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『NARUTO』感想〜衆生済度の考えに基づくナルトVS衆生済度の考えが全くないサスケ〜

『進撃の巨人』の感想を先に書きたかったのだが、その前に『ドラゴンボール』『ONE PIECE』について語ったので『NARUTO』についても語っておくべきかと。
現在Vジャンプで連載中の『BORUTO』と併せて思うのだが、私はどうにも本作で提示されている根底の世界観・価値観が好きではなく、奥底からの共感というものができない
なぜかというと承認欲求がどうとかいう話ではない、それに関しては以前に触れたのでここでリンクを貼り付けておくので先にこちらをご覧頂きたい。

どちらかといえば海外で支持されているのは『ONE PIECE』よりもこちらの方なのだが、私はどうにも本作が提示している価値観・世界観が肌に合わないのである。
本作の根底にあるものは主人公のうずまきナルトが持っている衆生済度(仏道によって、生きているものすべてを迷いの中から救済し、悟りを得させること)の価値観だ。
確かに物語の出発点は『里の者に自分の存在を認めさせる』というところからスタートしているが、それはあくまでも第二部の中盤までにある通過点でしかない。
そこからのナルトにとっての課題は「火影とは何か?」「真の忍者とは?」というところに向き合うことになっていくのだが、そこで出てくるのが「木の葉の里の民との向き合い方」である。

こちらでも解説されているが、木の葉の里に限らず本作の世界における大衆の民度は基本的に低く、どの里でも表面化しない陰湿な差別・迫害が行われているという設定だ。
本当に歴代のジャンプ漫画の中でも相当に民度が低いのだが、いわゆる『ドラゴンボール』『ONE PIECE』のような悪事が日常的に跳梁跋扈している世界とは趣を異にしている。
無国籍感のある雑多ながらも根っこがシンプルな「DB」と西洋的価値観の強い「ワンピ」では悪事が最終的に略奪・殺戮といった形でストレートに発露しているから湿度はそんなに高くない
それどころかむしろ『ドラゴンボール』は主人公たちの人間関係までもが基本的にドライなのであまりベタベタしないので、それを価値基準として育った私には逆に本作の価値観は抵抗が多かった。

古来より日本には「村八分」なる「出る杭は打たれる=和を以て貴しとなす」の精神が良くも悪くも根底にあったのだが、本作ではそれが徹底した性悪説として表現されている。
初期のナルトに対する謂れなき差別をはじめとして、本作では「どうしてここまで?」というくらいに人間の陰湿かつ気詰まりな部分が終盤までほぼねちっこく描かれているのだ。
正直いって私はこの粘っこいというかねちっこい陰湿な差別が大嫌いである、なぜならば自分がそのように育ったことがないし、そんなことをする奴の気持ちも全く理解・共感できないからである。
逆にいえば本作に根底から共感してこの世界観に入れ込んでいるのはそういう他人の成功に嫉妬し、他人の足を引っ張ったり裏から小石をぶつけたりして後ろ指を指して笑うような劣等感に塗れた人ではなかろうか。

もちろんこれが私自身の偏見でしかないことは重々承知だが、少なくとも本作を読んで溜飲が下がるようなカタルシス、また目標を達成して壁を乗り越えた時のような充実感・達成感はないだろう
それこそ「エヴァ」の碇シンジではないが、本作はその意味で割と構造も作劇も「セカイ系」と呼ばれるジャンルに近いところはあって、うずまきナルトに感情移入できるかどうかが本作を楽しく読めるかどうかにつながる。
そしてそれが同時に「DB」「ワンピ」との最大の違いであり、徹底して「民衆=読者」寄りの物語なので人は選ぶが「共感を得る」という点において本作以上のジャンプ漫画は確かに存在しない。
だからこそ、マニア度も高いと同時に日本を超えた海外の大衆人気も得られることになるわけだが、構造からいうと最終的には「五里を一枚岩にして、仙台から受け継がれた因縁・業を解消する」というものだ。

うずまきナルトはだからこそ最終的には「個人的動機」や「野心」というものを持たなくなる、最初に書いた個人的動機である承認欲求は一見ナルト個人から発されたもののようでいて、実は完全な他人軸である。
里の者たちから無視され続けているという外的要因があったからナルトはいたずらを仕掛けていたわけだし、最初は本当に何もできない忍者未満というところからスタートしていく。
最初はイルカ先生に認められ、次に第七班に認められ、次に児雷也師匠に同期の仲間・ライバルたちという風に彼が認められていく行程が描かれていくのが第一部である。
そしてその中で第二部に向けてできたもう1つの横軸が「うちはサスケとの因縁」であり、個人の因縁が物語のラストまで引っ張られたのはジャンプ漫画だと「リングにかけろ」以来ではなかろうか。

しかもナルトとサスケの因縁は単なるジャンプ漫画伝統の「努力型の熱血主人公VSエリート天才のライバルキャラ」というだけではなく、実は先代の転生者であったということが明らかになる。
また、ナルトが六道仙人というモードを獲得していくようになり、価値観としても奥底で許せなかった木の葉の里の者たちを救うという、いかにも仏教的な衆生済度にシフトしていく
それをわかりやすく象徴しているのがイタチの「皆から認められた者が火影になる」であり、他の里の者たちとの和解も含めて描く観音菩薩のごとき存在へと変質する。
一方で、ライバルのサスケはアマテラス・ツクヨミ・スサノオといった言葉からもわかるように神道をモチーフとした価値観と技で動いているので、衆生済度の価値観はまるでない

殺意満々のサスケ

だからサスケは兄のイタチと価値観が合うようで合わない、表面上は和解したようであるが、彼の真意である「里への愛」はむしろナルトへと向けられていく。
そして逆にサスケはどんどん闇を深めていき「こんな救いようのない里など滅ぼして俺こそが火影になって価値観を変えてやる」という過激な革命を志向するようになる。
最後の忍界大戦で第七班が再集結して共闘してもなおナルトとサスケが根底からわかりあうことができず、終末の谷で死闘を繰り広げることになるのはこの「価値観の違い」からだ。
先祖の業や因縁を解消しほぼ全ての問題を8割解消した上でなお衆生ごと里を救おう・守ろうとするナルトと真逆に位置するサスケは分かり合えないからこそぶつかり合う。

それでは決定打となったのは何かというと、それこそが「孤独と劣等感を抱えた天才同士である」という「同病相憐む」に基づいた歪んだ絆・友情のようなものであろう。
サスケは最終的に自分がナルトと同質の人間であることを本当は第一部の段階で気付いていながら、ずっと目を背けて否定し続けようとしていた。
そこを認めた時に初めて里は平和になり一つの解決を見るわけだが、私は正直心の底からスカッとするような爽快感はなかったし、この結末には納得できなかったのである。
なぜサスケが最後に折れる形で和解しなければならなかったのかと、サスケが勝ってみせる物語があってもいいではないかなんて思えてしまった。

というのも、私の価値観の中には「衆生済度」の考えがなく、どちらかといえば「DB」のように突き抜けた一部の天才がどんどん無双していく方が好きだからである。
民衆に寄り添ってなんて甘いことを言っていたら上のステージには突き抜けられないし、小さい頃から周りに自分の価値観を合わせたことなんて一切ない。
自分が好きなことをずっと突き詰めてやっていたらそれが結果的に他者のためになっていたという図式の方がいいし、実際世の中を作っているのはほとんどが突き抜けた天才だろう。
ある意味その領域に衆生への共感性を持ったまま寄り添ったうずまきナルトが例外的な存在だったのかもしれないが、彼は最終的に民衆に手を差し伸べて寄り添う方を選択してしまった。

本作がなぜこうにも物語が説明過多でネチネチと陰湿なスカッとしない因縁が多いのかというと、それはいかにも日本史的な価値観に基づいているからである。
伝統的な日本の集団主義、すなわち「突き抜けた天才の存在を認めず大衆へ引き込もうとする価値観」なるものが本作の根底に一貫して横たわっている価値観だ。
天才と呼ばれる人間の象徴である二代目火影をはじめとする者たちは人道から外れた者=狂人のように描かれ、差別・迫害の対象とされている。
うちは家の呪いにしたって結局のところ二代目火影、通称「卑劣様」のせいであり、それも含めてサスケが里の全てをぶち壊そうとした意味がわかるのだ。

現在の『BORUTO』で父親のナルトが再び悪人扱いされ、息子のボルトがむしろサスケのような生き方をせざるを得ない現状を知っているからそ余計にそう思うのである。
「親子の情愛・絆」なんてものがどんどん疑問視され淘汰されている昨今、本作のように「本来なら救う必要がないはずの衆生」まで救っているのが私は連載当時から全く共感できなかった。
縁なき衆生は度し難し」という言葉があるように、たとえ観音菩薩のごとき仏であっても縁の無いもの、正確には「自分で自分を救う気のない者」を救うことはできないのである。
だから、本作で何の努力もせずにナルトに対して負んぶに抱っこだった里の連中までをなぜ救わなければならないのかが私には全く理解できなかった。

まあ良くも悪くもそれをより卑近な視点で「衆生済度」の暗黒面と限界を形を変えて描いたのが『鬼滅の刃』だったということであろうか。
そう考えると「鬼滅」がやたらと湿っぽい手負事が多かったのも「ジョジョ」と「ナルト」のハイブリッドをやりたかったと考えると理解はできる。
しかし、救ってやる必要のない者にまで手を差し伸べる義務を果たして背負う必要があるのか?という疑問は最後まで拭えなかった。
したがって私はどちらかといえばやはり「自分がやりたいことをやり、それが結果的に善行に繋がる」という「DB」「ワンピ」の方が好みではある。

つくづく私はこういう湿度の高い作品、そして民衆に寄り添うタイプの作品が好きではなく世間一般の価値観とは合わない人間なのだと本作で自覚した。
承認欲求なんかなくたって人は生きていける、他者の目や評価なんて気にして自分のやりたいことが出来ないような生き方だけは金輪際御免である。
だから私は本作に関しては高く評価しない、精々がC(佳作)であろう。

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