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もう今回で打ち切ってしまった方が宜しいのではないかと思われた『王様戦隊キングオージャー』

「いい加減にしろ!謎を解く鍵は全て行間にある、狭間にあるんだ!」
「お前さん方はどうして!見えないものを見ようとしないんだ!王様失格だ!」

うるせえこの野郎!活弁士呼んでこいそんなものは!(北野武風)

今回はスーパー戦隊史上かつてないほどの「下品な画面」というものを見せつけられてしまい、誠に遺憾である。
まずこの空疎極まりない台詞に1つの反駁を試みるのであれば、「行間を読む」「見えない物を見る」ことなど映像作品には全く必要ない
あくまでもこの瞳に映るものこそが全て、その目に可能なことは画面の運動・ショットを焼き付けておくことであり、そこに読解力など必要ない。
本作を見るのに読解力を要するのであれば、それはもはや映像作品でも子供向け特撮作品である必要もなく、絵本か小説にして国語の授業でやればよかろう。

相変わらず知性も教養もない連中が作り上げているこの「キングオージャー」だが、東映側の公式サイトにこのような記載があった。

他の王様とジェラミーが決定的に違う所は、バグナラクと敵対関係にないという所かと思います。
敵味方関係なく、全てを手繰り寄せて戦うヒーローの姿は、まさに新時代のヒーロー像。
どちらの味方でもない狭間の王様であるからこそ、ジェラミーの行動は予想外の連続、次回もとにかく場をかき回します。
そして、ジェラミーの真の力もお披露目となります。
ドラマ・アクション・特撮合わせてご期待ください!

「王様戦隊キングオージャー」東映公式サイト 第12話の裏側

「第三勢力」としての追加戦士が久々に出たと言っているわけであるが、その割には全く色気=存在感がなく、むしろ作品を根本から台無しにしてしまった感じがする。
物語の鍵を握る重要人物というよりは作品がもたらした負債を一切合切帳消しにするためのデウス・エクス・マキナに見えるのは私だけなのであろうか?
このような「語り部」を追加戦士として登場させること自体が全くもって無意味であるし、また池田匡志の容姿・演技・身体性・肉感性など全てにおいてお粗末極りない
物凄く勿体つけて思わせぶりなことを言って5人を掻き乱し「察し」を要求するが、その姿は酷く稚拙な小学校低学年の駄々っ子にも劣る

昨日の記事でも述べたように、「敵側と人間のハーフ」なぞ別に目新しくも何ともないし、古代から生き永らえて現代に生存する戦士も特別ではない。
「ジュウレンジャー」なんて一億数千万年前から直接現代に蘇っているわけだし、「オーレンジャー」のキングレンジャーに至っては六億年である。
「ギンガマン」の黒騎士ブルブラックにしても地底で復讐を糧に三千年も生き永らえていたわけで、二千年程度で驚く戦隊ファンなぞいるわけもない。
また「敵味方関係なく、全てを手繰り寄せて戦う」というのも「みんな仲良しこよし=友達100人できるかな?」という凡庸な綺麗事の域を抜け出ないであろう。

この1クールを全て視聴した上で私なりに理解したことは、「高尚に見せかけて派手に飾り付けているだけで、中身は空疎で陳腐な幼稚園児が作ったお話」である。
敵でも味方でもないなどと嘯いているが、そもそも「何故キングオージャーがバグナラクと戦うのか?」という根源的な「戦う理由」を序盤で示せていない
地上に出たいからキングオージャーが邪魔なのか、それとも何か別の目的があるのかは不明だし、そもそも5人の王様自体が毎回下らない足の引っ張り合いに終始している。
きちんとバグナラクという敵組織や自分たちが何のために戦うのかという部分と向き合えていないが為に、第三勢力を持ってきても全く盛り上がらない。

まあそもそも大森敬仁といい、高野水登といい、明らかに本作を作っているのはスーパー戦隊シリーズの歴史に対して全く無知なまま作っている連中だ。
このことは宇宙船という雑誌のインタビューで「『ゼンカイジャー』『ドンブラザーズ』で必ずしも1話から全員が揃う必要も名乗る必要もないことが示された」という発言からも明白である。
1話から全員が揃わず名乗らないことなど『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)や『忍者戦隊カクレンジャー』(1994)の段階で既に行われていることだ。
何なら『電子戦隊デンジマン』(1980)や『超電子バイオマン』(1984)では女戦士が使命を拒否する展開すら先駆けて描いているわけである。

それに「最強のヒーロー」というのも、そもそもスーパー戦隊自体がどんな設定であれ、劇中においては最強の戦士と設定された上で話を作っているのだ。
高野は「最強の王様」というのを聞いて「これはイケる!」と思ったらそうだが、何故そのように思うことが出来たのか私には到底理解不能である。
そもそも「最強」とは何なのか?単に椅子の上で偉そうに踏ん反り返って威張り散らすことは決して「最強」とは言わないし、王が国民を守るのは「義務」であって「ヒーローの使命」にはならない。
そんなことすらも分からずして、過去の作品群に対する研究も分析もしていない連中が「鵜の真似をする烏」として作ったのが本作であるとこの1クールで証明したようなものではないか。

結局大森と高野の2人からしてそうであるが、結局令和の戦隊シリーズはダニング=クルーガー効果でいう「バカの山」の人たちが作っているのではないかと見ている。
まだ自分には知らないことが沢山あることを自覚し、その恐怖に耐えながら謙虚に物語を紡いでお客様に見て頂くという、良い意味での臆病さを持ち得たものが昔のスーパー戦隊シリーズだった。
ところが、今は受け手のみならず作り手までもがその臆病さ=無知の知の自覚を欠いたまま物作りの世界に居座って好き勝手やっているのではないだろうか。
映画作家・北野武にしたって本当は凄い数の映画を見ていて勝新太郎や黒澤明にも認められる天才なのに、インタビューでは凄く寡黙で自らを慎み深く謙遜する。

これもやはりデジタル化してしまい何でもが便利になってしまった弊害でもあるのだろうが、何でもかんでも最新のテクノロジーがあれば可能だという幻想は捨てた方がいい
今はサブスクリプションで何でも視聴可能な時代になったというが、スーパー戦隊はともかく他の特撮作品でもフィルムが残っていない作品だってあるだろう。
テレビドラマも映画もフィルムが残っておらずソフト化すらされていなくて視聴することすら困難なフィルムだって無数にあるのだから。
その事実をきちんと認識した上で、如何に「産みの苦しみ」と向き合って物作りを行うか、この感覚を欠いている者に歴史に残る上質な作品など作れやしまい。

スーパー戦隊シリーズが46作も続いてきたことが何を意味するか、どのような経緯で「キングオージャー」まで辿り着くことが出来たか?
そこをきちんと熟知している者は罷り間違ってもこのような無責任で怠惰なビデオが存在することなど許すはずがない、少なくとも私は許さない。
少なくとも現在YouTubeで配信中の「カクレンジャー」「ゴーオンジャー」「キュウレンジャー」の足元にすら及んでいないであろう。
いわんや三大傑作「チェンジマン」「ジェットマン」「ギンガマン」をや。

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