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健全さの先でその夜をやり過ごす物語の話ー「少女の亡国」を遊んで思ったことー【ショートエッセイ】

再演される平成


 先日、ノベルゲームの「少女の亡国」を遊びました。

 「平成メンヘラ文学」「少し鬱」と銘打つ通り、私が生きた「あの時代のうつ」に溢れた作品でした。デザイン・BGM・物語・ガラケーというUI、全てに統一性があり、同時に「少しSF」と書かれている通りSF的な展開とちょっとした物語の逆転があり、最後には拍手を送った見事な作品でした。

 今作を遊んでいると自然と「あの頃」を思い出します。

 そもそも、「メンヘラ」がまだ単なる蔑称じゃなく自虐的な自称で、言い方も「メンヘラ」と「メンヘラー」がいた、そんな時代。

仄暗くて
漠然と絶望していて
ふわふわとたゆたっていて
時計が止まっているようで
とりとめもなくて
陰惨なのにポップで
何かに依存してて
死が身近でだけど、深刻に捉えられていなくて
なぜか、美しく感じてしまう

 そんな優しいのに甘美な世界が、若者、特に少女に儚く収斂される物語。かわいいパステルピンクが痛々しく、悲しく見える。そんな時代性を再演する物語でした。
 余談ですが私は自分がよく遊ぶ個人制作ノベルゲームを語るキーワードの一つに「再演」があると思っているので今作はそういう意味でも刺さる作品でした。それはいつかちゃんと語ります。

不健全に浮かんで


読み進める間、そして読み終えた後。

私がまだ若かったり青年だった頃を色々と思い出しました


深夜に長電話しすぎて通話代2万超えて怒られたなぁ、とか

ガラケーのメールの着信音鳴る前のちょっとした「間」で受信わかるようになってた、とか

そういえば電話帳をあだ名で登録しなくなったのはいつからだろう、とか

そもそも着メロも個別で設定しなくなったな、とか

ネットラジオで色んなここで言えない体験談聴いてたよね、とか

残酷な画像のリンク流れて来たな、とか

夜眠れなくて、朝になってやっと眠れるとか結構あったな、とか

手首の傷を見せてきたのが男女問わずいたけどあいつら元気かな、とか

人が死んだり殺したりする小説書いてたな、とか


きっと、ありふれていた、物語の一つ。

 今考えると、いや当時からして健全とはいえないですよね。昼夜逆転しないで早く寝た方がいいですし、残酷なものは見ない方がトラウマも生まれないし。まあ死んだり殺したりする小説は数年前まで書いてましたが。現代の感覚で語ると受け入れられないような日々を、私も、周りの人達にも送っている人がいました。
 ここ5年ぐらいそんなことしちゃいけないよと真顔で諭すツイートがバズってそうな、自らをちょっとずつ傷つけるような日々。同じ方向に歩く人達と寄り添い合ったり、寄り添っていなかったような、あの頃。
 何か例示したいなと思って、ネットを検索してもうまく見つからない、でも確かにあったあの空気。本当にああいうのどこに残ってるんでしょう…。ガラケーのサイトとか?個人サイト・ブログとか?

 それこそ「少女の亡国」が着想を得たと公言しているアーバンギャルドなどはその空気感を今に伝えているのかもしれません。「鬱フェス」ってすごいな…。

 きっと、「あんなことしなかった」方がよかったのでしょう。

 「健全」に生きられるなら、そっちを目指すべきだったのでしょう。

 今、こういう行動って、当時の「メンヘラ」とか「うつ」とかいう語られ方よりもっとちゃんとした「問題」して扱われ、実際にどのようなケアや変革、言ってしまえば「改善」を、自分なり周囲、あるいは社会全体がするべき、という扱いになっていると思います。
 そしてそれは基本的にはいいことだと思うんですよね。その上で「でも、でもさ」って言いたくなる気持ちはあります。
 最近SNSで見る●●した方がいいよ、▲▲しないほうがいいよ、っていう健康やマインド、あるいは態度に関するアドバイスがSNSでよく流れてきます。そこの少ないものにあの頃の私たちみたいにならないように、っていうあの時代への反省の要素を感じるんですよね。もしかしたら自意識過剰なのかもしれないですけど。今ってすごく健全になろうとしている時代で、このあたりの時代感はきっと震災とかも関わってくるのでしょう。
 少し話はずれますが破滅的に生きた早逝の天才アーティストの話などでその人の才能より健康の大切さを語る言葉が増えてきたように感じます。

やりすごす夜がやりすごした朝になるまで


 でも、当時の私や、彼女たち、彼らには必要だった、きっとそうするしかなかったし、それは大切なことだったんだと思うんですよね。

家族とか、
未来とか、
自分自身の存在とか、
全てが何となく不安で、

絶望してるんだけど、
でもその絶望はどこかさっぱりとしていて、

淡々と破滅的で、

でも常に言葉にできない重いものが乗っかって、
その重さに耐えるのに精いっぱいで、

「普通の人間」という想像上の何かのようにはできなくて、

自分が「人間ごっこ」をしているなにかのように思えてきたりして、
逆にそれをうそぶく様に誇るようになって、

声が出すべき時に出なくて、
出すべきじゃない時に出て、

誰かとつながっていないとやっていられなくて、

でも「キラキラ」な人達と繋がる糸は持っていなくて、

やっと、同じ何かを共有できる誰か、何かと糸が結ばれて、

それがほどけたら終わってしまいそうで、終わらせてしまいそうで。


 そんな気持ちに苛まれた時、その夜をやりすごすために必要な時間、場所、物語。

 そういうものがあったよな
、ってことを思い返しました。

 私にとってはそれが
深夜ラジオだったり、
「ポケットの中の戦争」が面白いことを教えてくれたネットラジオだったり、
田口ランディさんの小説だったり、
月乃光司さんのポエトリーリーディングだったり、
でんぱ組.incの曲だったり、
友人との電話やメールだったりしたのでしょうし、

きっと当時に会ったら「少女の亡国」もその一つになったでしょう。

 そんなものたちにしがみついて、眠れない夜がちょっと眠れる朝になるまでやりすごしていたあの時間
 確かに今考えれば不健康で不健全だし、ぐっすり眠れる方がよかったのかもしれないけど、それでも今の自分を作った大切な時間なんだよな、と、何かそんなことを考えてしまいました。

今も誰かがやりすごす

 そういえば、あの頃の僕たち、彼女たち、彼らに近い人々って今どこにいるのでしょうか。

 SNS?
 動画配信?
 メタバース?
 路上?

 まあ、きっと今私が触れないその先にいるのでしょう

  たとえば、最近若い世代に人気と言われるBeRealって正直「それはさすがにまずくないか?」って思ってしまい、そして懸念した通りのトラブルが起き続けているのですが、ああいう場所が誰かをつなぎとめたりしているんでしょうか。いや、むしろBeRealについていけないような人達がまた違う場所でやりすごしたりしているのでしょうか。

 まあ、きっと、若者はもっと先に進んでいて、年をとった私には見えないところでなんとかやりすごしているんでしょう。そう納得しておくことにしておきましょう。

 若いころの私も、そこでやりすごしているのをおじさんに覗かれたら嫌だったでしょうしね。

おまけ

 「少女の亡国」の実況を紹介します!本当にまだまだ語りたりない作品です…!


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