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何も言わないことを「優しさ」と思ってはならない、それは「無関心」のサインである

言われるうちが花」という言葉を子供の頃よく親や学校の先生から言われたことがある、注意してくれるだけまだマシだと思い感謝しなさいと。
これに関しては誤解を招く表現だと思う、何故かって相手の為を思っていれば上からガンガン正論を言って説教すればいいのか?という疑問があるからだ。
あれこれ言えばいいというものではない、「怒る」のと「叱る」のではだいぶ違うし、「叱り方」という名の言葉選びもまた大事である。
ペンは剣よりも強し、言葉とは物理的・肉体的な刃物以上に相手の根っこを傷つけ破壊する凶器ともなり得るものなのだ。

私もこうして文章を書いているから昔よりも言い回しや構成にはだいぶ気を遣うようになったが、そんな私ですら思うことがある。

「この人には何を言っても無駄だな」

私ももう40が近くなってきているが、それだけの年数を重ねると「この人には言えば改善してくれる」「この人は言っても無駄だ」というのが大体わかるようになる。
それを痛感したのが去年のことなのだが、実は私にはSNSで交流を持っていた人が居て、もう今はその人のことは完全にブロックしてしまった。
年齢は私よりも歳上なのだが、今ここで包み隠さずに本音を言ってしまえば、私とその人ではあまりにも色んな意味で差があり過ぎたのである。

その人は芸術方面に特化して上手いという印象が目立ったのだが、対人関係というか人間性の部分があまりにも欠落していて「これどうなの?」と思うことがあった。
それでも一通り大人の会話ができる人ではあったし、その人の芸術の才能は私も一目置く程だったのだが、一番めんどくさいのは「かまってちゃん」だったことだ。
日がな一日、何かあれば私にメールしてきて、既読スルーしようものなら泣きついてくるし、夜中の二時三時まで平気で電話を強制してくるのである。
最初の一回か二回だけならまだしも半年以上もそんな状態が続いたのだが、何故ブロックに至ったのかというと明確な出来事が1つあった。

それは去年の8月に夏風邪を引いたときのこと、いつも通り電話を催促してきたので「風邪を引いていてまともに話せる状態じゃない」と私は返す。
そしたら、あろうことかその人は「普段から人を見下すようなことをいうからバチが当たった」などという訳のわからないことを宣ってきやがったのである。
目が点になった、私はその人に対しても誰に対しても見下すような言動を取った覚えがないのに、何故そんなことを言われなければならないのか?
私の気を引きたくて敢えて嫌われるような憎まれ口を叩いたのか、真意はわからないが、少なくとも高熱を出して寝込んでいる病人に向かってかける言葉ではない。

その後も何かとその人は自己中心的な言動・行動が見受けられ、最初は愛嬌で許せていた部分がどんどん欠点に映ってしまい許せなくなってきたのである。
しかし、本人は私が奥底でそういう負の感情を溜め込んでいることも知らず、まるで「私とあなたは対等で特別な関係」という根拠のない優越感を出して他者にマウントを取っていた。
そんなくだらないことに私を利用しないで欲しかったのだが、私は自分の気持ちをその人から離すために敢えて「じゃあもう俺たちの関係はおしまいでいいね」ということにする。
その人は冗談めかして「やだも〜、ヒュウガさんったら〜、いけず」みたいな感じの返しをするのだが、どうやら私が冗談ではなく本気で嫌がっていて終わりにしたいのだと気づいていなかったらしい。

そして去年の11月、とうとうあることがきっかけでそれまで私の中に鬱積していた負の感情が爆発してしまい、その人の連絡先をブロックして関わりを絶ってしまった
何のことで揉めたかはもう覚えていないが、そんなことよりも我慢し続けてきたその人に対するストレスが私の理性の限界を突破したということであろう。
少なくともあれはもはや理屈ではなかった、ただただ感情を怒涛のようにその人に向かって吐き出した挙句に連絡先を絶ったのである。
本人がその後反省して私と話し合いがしたいというので話すと、どうやら本人も私に対してしてきた数々の言動・行動を後悔していたらしい。

しかし、性格面から考えるに私はその人が「後悔」はしても「反省」はしていないのだろうと思い、敢えて2週間ほど様子見の期間を設けた。
案の定、その人は1週間と持たずにまた私と2人きりで電話しようと執着してきて、もはやそれはストーカーの領域に達していたのである。
それが俯瞰して見えた時、私の中で僅かにその人に対して残っていた情が驚くほど綺麗に雲散霧消していくのが感じ取れた。
言葉にしなかったが「もうこの人には何を言っても無駄なんだな」と思い、連絡先は全てシャットアウトして存在そのものを消し去った。

「好きの反対は嫌いではなく無関心」というが、まさか私がその気持ちを我が身として感じる瞬間が来るとは思わなかった。
その後、一度その人の別垢から私の元にDMがきたことがあったのだが、私は未読スルーしブロ解してしばらく放置し、万々歳と思いきやそうではない。
何とその人は知らぬ間にまた私の頃をいけしゃあしゃあとフォローしてきやがったので、「何も反省してないんだなこいつ」と即ブロックしてやった
だが、本当に世の中、こちらが何も言わないのをいいことに我が物顔でつけこんでくる善人のフリした偽善者がいるのかとある意味感服である。

この体験から私は様々なことを学んだが、一番痛烈に感じたのは相手が何も言わないのを「優しさ」と勘違いしてはならないということである。
言われるうちが花というのは裏を返せば「言われなくなったらもう終わり」という「無関心」のサインなのだ。
優しい人ほど怒ったら怖いというが、怒りなんてまだ相手のことを意識して相手に感情をぶつけられるだけマシであろう。
本当に怖いのは「無関心」「無視」であり、人は怒りを通り越すともはや何の情も抱かなくなりどうでもよくなることを私は身を以て思い知ったのが去年である。

「雄弁は銀、沈黙は金」を「黙っていることが美徳」とほとんどの人が解釈するし、実際自分が生きていく上でのスタンスはそれでいいと思う。
しかし、この間まで怒ってくれていた人が何も言わなくなったりあからさまに距離を置くようになったりしたら要注意である。
それはもう相手に対する存在価値を一切認めてないのだと語らずして語っているのだから。

合掌

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