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劇場版『鬼滅の刃 無限列車編』感想補足〜煉獄杏寿郎の最期が全く刺さらなかった理由〜

昨日こちらの記事にえらく反応されたのでコメント欄がど偉いことになったわけだが、それだけ人を反応させるだけの文才が私にあったのだなと改めて思う。
だが、一晩経って冷静に見直してみたら、よくよく見ると自分でも曖昧で誤解を招くような書き方をしてしまったのは反省している、後悔は一切していないが
そこで釈明というわけではないが、改めてなぜ煉獄杏寿郎の最期が全く刺さらなかったのかを具体的な論拠を挙げて展開していこう。
なお、私自身の「鬼滅」に対して感じたこと、前回の記事で書いたこと自体は間違っているとは思わないし、たとえそれが「老害」「恥知らず」と呼ばれようが曲げるつもりは毛頭ないので悪しからず。

マニュアル化された感動の押し売り

まず、記事の方でも書いたようにあの映画、というかそもそも原作の「鬼滅」自体が「マニュアル化された感動の押し売り」でしかないというのが個人的見解である。
いってみれば「セカチュー」「恋空」のようないかにも狙ったような感動・お涙頂戴を最初から最後まで一定のペースで続けており、悪い意味でそこは一貫しているだろう。
具体的には敵味方共に「手負事」を多用し「この人物にはこんな悲しい過去があった」という回想による掘り下げの繰り返しがそれに当たる。
まあそれをいうと「ONE PIECE」「NARUTO」も手負事を多用しているのだが、「鬼滅」は更にそこで「泣かせ」に走るからタチが悪い

特に今回の映画はその悪い意味での「これが鬼滅だ!」という特徴が前面に押し出された作りとなっており、これで泣ける人は確かに一定数いるのだろう。
だが私はいかにも作られたようなお涙頂戴の作劇で感動して泣くなんて一回もないし、ましてや煉獄さんのようないかにも「いい人」に描かれている男の最期で泣けるわけがない
何というか、全体を通して作り手の「ほらここ感動のシーンですからねー、決まってますよー、泣いてくださいねー」という薄ら寒い思考が伝わってきて反吐が出る。
確かに煉獄さんは清廉潔白で折り目正しい「好漢」なのであろうが、あからさまに鋳型にはめたような優等生キャラを私は一度たりとて好きになったことはない。

因みに煉獄さんに関して「描写が短いぽっと出のキャラの死で感動できない」という意見を見かけたが、その意見には敢えて与さない。
家庭的な事情も含めて煉獄杏寿郎のキャラ自体は短い尺の中でよく描かれていたと思うし、整合性も取れていて肉体面・精神面共に強さの根拠は描かれている。
だが、その行動パターンが徹頭徹尾優等生キャラのマニュアルから抜け出るものではなく、意外性もなければ幅も全くない「ありがちキャラ」で終わってしまった
もっともそれは煉獄さんに限らず、主人公の炭治郎も善逸も禰逗子もあらゆるキャラクターに言えることであり、初期から設定された以上のものが感じられない

確かに煉獄さんは親の教えを律儀に守り通し無限列車において犠牲者ゼロに抑えたことは素晴らしいのであろうが、それとて決して彼一人で成し遂げた偉業ではないだろう。
被害者をゼロに抑えるというと聞こえは確かにいいが、逆に言えばそれは鬼がそこまで大した脅威ではないということの裏返しなのではないか?
そんな疑問を感じながら見てしまったので、そもそもあの無限列車編の話の流れ自体に私は入り込むことができなかったのである。
その上であんなあからさまな「泣かせ」狙いの演出が感動の押し売りでなくて何なのだという話だ。

そもそも猗窩座と真っ向勝負する必要がない

感動できなかった理由の2つ目はそもそも猗窩座と煉獄が真っ向勝負で戦う必然性がどこにもないからであり、私が泣けなかった理由としてはこれが一番強く挙げられる。
そもそも無限列車で人々を救って疲弊したあの状況で煉獄がわざわざ自分の命を賭してまで戦う必要などなく、態勢を立て直すために時間稼ぎをすればよかったのだ。
煉獄と猗窩座の実力自体に大きな差はなく拮抗していたし、むしろ総合的な経験値なども踏まえれば煉獄の方に分があったような描写が目立っていた。
しかし、炭治郎をはじめ仲間たちが疲弊しきっているこの状況では全力を使っての真っ向勝負は部が悪い、にもかかわらず彼は自己犠牲による特攻を選んでいる。

最初に見た時からこの流れには開いた口が塞がらず困惑のみが募るのだが、なぜ煉獄はわざわざ不利な状況に己を追い込んでしまうのか?
まるで綺麗事の美談に仕立てているが、煉獄がここでその選択をしてしまったのはカッコよくもなんともなく、自業自得でしかない。
あくまでも鬼殺隊としての責務はそれぞれに果たして犠牲者を1人も出さずに済んだのだからそれでいいわけで、ここでは戦略的撤退を選ぶのが賢明な選択である。
確かに猗窩座が炭治郎らを狙うリスクもあるが、それならば煉獄が食い止めている間に炭治郎らが撤退して夜明けまで時間稼ぎすればいいだけだろう。

実際煉獄たちは夜明けまで粘るだけの体力と戦闘力自体はあったのだから(でなければ奥義を使えないし)、ここではいかに消耗を減らして戦うかが鍵である。
戦いに負けるやつのほとんどは「情報不足」が挙げられるのだが、正に煉獄は土壇場での情報解析も含めた総合的な判断力がなかったが故に負けたとしか私には思えなかった。
猗窩座は今何もこの場で殺す必要はなく一旦態勢を立て直し、炭治郎たちが上の鬼と対等に戦えるようになるまで機会を待てばいい話である。
私には一体全体ここでむざむざ戦って殺されに行く煉獄さんの行動の意味がわからないし、これで感動しろといわれても無理な相談だ。

自己犠牲精神に基づく特攻をかけた自決というのはそれ以外に活路を見出せない時にのみ許される手段であって、このシーンはそれに向いていなかった。
それにもかかわらず「どうです?煉獄さんの自己犠牲精神カッコいいでしょ?」とこれ見よがしに見せつけられても興醒めである。
あとは単純に猗窩座自体がそこまで脅威ではなかったというのもそれに拍車をかけていたのだが、要するにシチュエーションと演出の流れが噛み合っていない。

糞の役にも立たぬ炭治郎の遠吠えと反撃

3つ目に挙げられるのはその後の撤退する猗窩座に対しての炭治郎の遠吠えと反撃であり、あんな糞の役にも立たぬ破れかぶれの叫びを聞かされて誰が感動できるのか?

セリフを一々書き留めるのはめんどくさいので動画のリンクを貼っておくが、炭治郎は「煉獄さんは試合に負けて勝負に勝った」みたいな趣旨のことを言いたいのだろう。
だが、上述したようにそもそも煉獄さんのカチコミを決めた特攻自体がする必要のない自業自得でしかない以上、どう考えたって煉獄は試合にも勝負にも負けたのである。
それを他ならぬ主人公に言わせたことによって余計にこのシーンの陳腐さに拍車がかかってしまい、むしろ煉獄さんの心を無自覚に傷つけてしまっていないだろうか。

確かに煉獄は無限列車にて1人の犠牲者も出さなかったが、それはあくまでも果たすべき責務を果たしたに過ぎず、そこに格好良さやヒロイズムがあるわけでもない
本当のヒロイズムというのはそれをもっと超えたところにあるべきもので、煉獄の場合まだ何も実績らしい実績を形として残せていないのである。
それをこんな形で無理やり主人公に擁護させても何の役にも立たないし、そんな弱音を吐いている暇があるならさっさと鍛錬と実戦を積んでもっと強くなれという話だ。
私が炭治郎を好きになれな一番の理由はこの土壇場で弱音を吐いてしまう情けなさにあり、男が一々そんな弱音を吐くなと思ってしまうのは時代錯誤なのだろうか?

善逸も結構弱音を吐きまくるし情けないキャラだが、本当に強くなるためにはその溢れ出そうな弱音や涙をぐっと堪えて己の信念を貫き通す必要がある。
それを時代錯誤なマッチョイズムというのは違うし、人間関係や決断すべき場面での本当の強さは戦闘力と直接の関係があるものではない。
少なくとも私が読んでいた黄金期のジャンプ漫画、わけても「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽☆遊☆白書」「ダイの大冒険」辺りに土壇場でこんな弱音を吐く人物はいなかった。
むしろここで正しいのは夜明けになると戦えないという理由で戦略的撤退を決めた猗窩座の方であり、敵側の方が正しく見えてしまう悪質な演出である。

演じた花江夏樹氏の魂のこもった名演技は確かに凄いと思うが、上述したようにそもそもが負け惜しみでしかないため何も刺さってこない。
炭治郎の未熟さや至らなさを表現するのだとしてももっとやりようはあったはずであり、土壇場でこんな無様な醜態晒すような主人公に共感も憧憬も持てるわけがない。

親の言いなりを超えられなかった煉獄

そして一番私が気持ち悪かったのは煉獄が今際の際でした「俺はちゃんとやれただろうか?やるべきこと果たすべきことを全うできましたか?」「立派にできましたよ」というやりとりだ。
このシーンが示したことは煉獄はどこまで行こうと親の言いなりを超えられなかったことであり、感動を通り越して悪寒と虫酸が走る
煉獄の家庭事情はしっかり掘り下げてあり、屈託のない善良さは両親の教育の賜物であると示されてはいるが、それ以上の何かが示されたわけではない。
例えば親の言いなりをやめて自分なりの「剣士とは何か?」といった思想や哲学があって、それを昇華して親からの自立を果たしたというエピソードはあっただろうか?

そこの「守破離」の「破」「離」をきちんと描いていないものだから、余計に煉獄の死が「守」の範囲を超えないものになってしまった
他者を助けろというのが生来の性格ではなく「親にそうしろと言われたから」ということになると、下手すれば両親が毒親に見えかねない。
子供なんて親が思っている以上に自分勝手だし親の思惑とは無関係に成長していくものであって、いずれ離れていくものである。
ところが幼くして両親を亡くしてしまったばかりに十分な精神的自立を果たす機会がないまま、親の言いつけだけを守って煉獄は自業自得の最期を遂げた。

あの話にあの演出の流れでは、少なくとも私にとってはそうとしか解釈できず、これが私がいう「去勢された男たちの物語」という所以である。
一番カッコいい男として描かれている煉獄ですらも「いい子ちゃん」を超えなかったのだから、他のキャラたちは言わずもがなであろう。
しかも、どいつもこいつもプライベートや戦闘シーンを問わず自身の思いをのべつ幕無し口にするせいでかえって浅薄で深みがない。
こんなので「ドラゴンボール」とはまるで違う深みがあって一貫性のある感動の傑作だなどとは片腹痛い。

別に親の言うことを聞くのが悪いと言いたいのではない、子供のうちは別にそれでも構わないと思う。
だが、思春期〜青春期のどこかにおいて、子供は親からの精神的自立を果たすべき時が必ず来るし、そういうのを経て大人になっていくものだ。
そのような「自立」を果たしたエピソードやそれに相当するものがないため、ラストシーンの死に際には何の美学も誇りも感じられなかった。
結果として、煉獄はどこまで行こうと類型的な「いい子ちゃん」「優等生キャラ」から抜け出すことはなかったのである。

いい人が予定調和ないいことをしても全く印象に残らない

そして最後にこれだけは言いたいのだが、いい人が予定調和としてのいいことをするのは当たり前であって何の印象にも残らない
これは「テニスの王子様」の許斐剛先生が23.5巻の皆川純子氏との対談で跡部について言っていたことだが、本当にその通りである。
それこそ「ドラゴンボール」との比較でいえば、魔人ベジータの自爆はファンの間で語り草となった有名なシーンだ。
私自身は涙を流さなかったが、確かにあのシーンには煉獄の最期とは比べものにならない密度の濃いベジータのドラマが詰まっていた。

ベジータは元々極悪人であり、サイヤ人編〜ナメック星編では戦闘民族サイヤ人の代表・象徴として無辜の者を次々と殺している。
あくまで自分の快楽のため、「俺がサイヤ人でナンバーワンだ」という誇りのためだけに戦っていたし、それは人造人間編でもさほど変わらなかった。
だが、セルゲーム終盤で未来トランクスが死んだ時に激昂して突撃し、7年も地球人として暮らす中で、その穏やかな日々がベジータを緩やかに変えている。
そんな自分の丸くなっていく変化をベジータは受け入れられず、魔人になっても誇りを売り渡さずに己のサイヤ人としての誇りを貫こうとしていた。

己の快楽のためにしか戦ってこなかったベジータが葛藤の末に行き着いた答えはブルマとトランクス、そして終生のライバル・カカロットのためである。
散々「悪人」として描かれたベジータが初めてその誇りを捨ててでも大切なものを守ろうとするその姿には意外性があったし、同時にベジータの物語としても1つの集大成であった。
しかも単なる自爆ではなく、「魔人ブウを倒すには塵も残らないほどの圧倒的なエネルギーを一瞬でぶつけるしかない」という答えに最短で辿り着いたのである。
これがベジットやラストの元気玉の伏線にもなっているのだが、単なる強さのインフレといった表層的なものでは語れない奥深いドラマが詰まっていた。

私が「ドラゴンボール」をその後他の作家たちに与えた影響も含めて凄いのはテーマをこれ見よがしに掲げて思想を語っているわけでもないのに、要所要所で見せる瞬間最大風速が凄いことである。
「さらばだ、ブルマ、トランクス……そして、カカロット……」というこの一言にはベジータのそれまでの生き様が、彼の歩んできた道のりの全てが凝縮されていた。
これぞまさに「語らずして語る」ことだと私は思うし、それまでの積み重ねを経て「悪い奴」だったのが想定外の行動をするところにドラマは生まれるのである。
そういう意味での本当に心動かされるようなドラマを私は「鬼滅」には、少なくともこの映画においては一切感じたことがない。

まとめ

改めて煉獄杏寿郎の最期のシーンをピックアップして語って見たが、補足説明というよりこっちの方がよっぽど具体的な感想になった。
だが、誰に何と言われようが、私が「鬼滅の刃」のいかにも作られた感動のシーンに泣いた試しは一回もないし、先日の記事で書いたことも嘘偽りない本音である。
今後もそこの認識を改めるつもりは一切ないし、それを「老害」「懐古主義」と批判・誹謗中傷を喰らおうが痛くも痒くもない
別に「鬼滅」を好きな人の気持ちも感性も否定はしないが、私自身がこの作品から得るのは何もないのだということを教えられたのがこの無限列車編であった。

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