見出し画像

承認欲求が根底にある『ONE PIECE』『NARUTO』とそれに当てはまらない『ドラゴンボール』

以前も述べたと思うが、承認欲求が生きる目的や動機になっている場合はその殆どが劣等感や憧れが根底にあり、自分主体ではなく他者ありきで動いていることを意味する。
現在YouTubeで無料配信されている『ONE PIECE』や同時代の『NARUTO』は正にそれであり、表現の方法やベクトルが違うだけで根底にあるものは全く同じだ。
ルフィの「海賊王にオレはなる!」もうずまきナルトの「火影を超し、自分の存在を木の葉の里の連中に認めさせる」も根底にあるのは「こうなりたいという理想の自分」である。
それは一見美しく素敵なことのように思われるが、ルフィが海賊王になろうと思ったきっかけは赤髪のシャンクスへの憧れと幼き頃の自分の至らなさ・無力感が根底にある。

一方のうずまきナルトもそこの根底は似ているがもう少し屈折した形で「九尾のチャクラを宿したバケモノ」という謂れなき差別を受け続けて来たことから来るものだ。
表面上の躁状態じみた空回り気味の明るさとて、その根底にあるのは里の連中に存在を無視されている自分への劣等感であり、だからこそそれを最初に認めてくれたイルカ先生に恩を持つ。
しかし、暁との戦いで仙人モードを会得し木の葉の里を守ったナルトはその承認欲求を「里の連中の掌返し」という形で満たすと今度はその反動でその里の連中に対する苛立ちを募らせた。
私は正直ポスト黄金期の二大看板漫画である『ONE PIECE』『NARUTO』を「面白い」とは思えても「楽しい」にならないのは根底にあるものが「承認欲求」という点で通底するからだろう。

承認欲求とは大抵理想と現実のギャップに苦しむ心理的葛藤から生まれるものであり、それを前向きに肯定すれば「憧れ」となり後ろ向きに肯定すれば「劣等感」ということになる。
以前も書いた気がするが憧れと劣等感は表裏一体であり、常に自分と他者を比較して「他者が必要としてくれる自分」になろうとすることが承認欲求を満たすことになるが、それ自体は別に否定しない。
ただ、私自身はそういうものを一度たりとも原動力としたことがない為に「他人に自分のことを認めて欲しい・評価してほしい」という感覚がそもそも欠落しているのかもしれないと思えた。
それこそが正に『ドラゴンボール』の孫悟空であり、孫悟空自身は純粋な「強くなりたい」という闘争本能が生み出す飽くなき好奇心と向上心で動いており、いわゆる「善悪」「正邪」の心がない。

『ドラゴンボール』を熟読している人はよくわかると思うが、悟空は一度たりとてドラゴンボールを使って己の願いを叶えようとしたことはなく、むしろヤムチャや他の人物がそういうものを持っている。
以前に「多くの願望は承認欲求の言い換え」と言っているのを某所で見かけたが、それは確かにその通りで「DB」の世界では承認欲求を持っているやつほどドラゴンボールで願いを叶えたがるものだ。
悟空がたまたまその例外的な人間の常識や欲求とは違う別の行動原理で動いているから周りからサイコパスや戦闘狂扱いを受けているだけで、悟空自身は自分が戦闘狂ともサイコパスとも思ったことはないだろう。
単純に自分が好きなことや興味があることのみを真っ直ぐに行っていて、そこに「こうなりたい」という理想や打算のようなものはなく、まるで呼吸をするように戦うこと・強くなることを楽しんでいたしそんな悟空が私は好きだ。

それに対してルフィやナルトは孫悟空とは根底から違い、自分なりの願望=承認欲求を満たさんが為に動いている訳であり、私の中にはない動機であったが為に感情移入や共感はしづらかった。
しかし、そんな承認欲求を動機とする作品が90年代末期から00年代にかけて台頭していき、今や国民的漫画・アニメにまでなったことは「何者かになりたい」という当時の大衆心理をよく表している。
つまり『ONE PIECE』『NARUTO』を読んで感情移入している人たちは奥底に「何者かになりたい」があり、それを実現しようと頑張るルフィやナルトに共感・応援したということだろう。
現在では娯楽の範疇を超えて心理学や社会学などの学問的知見から考察されることも多い両作だが、私も作品の良し悪しを別として見た時に割と「人ってこうなんだ」という心理面の構造を理解するのに役立った。

時代性の違いということもあるかもしれないが、私が孫悟空に対して抱く印象とルフィ・ナルトに対して抱く印象が全く違うのは根底にあるものが違うからである。
よく戦闘狂だのサイコパスだのクズ父だのとあらぬ批判を受けがちな孫悟空だが、未来世界のブルマが生前の悟空をどう思っていたかが端的にここで示されていた。

そう、孫悟空が来ればたとえどんな強敵が相手であっても何とかなる・何とかしてくれるという背中から醸し出される安心感と圧倒的強者の風格がある。
これに似たようなシーンがルフィやナルトに対してもあるのだが、ナミのルフィに対する印象やシカマルのナルトに対する印象はブルマの悟空に対するそれとは全く違う

ナミはルフィのことを「何しでかすかわからないから自分が助けたい」と、そしてシカマルは「俺以上にナルトの相談役はいない」と言っており、これは安心感とは逆の保護欲である。
圧倒的強者の風格を持つカリスマの武道家・孫悟空とは違いルフィやナルトは力こそあるものの欠点も多いし、割と仲間に助けてもらわないとどうにもならないダメさ加減があるのだ。
逆にいえば、ルフィやナルトには悟空が持ち合わせていたようなカリスマ性はほぼないようなものであり、だからこそ助けてくれる仲間の存在が必要となる。
よほどの例外を除けば大体において一人でも平気な孫悟空に対して一人じゃポンコツなルフィ・ナルトはそれぞれ全く違う主人公のあり方で成功したということだろう。

だから孫悟空が戦う時に集まってきてその戦いに参入できるのは孫悟空と同等クラスの戦闘力を兼ね備えたベジータや悟飯らサイヤ人のみになり、その他は足手まといでしかない。
しかし、ルフィやナルトの場合は彼らよりも強い戦闘力を持った存在はごまんといるので、たとえ戦闘力が多少低いウソップやチョッパー、犬塚キバや日向ヒナタレベルでもルフィの助けになるなら戦闘に参加できるのである。
この差はどこから来るのかというと、単純に作品として設定されている戦闘力のスケールや強弱の違いではなく「承認欲求の有無」にこそあるのではないだろうか。
ルフィとナルトに沢山の仲間が駆けつけるのも行動原理が承認欲求だからだし、逆に孫悟空の周りに仲間があまり集まらないのは逆にいえばそこに囚われない純粋な闘争本能にあるからだ。

だからルフィやナルトは物語のテーマに従属する形でしか動けないが、孫悟空は物語のテーマから軽やかに逸脱したところで動ける自由闊達な主人公である。
別にそれが悪いわけではない、それぞれに違うあり方で成功し、同時に私の好みの違いから「ワンピ」「ナルト」は「DB」ほど刺さらなかったという単純な話だ。
まあ理由や理屈をそれっぽく付けてこねくり回す方が賢く見えるし共感もしやすいだろうからね、驚きや衝撃は全くないけど(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?