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平成以降の世界を覆っている二重の「醜悪」についてもう少し掘り下げて考える〜心の汚さの隠蔽と仕組みのブラックボックス化〜

前回から何度か続いている「醜悪」に関する議論だが、黒羽さんの考えとしては「資本主義に基づく高度経済成長の弊害として、供給過多になり物質的な豊かさと引き換えに精神的には貧しくなり、それが犯罪・テロ・戦争で起こるとそこに何の正当性もないから「醜悪」と認識される」ということらしい。
実際半分は正解だと思うが、個人的には当たらずとも遠からずといったところであり、確かに戦争や犯罪がある意味世界全体を席巻していた時期は誰しもがそういう行為を「悪」だとして認識し断罪していた。
ところが、これが平成に入って人々は衣食住において困らなくなったはずなのに、かえって精神的に満たされなくなるから今度は「心理」に起因する形での悪が増え、さらにメカニズムも可視化しにくい。
それが露見したのが2015年の年明けに久々に世界を震撼させた過激派組織イスラム国であるが、蓮實・阿部・青山の3人はネット上で公開した火炙り処刑や斬首殺害の映像を「素人」だとバッサリ斬っている。

■イスラム国の処刑映像

阿部 「ハート・ロッカー」は、ちょっとひどかったですね。撮り方そのものは「キャプテン・フィリップス」のような擬似ドキュメンタリー風なのですが、演出のほうはさっきの「ローン・サバイバー」に近いため、両者が相殺し合ってよくわからないことになっている。最後なんて、ジャーンとハードロックが流れて兵士たちの英雄ぶりが強調されるので、アメコミ映画かと錯覚させられる始末。
 ちなみにこのちぐはぐな印象は、じつは最近、映画とは別のところで感じたことがあって、それはしばらく前に、過激派組織イスラム国がネット上で公開した、ヨルダン人パイロットの火あぶり処刑やエジプト人キリスト教徒二十一人の斬首殺害の映像から受けたものでした。公開直後は、その残忍さのみならず、劇映画並みの編集加工や音楽利用の演出が施されていることで世間は騒然となったわけですが、多くの人がそれを玄人的技術の導入と見てとってしまった。9・11のテロ攻撃が内容の面で「ハリウッド映画的」とたとえられていたとすれば、今度は表現形式や技術の面でそう形容されていたわけです。しかしまともに見れば、あれは素人の発想以外の何ものでもないとしか言えないはずです。つまりその加工技術が使用されるべき出来事上の必然があって生み出された演出ではなく、既存の映画やPVやCMで多用されているステレオタイプの映像表現をそのまま使ってみました、というものにすぎない。そこからこちらに見えてくるのは極度なまでの露悪性ばかりであり、だからこそ今どきの情報社会におけるPRとして、いわゆる炎上商法的に効果を持ってしまうという皮肉な事態になっている。そういうものを、プロの映像技術者たちが「素人の仕事じゃない」などとコメントしている記事を読んで少し呆れてしまいました。いくら過激派組織に専門のメディア部門があるといっても、設備の充実が玄人性を保証するわけではなく、技術の使われ方でこそ見極められねばならないはずですから。
 それはともかく、ビグローの監督作では、オサマ・ビン・ラディン暗殺を描いた「ゼロ・ダーク・サーティ」(一二)は実話に基づいていて、CIAにかなり綿密に取材したせいでかえってそれが作り手側の自由度を狭めた結果、不要な演出の入る隙がなく、ちぐはぐさをまぬかれていて、内容も規模の大きな悪徳警官ドラマみたいで悪くなかったですが。
 青山 「ハート・ロッカー」も「フルメタル・ジャケット」と同じパターンで、隠れている敵をどうにかしないとこちらが死ぬ、という状況でスナイパーが活躍する
 蓮實 それでスナイパーが一応カッコ付きの「正義」ということになる。
 阿部 もともとはスナイパーは襲ってくる側だったわけですね。
 蓮實 本来は見えない敵として、恐怖の対象としてあったスナイパーが、ここでは逆に「蛮人」にとって恐怖の主体になっちゃう。そんな映画ってこれまであったのだろうか。

特に阿部の主張する「設備の充実が玄人性を保証するわけではなく、技術の使われ方でこそ見極められねばならないはずですから」は以前から言い続けている「安易に最新の技術に頼ることの愚かさ」の的確な言語化である。
しかし、この3人のような「映像の専門家」レベルであれば容易に見抜けるあのイスラム国のテロの映像表現としての稚拙さがなぜだか一般大衆の目には「プロの犯行」という風に映ってしまうようだ。
これがすなわち何を意味するのかというと、天才的なセンスを持っている人であれば簡単に見抜ける仕組みがあまりにも巧妙化しているために騙しの技術として成立してしまっていることである。
これはYouTuberなどのネットインフルエンサーも同じであり、実はネットインフルエンサーが使っている編集技術やテロップ・カット割の用い方は少なくとも良質なハリウッド映画や日本映画・テレビドラマに比べて遥かに低い。

しかし、その「素人っぽさ」がなぜだか若者ウケをしてしまっているというのが奇妙であり、素人の発想で作られたはずのものがプロであるかのように讃えられている状況と似ていやしないだろうか。
ここから見るに、この映画狂人たちが指摘する平成以降に携わる「醜さ」には二重の意味があって、1つは文字通りの「見憎さ」、すなわち「見るだけで不快感を催す」といったものである。
実際平成以降になると映画をはじめあらゆるものが「形が悪い」「下品」「見ていて生理的嫌悪感を催す」といったものが見受けられるようになり、それを表向きの綺麗さで隠している気持ち悪さだ。
そしてもう1つ、これが実は最も大事なのだが、平成の「醜悪」とは「見難さ」、すなわち「本質を見極め可視化することが難しい」という「仕組みのブラックボックス化」にあるだろう。

蓮實が「醜悪」の契機として引き合いに出している1991年の第一次湾岸戦争だが、ネットで検索してもらえればわかるように当時は「まるでゲームみたい」と言われていた。
その証拠に当時基準で高解像度化されたレーダーの映像が頻繁に映しさ出されていたのがこちらである。

無機質だが高解像度のレーダー
ずいぶん冷たく映る湾岸戦争の映像

この映像を見て人々はなにを感じたか?おそらく該当国以外の人々は「何か海外でドンパチやってるらしい」という「他人事感覚=対岸の火事」であり、誰もあれを我が事として認識していなかった。
湾岸戦争だけではない、日本を震撼させた阪神淡路大震災に3.11(東日本大震災)、海外では9.11(アメリカ同時多発テロ事件)にオサマ・ヴィンラディン暗殺にイスラム国、そしてロシアVSウクライナ。
全ての戦争・テロ・災害が「世界の危機」として実感を持って認識される=非日常ではなく、自国は戦場ではないから我関せず=日常と化してしまっているという認識のずれだ。
しかもこの平和ボケと言われる認識のズレは決してそれを我が事として認識できない我々に問題があるのではなく、戦争・テロそのものの仕組みが巧妙にブラックボックス化しているからである。

実際、平成以降の戦争・テロ・犯罪には「心」はあっても「正義」「善悪」といったものがまるで抜け落ち、まるでゲーム感覚で日常のセレモニーと化しているようだ。
怖いのは「いったい誰がどういうきっかけでこの戦いを引き起こしたのか?」がさっぱりわからないことであり、例えばオウム真理教の地下鉄サリン事件も当初あれがオウムの起こしたものだとはわからなかった。
9.11にしても一体どのようにしてあのアメリカ神話を崩壊させたテロリズムが発生したのか、あの現象だけを見てそれを正確に分析・言語化できる人が果たしてどれだけいるというのであろうか?
平成以降の世の中の根底に横たわる「醜悪」とは「見憎い」かつ「見難い」ものであるため、傍目にはそれがどういうものかを理解できないほど裏で巧妙にブラックボックス化されていることの気持ち悪さだと私は思う。

実際、『機動警察パトレイバー2 THE MOVIE』でもやはりレインボーブリッジ爆破テロは突発的に引き起こされ、しかも犯人は後藤に最も近いところにいた「善人」のはずの柘植だったというオチだ。
こういう例は他にも挙げればキリがなく、それこそVHSのみでDVD化されていないが、私が小学生の頃に見た『銀狼怪奇ファイル』でも、一連の学園を巻き込んだ殺人事件を起こしたのは弱者であるはずの薬師寺=金狼であった。
また、これはアニメでもそうだし特撮でもそうだが、どうにも平成以降の戦いを象徴するものとして「ゲーム感覚」というものがあり、わかりやすい例が『機動武闘伝Gガンダム』で東方不敗がドモンに放った次の言葉である。

我が身を痛めぬ勝利が何をもたらす!所詮はただのゲームぞ!

さらにそれを裏付けるように次作『新機動戦記ガンダムW』では高性能AIを搭載した無人のMSであるMD(モビルドール)が登場し、ついにガンダムシリーズにおいて「無人戦争」が実現したのだ。
思えば勇者シリーズにおいて『勇者特急マイトガイン』から超AIという設定が取り入れられたのも「ロボットをAIで擬似人格にしてしまえば人が操縦しなくても戦える」というのである。
しかし、それだと流石にまずいのか『勇者指令ダグオン』『勇者王ガオガイガー』では主人公自らがロボットと一体化することで「Gガン」「エヴァ」のように我が身に傷を負わせてもいるのだ。
そういえば、『電磁戦隊メガレンジャー』の主題歌の2番の歌詞にも「ゲーム」という言葉が入っていた。

ゲームの戦士に まさかなっちゃうなんてうそみたい
いかしてるこのマスク 気分は最高!
だけどドッキリ ホントのバトルは命がけ
リセットできない キビシい勝負

思えばメガレンジャーが当時にしてなぜ「IT」を題材にし、メガレンジャーが格ゲーから生まれた戦士という設定かというと、ある意味では「ブラックボックス化した平成の戦争・テロ」の本質の表れだったのだろうか。
もちろんこれは決して戦いに限った話ではなく、もはや我々の社会自体が最先端のデジタル技術=ブラックボックスの塊に依存せずにはいられないことからまさに「日常化した醜悪」の中で生きざるを得ない。
そんな社会の前に映画をはじめとしたエンタメは敗北してきたわけだが、思えば00年代以降に流行ったものが「親近感」「友達感覚」であったのも、そういうことの表れだったのだろうか。
嵐やAKB48・Perfumeなどが典型だが、「親近感」や「仲の良さ」を前面に押し出してそれが売りになったということは、もはや人同士の繋がりや絆・友情は絶対的価値を持つものではないことの裏返しでもあるだろう。

例えば『ドラゴンボール』までのジャンプ漫画でも例えば「キン肉マン」のように「友情パワー」といって具現化した場合を別とすれば、昔の作品はわざわざ「仲間」「友達」なんて言葉を口にしなかった
なぜならばそんなものはわざわざ言葉にする必要がない自明の理だったからであり、それが平成以降は「醜悪」に覆われるようになってからは絶対的な価値を持つものではなくなったのである
そしてそれは新型コロナでソーシャルディスタンス(社会的距離感)という言葉ではっきり「人同士の物理的な繋がりの断絶」が現実となったのだ。
その先に待ち構えているのはAIの時代……すなわち完全無人の戦争・テロがもしかすると日常化するような未来が訪れて人類は試練に晒されるのかもしれない。

まさに『2001年宇宙の旅』『STAR WARS』以降のかつてのSF映画が予見した通りになろうとしている。
現実に敗北しつつも映画は常に「現在」を映し出すものであり、これが私が映画を見続ける理由なのであろう。

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