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人に勝手に期待して勝手に失望する人たちは「他人軸」で生きていることに気づかない

芦田愛菜が「信じる」ことに関して凄く深いことを言っていると賞賛されているが、私にとっては特別に小難しいわけでも深いわけでも、衝撃的なことでもない
彼女が言いたことは要するに「他人に期待をするな、そうすれば失望もせずに済むし、距離感を失わず自分らしく生きられるのだ」というごく当たり前のことである。
だが、その当たり前のことがさも特別なことのように賞賛されているのを見るにつけ、今の若い人たちは芦田愛菜が言っているレベルのことすら出来ていないということだろう。
自分がきちんと出来ていることであれば一々それに衝撃を受けることも感動することもないのであって、本当に唾棄すべきコメント欄だ。

『激走戦隊カーレンジャー』の浦沢義雄師匠が『練馬大根日記』のインタビューでこのようなことを言っていた。

爽やかなスポーツマンの笑顔ほど、信用できないものはありません。無責任に断言します。
爽やかなスポーツマンはすぐに成功したがります。発作的に感動したがります。
感動は目の濁った人間のするものです。大切な事は成功しないことです。
思い出してください。少年少女時代。感動したことはありますか?ないはずです。
目の澄んだ少年少女は感動などしません。そんな下品なことは目が濁ってからです。
もし感動してしまったら、近くの神社に行ってお祓いしてもらってください。

引用元:浦沢義雄『練馬大根日記』第2回 WEBアニメスタイル

そう、もしこのインタビューで芦田愛菜のいうことに感動して女神様のごとく崇め奉っているようであれば、それこそが最も危険な行為であることを自覚した方がいい。
尚且つ芦田愛菜自身も16歳でこんなことを簡単にはいえるわけがなく、おそらく何回も何回も推敲を重ね削ぎ落としてインタビュー用にこの言葉を作ったはずである。
だから、彼女のこれだってあくまでも賞賛してもらえるためにいかにも作ったような言葉の気がしてしまい、私は彼女のあざとさに鼻白んでしまう。

まあ元々私自身が芦田愛菜に一切興味が湧かないので何を思ってこのような言葉を発したかは知らないが、おそらく相当酷い裏切りにでも遭ったのだろう。
最近流行りの「推しの子」がそうであるように、芸能界は闇が深い場所であり、彼女は若いうちから知らなくてもいい裏側を知ってしまったに相違ない。
だが、芸能界に限らず一般人の世界であっても、誰かに勝手に期待して勝手に失望するのはよくあることであり、私自身も経験があることだ。
もっとも、私の場合は「される側」であって、罷り間違っても「する側」ではないのだが、ちょうど1年程前に似た事例があった。

その人とは約3ヶ月くらいしか交流を持ったことはなかったが、以前私が特撮・アニメの感想や批評をサイトで書いていた時の隠れ読者だったらしい。
名前をE氏としておくが、その人はとあるアニメ作品に人生を救われ、私の書いたものを心の拠り所としていた、いわゆるメンヘラというやつである。
「○にたい」が口癖であり、しかも私のことを勝手に憧れの人として祭り上げ、勝手に期待し勝手に失望したらしい。
しかも私のことを「追い越したい」とか言っていて、それを見た私はどう反応していいか全くわからなかった、というか興味が失せてしまった

私を抜かしたいなら勝手に抜かせばいい、だが私に勝手に憧れを抱いて期待し、その末に勝手に失望しているうちはそれは不可能である。
なぜ彼が私に失望してしまったかはよくわからないが、恐らくは感情的な面で荒れたところを見せてしまってそれに失望してしまったからだろう。
しかし、それは所詮私が見せたことのない生の感情を見せただけであって、私を聖人君子のように持ち上げていたE氏が悪い。
きちんと冷静に私から距離を取って接して自分軸で生きていれば、そういう面が見えたとて失望せず揺るがない自分でいられるはずだ。

しかし、私に心を呪縛されてしまっているE氏は視野狭窄に陥ってしまっているがために、自身の精神的欠陥にまるで気がついていない。
そんな奴に下手にこちらからアドバイスをしたところで聞くはずもなく、だから私は敢えて彼に嫌われるように仕向けたのである。
こないだ話したあるメンヘラ女性しかり、私はどうもメンヘラ体質の人を妙に引き寄せてしまう傾向にあるらしい。
別に私自身は他者に期待したことも失望したこともないから、何故引き寄せてしまうのかは全くわからないのだが。

昨日、黒羽翔氏と初めてのオフ会をした時のそのことを聞くと、どうやら私の言葉にはそういう人を引き寄せてしまうフォース(力)があるらしい。
私が放つ言葉の力強さがまるで手塚ゾーンのようにして、心が弱く強さに縋りたい人たちを引き寄せてしまうのだとか…まあよくわかる。
人は自分にないものを持っている人に憧れと劣等感を抱えるものであり、同時にそんな人のようになりたいと思うものだ。
しかし、その時点で実はその人自身が勝手な理想像を作り上げて投影しており、他人軸で生きていることにまるで気がつかない

私は小さい頃からそれに気づき、何かと頼られ期待されることも多かったが、その分だけ失望や裏切りだってされてきた。
それでもここまで生きてこられたのは真ん中に強い自己があったからであり、私は昔から他人に期待もしなければ失望もしないのである。
他者が自分に不義理を働いたとて裏切られたとは感じないし、最後に信じられるのは自分が磨き上げて積み重ねてきた才能と努力だけだから。
だから私は芦田愛菜の言葉に感動することも賞賛もしないし、特定の誰かに対して過剰に信じ込むこともしない。

もちろん「作品の中で作られたキャラクター」に対する好き嫌いはあるが、それを例えば「推し」「萌え」といった感情を抱くことはない。
自己と他者を切り離して冷静に見られなくなった人間関係は必ずどこかで破綻し、いずれ崩壊する
それは友達・仕事・家庭のどんな人間関係においてもいえることではなかろうか。

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