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時間はたっぷりとあるんだ、感じとるのが難しいだけで『モモ』

やあ、僕だよ。
「時間がない」ってつい口にしてしまうよね。

人生っていうのは、楽しいことややることが沢山ある時はごく短く感じるって話だけれど、残念ながら、実際は楽しいことで短く感じる瞬間ってそうそうないと僕は思うんだ。

そうやって日々の雑事に忙殺されて、冷ややかな「灰色の男たち」を呼び込んでしまう自分に嫌気がさすと、ある女の子の物語を読みたくなる。

今日は僕の大好きなミヒャエル・エンデの一冊だよ。
毎回読む度に、「ああ、向き合う、、、、時間があるってなんて素晴らしいんだろう!」って感じるね。
今度こそ、この感覚を忘れないように君たちにもおすそ分けしてあげようと思う。

さあ、始めようか。
今日も楽しんでくれると嬉しいな。

本作あらすじと感想

ミヒャエル・エンデで一番人気があるのは本作ではなかろうか。
言わずと知れた、少女「モモ」の時をかける大冒険の物語。

 小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
 でもそれはまちがいです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです。

「聞く」力を持つ小さな「モモ」のことが街の人たちはみんな大好きで、「モモ」自身も度々会いに来てくれる街の人たちのことが大好きで、序盤は至極ハッピーである。

しかし、「灰色の男たち」が登場し、存在感が増せば増すほど、街の人たちは「モモ」から遠ざかっていく。
最初はたまに訪れていた大人たち、次は大人だけど親友の「ジジ」と「ベッポ」、最後に子どもたち。

それでも「モモ」に会えば、にこやかに接しようと試みてくれるのだけれど、「灰色の男たち」が急き立てて、上手く「モモ」と会うことが出来ないのだ。
なんという悲劇。可哀想な「モモ」!

結局のところ、街の人に邪険にされようが、大好きな人たちを助けるために「モモ」は勇猛果敢、「灰色の男たち」を討ち果たした。
ここに至るまでの「マイスター・ホラ」の部屋や、「カシオペイヤ」と歩く道程の描写の見事なこと。

小学生の心をくすぐる造形ばかり出てくる。
「思想が強すぎ」とか言われる本作だけれど、「別にいいじゃないか、それくらい」と言いたくなるほど、僕は昔からこの物語が好きだ(幼い頃読んだ時は、まるで意味がわからなかったが)。
これだから、児童向けファンタジーはやめられない。

ちなみに、ところどころ挟まれる挿絵はすべてエンデの自作。
お父さんもどうやら幻想チックな絵が得意だった画家らしく、血は争えない出来栄えだ。
まったく。文章も絵もかけるなんて、ずるいにもほどがあるね。

なお、エンデは親日派で晩年の奥さんは日本人だった。
しかも最も有名な『はてしない物語』(映画『ネバーエンディング・ストーリー』原作)の翻訳者だというから驚きである。
人生までロマンチックでなければ、ファンタジー作家は務まらないのかもしれない。

灰色の男たちとモモと僕

結論から言ってしまうと、僕はこの本を読み返す度に、「灰色の男たち」も「モモ」も自分自身な気がしてくる。

自分の時間を奪うのは自分だし、自分の時間を慈しむのも自分なのだ。

小学生の時にこれに気づいていればなと思うのだけれど、気づくような小学生はすでに「灰色の男たち」の存在を感知しているということだから、それはそれで良いとも言えない気がするので、やっぱり大人になったタイミングでよかった。

確かに思想が強いきらいはあるものの、下手な自己啓発本だの、時間マネジメント本だのを読むくらいなら、よっぽどこの少女の方が物を知っている。
まあ、僕がファンタジー好きなだけっていう説もあるっちゃあるのだが。

もうすでに1月下旬で震えてる

もう新年でも何でもない、普通の時期になってしまった。
それこそ、豆やチョコレートが至るところに感じられる時期へ差し掛かっている。

僕は出産までに育児トピック以外でやりたいことが山ほどあって、でもほぼまったく手をつけられていなくて、項垂れる日々を過ごしている。
(1月に入ってからのnoteの投稿状況からも、察するに余りあるだろう。実に嘆かわしい。)

着々と、「書く」のが楽しいと感じられるようになってきたのに、椅子に20分座るだけで体が軋むのだ。尻も腰も痛い。
かといってスマホで「書く」のにも慣れない。広い画面で記事の字面を確認できないのが、どうしても我慢ならないらしい。

それに、バカみたいで恥ずかしい限りだが、僕はキーボードを叩くのが好きなんだと思うのだ。
コールセンター勤務を何だかんだ楽しめたのも、キーボードを叩く時間が長かったからではなかろうか。

優しい顔した灰色の男たち=スマホ

それに、スマホは便利すぎるのがいけない。
娯楽にすぐアクセスできてしまって、「モモ」に会う時間が本当になくなる。
しかもひと昔前みたいに、鼻息荒く「効率」を求めてこないのがタチが悪い。

何もしなくても、スマホは僕の好みを重々把握していて、的確に興味のあるものを次々に提示してくる。
僕がやることはせいぜいタップかスワイプくらいで、これこそ「効率」を極めた娯楽なのに、それらしく見えないから油断し、いつの間にか「時間どろぼう」されているのだ。

しかも、余白がないものだから、娯楽と言えるかも怪しい。
僕は日々、何に「時間」を費やしてるのだろう。

セネカさんがあれだけ口酸っぱく「明日死ぬかもしれないのに、その人生の使い方でいいんだな?」と問いかけてくれたのに、すでに忘れかけている。
ああ、どうしてこうも僕はすぐに忘れてしまうのか。愚図で頭の悪い生き物。本当、嫌になっちゃう。

僕のモモは遺憾の意を表明しています

「いい加減にしたまえ、君。一体何度同じことを繰り返せば気が済むんだ」などと、僕の「モモ」はふんぞり返っている。

話を「聞く」のが上手いとは言い難い態度のように思えるが、それでいてきちんと向き合えば、、、、、必ず聞いてくれるし、彼女に聞いてもらうと、自然とよい答えが浮かんだり、浮かばなくてもよい方向へ事態が進展していく。

なるべく彼女の機嫌をなだめてやりたいけれど、如何せん体の痛みと酸素不足(妊婦は呼吸が荒い)は僕の自由を奪う。
いつもならすぐに解決することが、全然解決しない。

「やりたいとやらねばならないを混同するから焦るのだ。え?君、そうだろう。昔もそうやって雑に振り分けていたから、痛い目を見たんじゃないのか」

まさにおっしゃる通り。
このやりたいは今すぐでなくても、一向に問題ない事柄である。
そりゃ新しいことを始めるのなら、遅いより早いにこしたことはないのだけれど、それで心を鬱々とするほど差し迫ったものでない。

それに、本当にやりたいならいつだって出来る。
生きるために必要最低限の行動しか出来ないなら、それもまたよし。
痛いなら痛いなりのやり過ごし方がある。僕は気づいていながら、何もしないのがただ怖い一心で、何かをやろうとポーズをして、ポーズだけの自分に焦っている。

「ようく分かってきたじゃないか。体が動かないのだから、ポーズ出来るだけ感謝して欲しいものだね。君は一時死のうとしてたくらいなんだ、生きてるだけでも幸運ではないのかね」

このおしゃべりな「モモ」は焦る自分に否定的だけれど、僕は焦る自分も大事にしてやりたいと思っている。
見栄を張りたいこいつがいなければ、成し遂げられなかったものも少なからずあったし、これからもそうだからだ。

マイスター・ホラは言った「人間には時間を感じとるために心というものがある」と

あっという間に過ぎてしまった1月、僕は果たして「時間」を感じとれていただろうか。

あらゆる不快感から逃げたいがために、感じとることからも逃げていたように思う。
それでもいい。でももっと、自ら選択してちゃんと逃げたい。
何だか悪いことをしているみたいに逃げなくてもいい、つまり、急き立てられるように逃げなくてもいいのだ。

逃げること自体が問題だと思っていたけれど、こうして振り返ってみると逃げる方法が問題だったらしい。

痛いしだるいしテンションが上がらないので、僕は眠る。誰にも迷惑はかけていないし、将来の僕も困らない。
たかだか2か月何も出来ないくらいで、僕のやってきたことがなくなるわけじゃないのだ。

僕の「モモ」はいつの間にか、怖い顔もキツいおしゃべりも止めた。
にっこり笑うわけでもなく、退屈そうに足をブラブラさせている。

そうして、「やっぱり、彼女に話を聞いてもらってよかった」と心から僕は思うのである。



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