた。
そして、私は彼と一緒に車まで向かった。彼は「後ろに乗ってね」と言いながら、後部座席のドアを開けてくれた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
私がシートベルトを締め終わるまで、彼はドアを開けながら私のことを見ていた。
そして彼も車に乗り込み、エンジンをかけた。
私はその時サイドブレーキに添えられた彼の左手をみて、咄嗟に目を逸らしてしまった。
彼の左手には、指が一本もなかった。
「あんまり見ちゃだめだ」と思った。
だけど視線を下に移した後、色々詮索してしまった。

―どうして彼には指が無いのだろう。生まれつき?それとも事故?
彼はどうやって右手を洗ったり、右手の爪を切ったりするのだろう。
指が無いって、一体どんな感じなんだろう。

そうして、再度そっと彼の左手を盗み見た。
やっぱり、指はなかった。
だけど彼の左手の血色は良く、肌艶も良かった。

私の視線に気づいたのか、彼が話しかけてきた。
「驚いたでしょ。ごめんね。」
私は上手く答えられず、俯いたままだった。
驚いたことは事実だったけれど、それを言うのはいけない気がした。
そして私は、彼にこんなことを言わせてしまう配慮のない自分を恥じた。
「機械に巻き込まれちゃったの。」
「大丈夫だよ。指が無くても、ちゃんと運転できるからね。」
彼はその後、私に何気ない質問をしたり、自分のことを話したりした。私は質問に答えたり、彼の話に相槌を打ったりした。できるだけ、彼の左手は見ないようにした。

児童相談所に着き、私がシートベルトを外して車から降りようとすると、「ドアは開けてあげるから、待っていてね。」と言われた。
何だか申し訳ない気持ちになった。

車から降りて、二人で一緒に児童相談所の階段を上った。
そこは大きな窓があるのにいつも薄暗くて、空気がひんやりしていた。そのせいで窓に貼ってある折り紙で作られたチューリップの色はくすんで見えた。赤色のも、ピンク色のも、黄色いのも、オレンジ色のも、全部。
彼は「また帰りは送っていくからね。」と言い、私のことを私の担当の職員さんに引き継いでくれた。
1時間ほどの面談を終えてロビーに戻ると、彼が座って待っていた。
職員さんが「じゃあ、よろしくお願いします。」と言ったのにつられて私も「よろしくお願いします。」と言って頭を下げた。
「行こうか。」と彼が言ったので、私は彼の後に続いて階段を降りた。
恰幅のいい彼が階段を降りる時、私は少し冷や冷やした。
前につんのめって、転んではしまわないかと。
彼は指が無いから、転んだとしても上手く体を支えられない。
それでも下りの時は右手で手すりに摑まることができたので「良かった。」と思った。

車に乗るとき、また彼は車のドアを開けてくれた。
その開けてくれた彼の右手の薬指には、銀色の指輪がはめられていた。

「コンビニとか寄りたいところはある?もしあるなら、寄ってあげるよ。」
「特にないです。ありがとうございます。」

彼と少し会話をした後、なぜか私は彼に突然尋ねてしまった。

「不便じゃないんですか。」
「うん?」
「指がないと・・・。」

私の失礼な質問にも彼は、声色一つ変えずに答えてくれた。
「不便だよ。」
「でも指があった頃より、今の方がずっと器用だよ。」
彼と指の話をしたのは、これが最初で最後だった。

そうしているうちに家に到着し、彼がまたドアを開けてくれた。
私はそれまで大人しく待っていた。

「ありがとうございました。」と言うと、彼は「うん、またね。」と笑って手を振ってから、車に乗り込んだ。
私は彼の乗った車がゆっくり発車するところを見送った後、マンションに入った。

私が彼に送ってもらったのは、その日と次の時の2回だけだった。
それから3年は会っていないし、これから会うことも多分ない。

先日自動車学校の入校手続きをしている時にふと思い出した、彼のこと。
過去にとらわれていた私を「今の方がずっと器用だよ。」という言葉が勇気づけてくれたことも一緒に思い出して、ふいに泣きそうになってしまった。

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