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蓮實重彦・青山真治・阿部和重「映画三狂人、アメリカ映画を大いに語る」 (文學界2015年5月号掲載)

 映画監督・小説家の青山真治さんが3月21日、逝去されました。文學界にたびたび登場していただき、会うたびにともに楽しい時間を過ごした青山さんがいなくなってしまった淋しさは、はかりしれません。
 哀悼の意をこめて、2015年の映画特集号の鼎談を、ご遺族、蓮實さん、阿部さんのご了承をいただいてここに全文掲載します。

映画鼎談写真
(写真・山元茂樹)

 米軍の英雄を描く反動的な映画か、PTSDを扱う反戦映画か? クリント・イーストウッド監督の問題作「アメリカン・スナイパー」の「とらえどころのなさ」から映画が今日直面する困難をあぶり出し、アメリカ映画最新作を縦横に語り合う充実の百五十分。

■「幽霊」の撮った映画

 青山 この三人で集まるのは、クリント・イーストウッド監督が自ら主演した最後の作品「グラン・トリノ」(二〇〇八)についての座談会(文學界二〇〇九年五月号)以来、六年ぶりですね。そのイーストウッドの最新作「アメリカン・スナイパー」(一四)は、イラク戦争に従軍し百六十人の敵を殺したネイビーシールズ(米海軍特殊部隊)のスナイパー、クリス・カイルを描いた映画です。
 お二人の感想をうかがう前に言うと、僕は「グラン・トリノ」以降、イーストウッドの作風が変わった気がしています。正直これは違和感です。「インビクタス/負けざる者たち」(〇九)なんか、見終わったあと呆然として、本当にイーストウッドが撮ったのかと疑ったぐらいでした。たとえば、特有の切り返しの撮影技法が全くといっていいほどなくなっていて。前作「ジャージー・ボーイズ」(一四)も僕はどうも乗りきれなかったんですが……。
 阿部 僕も「グラン・トリノ」以降の作品からは、「これはイーストウッドだな」という画面の感触がつかまえにくくなったな、とは思っていました。「インビクタス」後半のラグビーの試合などは、ロバート・アルドリッチの「ロンゲスト・ヤード」(七四)のアメリカン・フットボールをやりたいんだな、と思えるけれども、誰が撮ったのか分からない映画というのが僕にとってもいちばんの感想でした。その後の作品も、それぞれの面白さはあるんですが、「イーストウッド性」が希薄というか。
 青山 細かいディテールの話になりますが、僕にとってその「イーストウッド性」の現在とは、ガラスと鏡ということになります。たとえば、イーストウッドが音楽ものを手がけるとレコーディングスタジオが出て来る。レコーディングブースとコントロールルームがガラスで仕切られていて、双方の視線がガラス越しに行き交う。「センチメンタル・アドベンチャー」(八二)ではブースでイーストウッド演じる中年のカントリー&ウェスタン歌手が咳き込んで倒れ込み、サポートのギタリストに続きを歌うようコントロールルームから指示が出る。「バード」(八八)では、そのガラスをチャーリー・パーカー(フォレスト・ウィテカー)がサックスを投げてぶち割る。「ジャージー・ボーイズ」でもレコーディングスタジオは出てきたけれどそういうドラマがなく、これが不満でしたが、主人公フランキー・ヴァリ(ジョン・ロイド・ヤング)が、盗み出した金庫を乗せた車でショーウィンドウをぶち破るといういかにも七〇年代的な場面が冒頭近くにある。あるいは「J・エドガー」(一一)のジョン・エドガー・フーヴァー(レオナルド・ディカプリオ)は、母親が亡くなった後、彼女の服を着た自分を鏡に映してヨヨと泣く。
「アメリカン・スナイパー」もガラスあるいは鏡のドラマです。要するに、ライフルのスコープというガラスをのぞき込む話ですよね。その向こうにシュートすべき相手を見る。そう思って見ていると、主人公クリス・カイル(ブラッドリー・クーパー)が妊娠した妻(シエナ・ミラー)と二人で自分たちを鏡に映す場面もあります。
 あるいは、カイルに娘が生まれた時に、ガラスに仕切られた保育室で、娘が泣いているのに看護師が無視している。それを外から見ているカイルがだんだん激昂して、「おい、娘の面倒を見ろ!」と叫ぶんだけど中には聞こえないというシーン。またラスト近く、カイルが自宅リビングの椅子に座ってじっとテレビを見ている場面。テレビから激しい戦場の音が聞こえているようなんだけど、キャメラが背後に回って逆になると実はテレビには何も映っていない。彼が完全にPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっていると分かる場面ですが、カットが割れて暗いテレビ画面に寄るとそこにカイルが薄く映っている。こういった場面は「ジャージー・ボーイズ」にも散見され、現在のイーストウッドの演出としてのこだわりがガラスや鏡にあるようなんですね。
 阿部 面白いですね。「アメリカン・スナイパー」ははじめのうちはまた、近作のようなイーストウッド性の薄い映画かと思ったのですが、だんだんと、薄い中にもイーストウッドの刻印が見てとれるようになる。クリス・カイルという実在のスナイパーを描いているわけですが、戦地で決して可視化されてはならないというスナイパーのあり方、そして最後にやってくるものすごい砂嵐の場面などに、イーストウッドの消失願望につながる「幽霊化」のテーマを見いだせたんです。
 蓮實 いま阿部さんのいわれた「幽霊化」という点では、私も映画作家としてのクリント・イーストウッドの活動は「グラン・トリノ」で終わったと思っています。あるいは、映画作家として自分のランドマークを演出した作品のどこに刻みつけておくかということだけで生きている、映画作家としては文字通り「幽霊」のような存在という気がしています。映画作家としてのイーストウッドは同時に役者としてのイーストウッドでもあり、役者イーストウッドとは、監督第一作の「恐怖のメロディ」(七一)から「グラン・トリノ」にいたるまで、一貫して素肌に肉体的な損傷を負うことで作品にイーストウッド印を刻印することしかしていない。
 ところが、「アメリカン・スナイパー」を見ていると、ブラッドリー・クーパーが演じる主人公は、最後に突然殺されてしまうということがあるにせよ、戦場でもテキサスの自宅でも全く肉体的な損傷を受けることはありません。肉体が損傷し奇形化していくのは周りの者たちばかりで、彼はそれを見ているだけです。だから、この映画のブラッドリー・クーパーがどのような形で「イーストウッド化」するのかと思って見ていたら、しないんですね。その意味では、これは完全にブラッドリー・クーパーの映画であり、事実、彼も製作者の一人として製作資金の多くを負担しているようですが、監督イーストウッドは、「もう俺は幽霊として撮っているのだから、このブラッドリー・クーパーの肉体の表面に傷など付けてやらんぞ、イーストウッドにふさわしい聖痕はつけてやらないぞ」と言っているかのようだ。まず、そんな印象を持ちました。
 青山さんがおっしゃったガラス越しの赤ん坊の保育室の場面は、「あ、ここで何かイーストウッド的なものが起こりそうだ」と思って見ていると、パッと夢のように終わっちゃう。あそこが、これまでのイーストウッド映画に一番似ているんじゃないかと思いましたが、理不尽な凶暴さがマゾヒスティックに炸裂することもなく、その予感は貫徹されずに終わります。青山さんが指摘されたように、カイルがPTSDに冒されている可能性を示唆する家庭での場面はきわめて重要ですが、その心的な傷害は、聖痕としてのイーストウッド的な素肌の損傷とは明らかに異なっているように思えます。
 ではかつての映画作家イーストウッドは、幽霊として演出家に徹した結果何を描こうとしているのか。私は、アメリカ映画の主人公が、自分たちの安寧を脅かす他者をSavageという言葉で堂々と指示していることに、大変新鮮な驚きを覚えました。「アメリカン・スナイパー」の存在意義は、その一点に存しているとさえ思いました。
 青山 主人公がイラクの武装勢力を指していう言葉で、字幕では「蛮人」となっていましたね。
 蓮實 アメリカ映画は、これまで何度もSavageという言葉を口にする人物を描いていましたが、これほど雄弁に「蛮人」を敵視したのはジョン・フォード監督の「アパッチ砦」(四八)以来じゃないでしょうか。「アパッチ砦」では士官学校出身のヘンリー・フォンダ演じる騎兵隊の中佐が唯一、アパッチ族に対してSavageという言葉を使うわけですが、結局、彼は「蛮人」たちに攻撃されて戦死してしまう。それから、最近では、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」(〇九)のいい加減な司令官も、侵略した惑星の先住民族に対してSavageという言葉を使い、彼もまた味方に殺されてしまう。つまり、アメリカ映画には、第二次世界大戦の終結以来、イラク、アフガニスタン戦争にいたるまで、敵と見なされる異民族をSavageなどという言葉で呼んではいけないという漠たる倫理的な前提のようなものが支配的であり、だからそれを使った登場人物は何らかのかたちで罰を被って死ぬしかない。ある意味で、これはPC(ポリティカル・コレクトネス)的な視点ですよね。私は気になってクリス・カイルの原作に目を通してみたのですが、文中にはまぎれもなくその言葉が書きこまれていた。彼自身が、「アパッチ砦」以来の伝統などなかったように、何のためらいもなくSavageと言っているのです。それを映画にも堂々と導入しているわけで、そうか、これはイーストウッドは何とも大胆な試みをやってのけたのだなと、感服しました。

■蛮人と英雄の狭間で

 蓮實 つまり、この映画には、いささか欺瞞的でもあるPC的な視線が一切こめられてはいない。イスラム教徒のイラク人たちをごく自然に「蛮人」と呼ぶ男が、アメリカ軍のスナイパーだったのです。だとするならば、この映画はクリス・カイルという主人公を肯定的に描いているのか、否定的に描いているのか。その判断の基準はきわめて曖昧で、実はどちらとも分からない。これまでのアメリカ映画では、異教徒をSavageと呼んだ者は、死ぬか傷を負うか、少なくとも否定的に描くことが長い伝統だったのですが、二十一世紀に生きるこの映画の主人公は、そうしたアメリカ映画の伝統とはまったく無縁の個人であり、最後に頓死してしまうとはいえ、それは処罰とは無縁の偶発事でしかない。これほど大胆にして斬新なアメリカ映画は、おそらくかつてなかった。
 阿部 これまでは復讐という形であった断罪が「アメリカン・スナイパー」にはないわけですね。
 蓮實 その断罪なしというところが、圧倒的にすごい。つまり、これはまったく新しいアメリカ映画になってしまったのですが、それは多分受け継がれまいし、一代限りのものではなかろうかと思う。この後アメリカ映画の中で誰かがSavageと言ったら、その人はやはり死ぬはずですから……(笑)。
 阿部 言った以上、責任を取らせると。
 蓮實 その責任も取らせず、しかも最後にクリス・カイルの現実の葬儀の模様を流し、しかもエンドロールでは音を消してしまう。共和党の元副大統領候補だったサラ・ペイリンが「アメリカン・スナイパー」を「真のアメリカンヒーロー」などと力を込めて擁護したそうですが、そういう人間が出るだろうなぐらいのことは、イーストウッドは当然分かっている。
 阿部 「グラン・トリノ」でイーストウッド自身が演じた、元軍人で口の悪い老人の言葉づかいが、ここに接続されているのかもしれないですね。
 蓮實 ええ、あの偏屈な老人だってSavageぐらい言ってもおかしくないような男だった。ところが、おそらく兵士時代には「蛮人」と呼びもしただろうアジア系の少年にその愛車を遺贈することで、Savageと口にしてもおかしくはない自分を否定している。「アメリカン・スナイパー」の主人公は、それを肯定しているようにも見えちゃうわけじゃないですか。おそらく今アメリカで大当りしているのは、この映画が彼のことを賛美し肯定しているというふうに見る人たちが、ある程度まで劇場につめかけているからでしょう。
 青山 「ヒーロー」という言葉と対になって「サベッジ」があるのかなという気もしました。クリス・カイルは劇中で何度も「英雄(ヒーロー)」「伝説(レジェンド)」と称えられるけれども、自分はそんなものじゃないと否定するでしょう。でも観客の中には、ドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアのように「スナイパーは卑怯な存在で、ヒーローじゃない」という、これもまた一面的な捉え方で括る人もいる。だから、「サベッジ」と「ヒーロー」の逆転現象が起こっているという空気も感じます。
 蓮實 この映画について語ったマイケル・ムーアのインタビューを読むと、彼も馬鹿ではなく、「アメリカン・スナイパー」をたんなる「反動映画」とは必ずしも捉えていない。イーストウッドにとって、この映画の意図を捉えそこなう人がいても、それは俺の知ったことかということなのでしょう。その点で、久方ぶりにイーストウッドが幽霊として映画作家を演じているような気がしました。ペイリンのような鈍感な政治家がこの映画に万歳をしてしまうという事態は、現代のアメリカにおけるある種の頽廃をそのまま表しているわけじゃないですか。そしてそれを否定するような人たちもまた出てくるだろうし……。
 阿部 ペイリンのような連中が快哉を叫ぶ一方、「これはPTSDを扱っていて、保守派が喜ぶような映画には必ずしもなっていない」という批評もある。つまり、積極的な「捉えどころのなさ」というか、曖昧さ、幽霊性を作品化しているところにこの映画の可能性、蓮實さんが今話された新しさがあるのではないか。でもそれは、いわゆる新しさとは違う「新しさ」だと思うんです。比較的最近の「戦争」映画と比較するとそれが際立ってくる。

■イーストウッドの「作り物性」

 阿部 例えば「ローン・サバイバー」(ピーター・バーグ、一三)と「キャプテン・フィリップス」(ポール・グリーングラス、一三)。どちらも実話に基づいていて、ネイビーシールズが出て来ます。アフガニスタンでのターリバーン指導者暗殺作戦の失敗を描いた「ローン・サバイバー」は、これが結構当たったことで「アメリカン・スナイパー」の企画も実現したという経緯があるらしい映画ですが、演出自体はかなり噴飯物で、兵士一人一人の死をスローモーションを使ったりこれ見よがしにハレーションを入れたりして美しく、壮大に謳いあげてしまう。山岳地帯で包囲された兵士たちが次々に撃たれて転がり落ちる場面の迫力はなかなかのものがあるのですが、それでも、「プラトーン」(オリバー・ストーン、八六)でウィレム・デフォーが地面に膝をついて両手を上げながら死んでゆくのをスローモーションで撮ったような、ああいうのが何度も繰り返される感じで、悲壮美に傾きすぎている。もう一方の「キャプテン・フィリップス」は、アメリカの輸送船がソマリアの海賊に乗っ取られて船長が拉致されるのですが、いわゆる擬似ドキュメンタリーの手法を取り入れ、細かくカットを割りながら人物の行動だけを淡々と追うことでカッコ付きの「リアリティ」を演出する。というように両者は対照的に見える映画です。では、同じように実話に基づく「アメリカン・スナイパー」はどっちなのかというと、どっちでもなくて、「映画」としか言いようがないものではないかというのが僕の考えです。
 クリス・カイルが病院で生まれたばかりの赤ん坊を抱っこする場面がありますが、顔を写さないし、手足の動きもない。あの赤ちゃんは多分人形だと思います。本物であれば、もっとわかるように撮っていたはずだからです。ブラッドリー・クーパーが手でわざと動かしているのが余計に人形っぽく見えた。しかし僕はそこに、「別に赤ちゃんは人形でいいじゃん」という、イーストウッド作品に共通する積極的な作り物性を感じました。「J・エドガー」「ジャージー・ボーイズ」で役者たちに露骨な老けメイクをさせていることともつながる、イーストウッドの一貫した創意です。
 青山 確かに、「実話に基づく」といいながら電動ドリルで人を殺す、「ドリラー・キラー」(アベル・フェラーラ、七九)みたいな、いかにも狂った悪役が出てきたり、敵が犠牲者の死体の一部をコレクションのように陳列した棚が出てきたりして、こんなの本当にあったのかな、といういかにもSavageを印象づける「作り込み」を感じました。頭の皮を剝ぐインディアン的な要素でしょ。あれらは俄かには信じ難い。
 阿部 だから、戦争映画なんだけど、どんどん西部劇に傾いていくようでもあり、つかめない。そうした作り物性の強調は、実話を撮る上でのイーストウッドの倫理観と思えないでもない。
 青山 しかし果たして西部劇的なものはこの映画にあるんでしょうか。僕は今ひとつよくわからなかった。
 蓮實 クリス・カイルの生まれ育った場所がテキサスだったり、ロデオで身をたてようとしたり、西部劇的な要素はずいぶんと描かれていながら、私も西部劇性はあまり感じませんでした。戦地に行っても「辺境」という危機的な孤立が画面処理で行われておらず、エリートとしてのクリス・カイルだけが安全な立場にいるからです。スナイパーといってすぐに思い出されるのは、北ベトナムの女性スナイパーが出て来るスタンリー・キューブリックの「フルメタル・ジャケット」(八七)ですが、本当にかなわない強くて危険な見えない敵が味方を苦しめていて、そいつを殺さなきゃどんなことをしても駄目だというあの状況に、むしろ西部劇的なものを感じました。言ってみれば、とても狡猾なインディアンみたいなもので、しかもそれをようやく追い詰めてみたら若い女性だったというどんでん返しのあざとさに、公開当時の私は非常に腹が立ったんですが……(笑)。「アメリカン・スナイパー」では、ムスタファというあの絵に描いたようなイスラム系のスナイパーが画面に登場しており、しかも強そうじゃないですか。
 阿部 頭もすごく良さそうな感じで。
 青山 銃を組み立て直すディテールまで写して、キャメラがパンすると、彼がオリンピックで金メダルを獲った時の写真が写る。彼がクリス・カイルと同格の人間だということを、あそこでちゃんと描いているんですよね。
 阿部 そこはもしかしたら、青山さんが指摘した鏡の関係性とつながってくるんじゃないですか。
 蓮實 まさしくそう思いました。だから、言ってみれば二人のエリートの対決みたいなものでしょう。ただ、射撃の名手という点で、すぐにハワード・ホークスの「ヨーク軍曹」(四一)をも思い出しました。「ヨーク軍曹」の舞台は第一次大戦ですが、これこそまさに西部劇みたいな話で、機関銃があればそれを掃射すれば済むところを、歩兵たちが対峙し合っていて、射撃の名手といってもエリート性とは無縁の農民出身であるゲイリー・クーパー演じるヨークが、一人でドイツ兵を二十五人射殺し、百三十二人のドイツ兵を捕虜にしたりする。だから映画史においては、エリートのスナイパーでなくたって何十人かは殺せるわけです(笑)。ただ、映画の中でスナイパーというものが今までさほど注目されていなかった。「フルメタル・ジャケット」以来久方ぶりではないでしょうか。
 阿部 トム・ベレンジャーが米海兵隊の狙撃手を演じた「山猫は眠らない」シリーズ(ルイス・ロッサ他、一九九三~二〇一四)ぐらいでしょうか。「プライベート・ライアン」(スティーヴン・スピルバーグ、九八)にもスナイパーが活躍する場面がありました。
 青山 最近では、イラクを舞台に米軍の爆弾処理班を描いた「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー、〇八)にもスナイパーが出てきましたね。

■イスラム国の処刑映像

 阿部 「ハート・ロッカー」は、ちょっとひどかったですね。撮り方そのものは「キャプテン・フィリップス」のような擬似ドキュメンタリー風なのですが、演出のほうはさっきの「ローン・サバイバー」に近いため、両者が相殺し合ってよくわからないことになっている。最後なんて、ジャーンとハードロックが流れて兵士たちの英雄ぶりが強調されるので、アメコミ映画かと錯覚させられる始末。
 ちなみにこのちぐはぐな印象は、じつは最近、映画とは別のところで感じたことがあって、それはしばらく前に、過激派組織イスラム国がネット上で公開した、ヨルダン人パイロットの火あぶり処刑やエジプト人キリスト教徒二十一人の斬首殺害の映像から受けたものでした。公開直後は、その残忍さのみならず、劇映画並みの編集加工や音楽利用の演出が施されていることで世間は騒然となったわけですが、多くの人がそれを玄人的技術の導入と見てとってしまった。9・11のテロ攻撃が内容の面で「ハリウッド映画的」とたとえられていたとすれば、今度は表現形式や技術の面でそう形容されていたわけです。しかしまともに見れば、あれは素人の発想以外の何ものでもないとしか言えないはずです。つまりその加工技術が使用されるべき出来事上の必然があって生み出された演出ではなく、既存の映画やPVやCMで多用されているステレオタイプの映像表現をそのまま使ってみました、というものにすぎない。そこからこちらに見えてくるのは極度なまでの露悪性ばかりであり、だからこそ今どきの情報社会におけるPRとして、いわゆる炎上商法的に効果を持ってしまうという皮肉な事態になっている。そういうものを、プロの映像技術者たちが「素人の仕事じゃない」などとコメントしている記事を読んで少し呆れてしまいました。いくら過激派組織に専門のメディア部門があるといっても、設備の充実が玄人性を保証するわけではなく、技術の使われ方でこそ見極められねばならないはずですから。
 それはともかく、ビグローの監督作では、オサマ・ビン・ラディン暗殺を描いた「ゼロ・ダーク・サーティ」(一二)は実話に基づいていて、CIAにかなり綿密に取材したせいでかえってそれが作り手側の自由度を狭めた結果、不要な演出の入る隙がなく、ちぐはぐさをまぬかれていて、内容も規模の大きな悪徳警官ドラマみたいで悪くなかったですが。
 青山 「ハート・ロッカー」も「フルメタル・ジャケット」と同じパターンで、隠れている敵をどうにかしないとこちらが死ぬ、という状況でスナイパーが活躍する。
 蓮實 それでスナイパーが一応カッコ付きの「正義」ということになる。
 阿部 もともとはスナイパーは襲ってくる側だったわけですね。
 蓮實 本来は見えない敵として、恐怖の対象としてあったスナイパーが、ここでは逆に「蛮人」にとって恐怖の主体になっちゃう。そんな映画ってこれまであったのだろうか。
 青山 イーストウッド自身は、「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」(セルジオ・レオーネ、六六)の冒頭で「偽のスナイパー」をやっていますね。お尋ね者と取り引きして、お尋ね者が絞首刑になる瞬間に遠くから銃を撃ってロープを切り、後で賞金を山分けする。
 蓮實 「アメリカン・スナイパー」にはそんな屈折したユーモアは皆無ですから、一つ間違えばどっちに転ぶか分からない、微妙な映画ですね。実際にどうかは知りませんが、大規模な上映反対運動が起こったりしてもおかしくない問題作です。
 阿部 僕は劇場用パンフレットに寄稿したのとは別に、新聞用の推薦コメントも出しましたが、短文での紹介となると、ちょっと考えちゃいましたね。
 青山 こうなると、たとえば安倍政権はこの作品を歓迎するのか警戒するのか、どっちなのかよく分かりませんね。

■スナイパーからドローンへ

 蓮實 そこで、こういう曖昧な映画がどうしてできあがったのかということを考えてみたんですが、私の感じでは、第一次湾岸戦争の頃から、戦争をめぐって、ことの善悪とは違った何かが出てきてしまったような気がする。九一年の第一次湾岸戦争の時に感じたのは、美しいとは何か、醜いとは何かを措定する以前に、それは事態として顔をそむけるしかないほど「醜悪だ」ということでした。9・11にもその「醜悪さ」がまつわりついていた。あのビルの崩壊そのもののことではありません。それを起点としてアメリカ社会で、あるいは世界的な規模で起こったのが、善悪を超えた醜悪さの顕在化であり、今やその醜悪さは日常化されている。最近のフランスの「シャルリー・エブド」の騒ぎにせよ、世界の国家元首たちが整列したあのデモのように、日常化された醜悪さが儀式化されてしまったような事件だと思います。日本もまた、その日常化された醜悪さの中に今生きている。
 そうすると、ブラッドリー・クーパーが演じたあの主人公は、その日常化された醜さを、醜さとは思わせないように体現しちゃっている男じゃあないかという気がする。彼は敵をSavageと呼び、その「蛮人」たちから味方を護ることは、彼にとっては善のつもりなのでしょうが、彼が善を行おうとすればするほどその醜さが際立つ。しかしその醜さは、既に人々によって共有されてしまっているから、醜さとは映らない。本来であれば目を背けたくなるような醜悪な人間なのですが、彼自身そうと自覚しているわけでもないし、周りの人々もそう考えていない。そういう人物を描いたのは、私はイーストウッドが多分初めてじゃないかと思うんです。
 善悪を超えた、目を背けたくなるような醜悪さそのものといってよい人間が、女を愛したり赤ん坊を育てたりしている。そうした日常化された醜悪さそのものを描写の対象にする、そんなことがかつて映画にはあっただろうか。たとえばヒトラーは映画でいろいろな描かれ方をされているけれども、どこか滑稽でありながら、人類にとっては普遍的な悪という前提がありますから、この無意識の醜悪さとして人目を惹くことはなかったと思う。だから私は、フリッツ・ラングのような「悪」の映画作家が生きていたら現代をどう描くだろうということをつい考えてしまいます。
 阿部 「悪」にしても、あの時代の悪とまた違ってしまっているわけですよね。
 青山 今のお話から、「許されざる者」(イーストウッド、九二)を思い出しました。イーストウッドが演じる主人公ウィリアム・マニーはかつて何人も殺した悪党だったが、今は子どもも育てて一般人として生きている。「醜悪さ」から救われているように見えるけれども、もしかするとマニーもPTSDを抱えて生きているような存在だったのかと思えますね。
 蓮實 私もこの映画から「許されざる者」の最後との関係を強く感じました。マニーが雨に濡れた暗闇の、晒しものにされた親友(モーガン・フリーマン)の遺骸のかたわらで、「俺に歯向かう者がいるなら、女であろうと、子どもであろうと容赦なく殺すぞ」と町の人々に宣言しますが、「アメリカン・スナイパー」の冒頭で主人公はまさにその通りのことをする。
 阿部 クリス・カイルの戦場で最初の狙撃の相手がまさに子供と女性なんですね。
 蓮實 ただ、「許されざる者」のマニーは心が傷ついてあのように言わざるを得なかったと分かるんですが、クリス・カイルにはそうした屈折がまるでない。
 阿部 ウィリアム・マニーにはある種の理念がありますが、クリス・カイルには考えている感じがないんですよね。当たり前のように戦場へ行って、敵に仲間が殺されているから自分も殺し、家に帰れば妻子と触れ合う。
 青山 目の前にあるすべきことをしているというか、条件反射的に動いているような感じがします。クリス・カイルがイラクの空港でこれから帰国する弟とすれ違い、短いやり取りがある。その後に彼はちょっと変わるんですよ。
 阿部 弟の変貌ぶりに、ちょっと動揺した表情を見せますよね。
 青山 その後、仲間の一人が目の前で撃ち殺されたことに対して、「あいつはなぜ死んだか。戦場にいることに疑いを持ったからだ」なんてことを言う。果たして本心かどうかは分からない。なんか無理に言っている感じもある。あの辺から彼が病んでいくことは分かるんですが、それが可視化はされない。
 阿部 冒頭で述べたように、スナイパーは戦地では「誰にも見えない存在」であることによって最大限の能力を発揮します。隠れた所から敵を見つけ出して撃ち殺すという、神の視点に近いところにいる。同時に、いったん敵に見つかってしまえば逃げ場がない、もろくて危うい立場でもある。そういう両義的な存在です。
 映画の最後の方に無人航空機が出て来ますね。無人航空機というのはスナイパー以上に隠された攻撃の主体です。なにしろ操縦士は戦場に不在であり、まさに幽霊として戦争に参加しているようなものです。その意味で、無人航空機の視点が、スナイパーのそれを超えるものとしてある。クリス・カイルが従軍したのはいわば戦争の過渡期で、今後スナイパーの役割が完全になくなることはないにしても、米軍はもはや無人機による空爆はやるけれども歩兵は出さない、という方向へどんどん向かっている。
 青山 あの無人航空機、いわゆるドローンというのは本当に役に立つんですかね。あっさり撃墜されても不思議じゃない気がするけど。
 阿部 ブッシュ政権下のイラク戦争では、自国民の死を避けるという狙いもあって兵力の小規模化と兵器のハイテク化がラムズフェルド主導で推し進められたと言われていますが、その時代よりもオバマ政権下のほうがドローンによる爆撃ははるかに増えていると報道されていますね。それだけ技術革新が年々進んでいるということなのでしょうが、たとえばトニー・スコット作品などのスタントマンたちが撮った「ネイビーシールズ」(マイク・マッコイ、スコット・ウォー、一二)は、本物のネイビーシールズ隊員が本物の武器を使って演技し部隊の活動を描くというのが売りの映画ですが、そこには、敵地潜入の際まずレイヴンという模型飛行機のような小型のドローンを飛ばして偵察する描写がある。そんなふうに、さまざまな形で活用されているのは間違いない。
 だからマイケル・ムーアのようにスナイパーのことを「卑怯」と呼ぶのなら、戦闘の非対称性がさらに強まった、より卑怯な形へと攻撃の仕方が移ってきているとも言える。攻撃の主体がどんどん見えなくなる、そうした戦場の現実の変化を、「アメリカン・スナイパー」の最後の戦闘場面、あの何も見えなくなってしまう砂嵐で幕を閉じる一連の過程がとらえているように僕は感じました。
 蓮實 スナイパーそのものの技術というと、これは狙えば当たるものなんでしょうか。最後にクリス・カイルが宿敵のスナイパーを倒す場面など、ある意味ではめちゃくちゃじゃないですか(笑)。一キロより遠いところから撃っているわけでしょう。リアリズムという点からしてどうなんでしょう。
 阿部 ちょっと「ゴルゴ13」の世界でしたね。
 青山 これまた信用できない気もするけど、クリス・カイルは実際に千九百二十メートルの長距離狙撃の記録を持っているそうですね。
 阿部 一方で、現実のクリス・カイルはほら吹きの側面もあったらしくて、名誉毀損の訴訟を起こされて負けたりもしている。それはアメリカに帰国してからの話なので、戦場での彼の経験がどこまで「盛られて」いるかは不明です。いずれにせよ、現実の彼は先ほど蓮實さんが言われた「醜悪さ」も余計に持っているような存在で、相当に変な人ではあったみたいですね。その一方で、傷痍軍人をサポートするNPO活動もしていて、彼が助けようとしていた元兵士に射殺されてしまうのですが。
 蓮實 たまたま昨日、犯人に終身刑の判決が出ていましたが……。

■「実話に基づく」の罠

 蓮實 しかし、そもそも人はなぜ実話を映画化するんでしょう? 実話を映画化するためには、誰かがその実在の人物の役を演じなきゃいけないわけですが、それが私にはよく分からない。
 阿部 観客側から見れば、九〇年代から続いているリアリティショーブームが背景の一つにあるのではないかという気がします。家の中に備え付けられたカメラで住人の日常生活を捉えるような擬似ドキュメンタリー番組が人気を博していること。またその発展的延長としてある、インターネット上のカッコ付きの「リアリティ」に支えられたSNS文化を背景に、「実話」がさらに求められ出したとも言える。
 撮る側からすると、技術的にはデジタル合成技術の発達で表現の幅が広がる一方で、PCや権利関係などの問題から、画面に何が写って良いか・悪いかの制約は年々厳しくなっている。その二つの狭間で苦労しながらアメリカ映画が撮られている中、その両方を満たすということで、「実話」が一種の免罪符となっている面もあるのだと思います。「なぜこれを撮ったのか」と聞かれたら「実話だから」と答えれば良いわけです。
 蓮實 Based on a true storyというやつですね。でも、実話だから許されるというのは、つまり実話というものは真実だという前提が一応あるわけでしょう。ところが、それを映画で撮ることは真実とはおよそ無縁のことなんですが……。
 阿部 その転倒がなかなか理解されていないところだと思います。実在の人物を演じることが役者の腕試しになっているところもある。オスカーにも手が届きやすい。
 青山 興行的な理由も大きいでしょう。「ダークナイト」(クリストファー・ノーラン、〇八)とか「インセプション」(ノーラン、一〇)みたいな大きなフィクションがヒットしつつ、一方で「これは実話ですよ」という映画にも多くの客が入っている。
 蓮實 「ジャージー・ボーイズ」だって一応は実話なわけですからね。
 青山 「グラン・トリノ」を除いて、イーストウッドはずっと実話の映画化が続いていますね。「チェンジリング」(〇八)も、「ヒア アフター」(一〇)さえも一応実話が基になっている。きっと実話というと観客の知的好奇心をかき立てるんではないでしょうか。
 蓮實 そうした映画について、映画が発信した以上のものをあらかじめ観客は知っている、知っていると思ってしまっているということなんでしょうか。
 阿部 その確認のために映画館に行く、というところもあるような気がします。
 蓮實 ところで今、イーストウッドはフィルムで撮っていませんよね。
 青山 「ジャージー・ボーイズ」からデジタルで撮っていると思います。
 蓮實 「アメリカン・スナイパー」は、最後の砂嵐が来る以前からモノトーンで統一して、あまり派手な色を使っていないでしょう。どういうキャメラでああいう効果を出しているのかなと思いました。キャメラはいつも組んでいるトム・スターンですね。

■テキサス勢の台頭

 蓮實 フォー・シーズンズを描いた「ジャージー・ボーイズ」は、皆さんかなり誉めておられましたが、私は全く駄目だった。ミュージカル映画として、例えば「シカゴ」(〇二)のロブ・マーシャルなんかよりは巧いっていうのは分かるんだけど、本格的に巧くはない。
 青山 みんなが誉めているラストのダンスシーンが、僕は全然駄目でした。せっかくダンスが上手いクリストファー・ウォーケンが出ているのだから、しっかり踊らせればいいのに。ラストシーンでがっかりするとは。
 蓮實 「お前さん、「カリフォルニア・ドールズ」(ロバート・アルドリッチ、八一)の最後ぐらい見たの?」って言いたくなるじゃないですか。努力せずにあそこまで撮れるという人ではあるにせよ、少しは努力すべきだと思いました。北野武さんの「座頭市」(〇三)の最後のタップダンスの方が、ある意味ではずっと思い切りがよい。
 阿部 僕は、先ほど言った老けメイクに一貫性を感じて感動しましたけどね。それとボスの家でフランキー・ヴァリが仲間の借金を立て替えるかどうかの話し合いをする場面で、グループのメンバーの一人が辞めると言い出したりして、どこに行くかわからない画面の積み重ねも良かった。
 蓮實 おっしゃることはよくわかります。ただ、自分が出ていない作品でも、「チェンジリング」ぐらいまでは、あるいは「ヒア アフター」ぐらいまでは、そうした画面の積み重ねが本格的で冴えていたと思う。でも、そのぐらいだったら、アメリカの一九五〇年代の映画作家がもっとバシッとやったんじゃあないかとも思う。もちろん「ジャージー・ボーイズ」が失敗作などと言うつもりはなく、あれだけの作品を見せてもらえれば十分ですが、しかし私はイーストウッドにそれ以上のものを期待しがちな人間で、そうした視点からすると、これはちょっと長すぎると思いました。私は、イーストウッド自身が出ていない「バード」がどうしても好きになれません。それは、先ほど触れた実在の人物の映画化の問題ともかさなってくるのですが、「バード」でチャーリー・パーカーを演じた役者ってどうなんでしょうか。
 青山 フォレスト・ウィテカーですか、好きでも嫌いでもないというか……。
 蓮實 うまく見せてくれればいいなと思ったんですが、どうも収まっていないという印象です。「グラン・トリノ」以後のイーストウッドでは、「ヒア アフター」が意外に好きなんです。女性を溺れさせて酷い目に遭わせているところなんか、「ああ、やってる、やってる」と(笑)。
 阿部 水中で流されてきた車にガーンとぶつかったりしていました。
 青山 今回の砂嵐は、あの「ヒア アフター」の津波以来のものすごいことになっていましたね。
 蓮實 長さのことを言うと、「アメリカン・スナイパー」は二時間ちょっとでしょう。一時間四十分にまとめてはいけなかったんでしょうか。前半でロデオを見せたり、軍の訓練で上官からホースで水をジャブジャブ浴びせられたりする――あのジャブジャブはいかにもイーストウッドらしいなと思いましたが――あのくだりは本当に必要だったんだろうか。
 青山 いらないですね。ロデオで弟との関係を示して、訓練の場面でネイビーシールズとはこういうものなんだ、と示したかったんでしょうけど。
 阿部 訓練というシチュエーションへの偏愛を抱えている僕としては、あのくだりも好きだったのですが、それはそうと、クリス・カイルという人物の多面性を見せるために、戦闘以外の場面が必要だったということかもしれません。
 蓮實 それは視覚化して見せなくても、言葉などで説明できたのではないか。あのあたり私は正直ちょっとダレてしまい、「お前さん、そろそろイラク行かなくていいの?」と思いました(笑)。現代のアメリカ映画ではシナリオライターが非常に重視されていて、監督たちが撮るものをかなり限定するわけでしょう。そうすると、あの辺りを書いているシナリオライターがどこまで本気なのかと思ってしまう。本気というのは、その場面が後にどのように画面に生かされるか、ということをはたして考えているかということです。その点から見ると、ロデオも射撃訓練も水責めも視覚的には必要なく、唯一必要だと思うのは、子供時代のクリス・カイルが父親に〝Yes, sir.〟と答えているところだけだと思う。
 阿部 クリス・カイルがロデオで優勝して賞品のベルトバックルをもらうでしょう。あれを最後にまた付けるんですね。いわば彼が戦場から完全に帰ってきたという証に。そのドラマの構成上ロデオの場面が欲しかったんだろうと思いますが、まあなくてもそれを組み立てることはできたかもしれないですね。
 蓮實 イラクに四回行くというのも、これは本当に四回行ったんでしょうけど、三回ぐらいでいいんじゃないでしょうか。四回目というともう何だか分からなくなるわけです。現実に四回行ったんだから四回撮るとか、現実にロデオをしたからロデオを撮るということをしなくてもいいのではないか。
 阿部 そういう律義さが実話を映画化することの弊害なのかもしれないですね。
 青山 しかし、ラストシーンは「あっ」と思いましたよ。主人公を玄関で奥さんが見送る切り返し、あそこは唯一ホッとしたというか、実話に縛られない瞬間があった。
 阿部 まさに「映画」ですよね。あれはクリス・カイルが殺される場面を撮らないための、映画のエンディングとしてやっているわけですから。
 青山 あの切り返しの時、ちょっとだけキャメラが彼女の顔を移動しながら映す。「あ、イーストウッドの映画だ」という瞬間で終わったという感じがしました。
 阿部 最近のアメリカ映画で、「これだ」という作品はありますか。
 蓮實 面白いものはいろいろあるでしょうが、昨年の暮れにちょっと病気をしてから、全然見られていません。「グランド・ブダペスト・ホテル」(一四)のウェス・アンダーソンは素晴らしいし、最近の若い人では「セインツ―約束の果て―」(一三)のデヴィッド・ロウリーはいいですね。
 阿部 七〇年代のテキサスを舞台にしたクライムドラマである「セインツ」は、音楽の使い方などにテレンス・マリックの影響を感じさせますが、ショットをきちんと撮ろうという姿勢が感じられますね。構図の切り取り方、車の撮り方もいい。年代物のパトカーと二台の車が並んでいるのを横から撮っている画なんか、なかなかいいなと思いました。
 青山 非常に堅実なフィックスショットを撮れる人です。簡単なようでこういうことでキメられる人はいまほとんどいない。
 蓮實 ショットの切れ味はテレンス・マリックよりいいんじゃないか。「シン・レッド・ライン」(九八)あたりからキャメラをやたらに動かすようになったマリックに対し、「セインツ」の監督は多分手持ちもあるんだろうけど、フィルムで撮っているキャメラをほとんど動かしてはいない。デヴィッド・ロウリーはウィスコンシン州生まれですが、テキサスで育っている。ウェス・アンダーソンもテキサス生まれでテキサス大学出身。今のアメリカ映画におけるテキサスというのは、圧倒的に知的なんです。
 青山 「6才のボクが、大人になるまで。」(一四)のリチャード・リンクレイターもテキサスですね。
 阿部 アメリカ映画は今テキサスの時代なんですね。

■評価が割れるフィンチャー

 蓮實 これからのものでは、合衆国での評判はともかく、マイケル・マンの「ブラックハット」(一五)は楽しみです。
 青山 ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレント・ヴァイス」(一四)もありますね。
 阿部 若手作家の映画だと、今年度のアカデミー賞の助演男優賞(J・K・シモンズ)と録音賞、編集賞を獲った「セッション」(デイミアン・チャゼル、一四)も悪くなかったです。音楽学院のジャズバンドでドラムスを担当する学生と鬼教官みたいな教授がぶつかり合う話で、J・K・シモンズの演技ばかりが注目されていますが、あの映画はむしろドラマの構成に見るべきものがある。ただの熱血スポ根ものかと思いきや、展開が二転三転して緊張感を高めてゆき、クライマックスとなるライブ演奏場面の大きなカタルシスに結びつけるというアイディアは、あざとさはあるものの合格点をあげていいと思います。
 青山 オスカーの授賞式で見た予告編で、スパルタ教授が青年にビシビシ、ビンタを張っていましたね。
 阿部 まあビンタ自体は、「その男、凶暴につき」(八九)の北野武さんのビンタには全然およばないんですが(笑)。とにかく、めまぐるしい展開がかなめの映画なのですが、そうした構成のアイディアは、もしかしたら「ブレイキング・バッド」(〇八~一三)あたりの近年のアメリカのテレビドラマの影響なのかもしれません。
 蓮實 監督はいくつぐらいの人ですか?
 阿部 まだ若くて三十歳ですね。サンダンス映画祭から出てきた人で、これがまだ監督二作目の長篇です。
 蓮實 サンダンス映画祭は、しかるべき才能の持ち主を一応は発見している。「セインツ」のデヴィッド・ロウリーだってサンダンス出身でしょう。
 阿部 ほかには、これも実話の映画化の「フォックスキャッチャー」(ベネット・ミラー、一四)も観ておいて損はないと思いました。レスリングのオリンピック選手をデュポン財閥の御曹司がスポンサーする話。撮り方など含めて、全体に演出がガス・ヴァン・サントっぽい感じで。
 青山 監督は「カポーティ」(〇五)の人でしょう? うまい人ですね。そつなくきれいに撮る人。
 阿部 そうなんです。良くも悪くも上品で、「フォックスキャッチャー」ではそれがいっそう洗練された感じになっていました。
 青山 昨年のアメリカ映画の話題作では、デヴィッド・フィンチャーの「ゴーン・ガール」(一四)は……どんくさかった(笑)。まあ、後半で出てくる、女が男の喉を搔っ切る場面が堂に入っていましたけどね。そこだけは「よしっ」と思ったけど。
 阿部 僕は逆に「ゴーン・ガール」は積極的に評価したい。デヴィッド・フィンチャーはスタンリー・キューブリックの後継者だと僕は考えているのですが、フィンチャーはついにキューブリックを超えたとTwitterに書きました。
 蓮實 阿部さんは以前からフィンチャーを高く評価されてますでしょう。「ゴーン・ガール」は見てないですが、私は彼の映画に一度も心から惹かれたことがない。前作の「ドラゴン・タトゥーの女」(一一)も駄目でした。お前さんのやりたいことは分かるけれども、上映時間(百五十八分)のうち三十分は無駄じゃないの、という感じがして。
 阿部 その無駄な部分をどう受け止めるかで、フィンチャーの近作は評価がわかれる気がします。フィンチャーは、実話映画的な律義さからか、原作にある物語上の大量情報を不可欠と見て、それらをどうしても作中に詰め込みきらずにはいられないところがあり、演出もそれを基点として組み立てているのではないかとさえ思える節がある。僕もこの監督をいつも手放しで称賛してきたわけではないのですが、前作でそのことに気づいてからすんなり乗れるようになったんです。そういえば、「ドラゴン・タトゥー」主演のルーニー・マーラは「セインツ」のヒロインでもありますよね。「ドラゴン・タトゥー」のルーニー・マーラも僕、ちょっと好きなんです。
 蓮實 まあ、ああいう役柄ですからね。しかし、「セインツ」であんなに生き生きとしている女優が、どうしてフィンチャーの映画ではこうなってしまうのか、と。
 阿部 「ゴーン・ガール」は、これまでフィンチャーが形を変え何度も描いてきた、「完璧に作動するはずのシステムがエラーを起こす」という物語(それはキューブリックが繰り返し描いてきたことでもありますが)の、さらに先を描いている気がしたんです。今回は完全犯罪というシステムが、確かに誤作動を起こすものの、サイコパスにしか見えないような女性キャラクターを中心に据えることで、最終的にはエラーと完全犯罪の達成を両立させてさらに別のシステムが作動してしまうという特異な構造を出現させた。つまり映画では事件は最後まで片づかず、謎が解明されても解決させる方法がないということを示して幕切れとなる。その意味において、キューブリックがやってきたことの限界を乗り越えたと感じたんです。
 蓮實 なるほど、そうした視点からいっぺんフィンチャーとキューブリックをじっくり見直すことにします。
 阿部 昨年の話題作でもう一本、巷の評価が高いものというと、クリストファー・ノーランの「インターステラー」(一四)があります。しかしこれは、肝心のお芝居のところで何の演出もしていない作品でした。
 蓮實 ノーランという人には演出力が全くない。
 阿部 これまでもそうでしたが、「インターステラー」は際立ってそれが出てしまった。SF的な作り込みによってSFファンには非常に受けが良いみたいで、それは別にそれでいいんですけど。

■演出力のないノーラン

 蓮實 でも、決定的なショットが撮れない人でしょう。だから、「ダークナイト」もそうでしたが、役者がエキセントリックなお芝居をしない画面はとても見てられない。
 阿部 もともと活劇場面が全く撮れない。「インセプション」の雪山の場面なんかひどいものでした。それは活劇場面だからそうなっちゃうのかと思っていたら、「インターステラー」は普通のドラマの場面も全然駄目で。役者は力のある人をそろえて、何とかそれでつないでいるような感じがある。主人公の家の周りがだだっ広いトウモロコシ畑で、時間稼ぎのためにそこに火を放って、農夫たちが消火作業をしている間に家の中である重要事に取り組むというくだりがあるんですけれども、そのあたりのドラマの見せ方が特にひどくて目も当てられない。なぜこんなことをしているの? というような間抜けな感じになっちゃってるんです。ほかにも、シチュエーションだけつくっておいて役者の動かし方にはなんの工夫もないという場面ばかりで、これだったらリドリー・スコットのほうがはるかに立派だなあと思えてしまう。
 蓮實 「インセプション」のあの雪山の場面、こうした挿話を普通に撮れるかどうかで映画作家の存在価値が問われることになるのですが、惨憺たるものでしたね。先ほどのデヴィッド・フィンチャーで私が気になっているのは、固定画面であるはずのショットでキャメラが微妙に動くでしょう。フィックスで止めておけばいいのに、と思うんだけど。あれは何なんですか? 
 阿部 確かに、変なキャメラの動きが気になることがありますね。さっきも言いましたが、フィンチャーは、細かい情報をどんどん入れていくことで自分なりの演出のリズムを作っている節がある。でもそれは、ショットに対する意識の低さを何とかごまかそうとしていた証拠とも言えるわけですね。
 青山 でもそうなると、ウェス・アンダーソンの存在が本当に貴重だなとあらためて思ってしまいます。
 蓮實 しかし「グランド・ブダペスト・ホテル」は、今年度のアカデミー賞主要部門には何も引っかからなかったでしょう。あ、アレクサンドル・デプラが作曲賞をもらったのか。どうでもよいことですが、この場をかりて、「デスプラ」ではなく正式の「デプラ」という名前の定着を提案したく思います。
 青山 あと美術賞、メイクアップ・ヘアスタイリング賞、衣装デザイン賞と。
 阿部 つまり、デザイン面はさすがに評価されましたね。
 蓮實 だけど、あの映画を本気でいいと思うアメリカ人が果たして何人いるだろうか。
 青山 ふだん映画を普通に見ている人でも、あのスピードと情報量にはついていけないという人が多い気がします。
 蓮實 それはあると思います。だから、あの映画だって、「これは実話だよ」って誰かに言われたら信じてしまう人がいるかもしれない。
 阿部 本当にもう、そういう時代なのかもしれないですね。
 蓮實 この映画の原作の作家って本当にいたんでしょう? なんて話にもなりかねません(笑)。世界的な規模で、現在の映画の観客たちが何を考えているのか、まったく分かり得ないところに行っちゃったという感じがしています。インターネットもあって、みんな「リアリティ」とか「ソーシャル」と言うけれど、リアルもソーシャルもへったくれもないじゃないですか。それが延々と続いている中では、ウェス・アンダーソンのように、ありもしないことを真剣に本当らしく語らざるを得ないのかなという気がします。でも、それもまた疲れるでしょうね。
 青山 戦いですよね、本当に。DVDで見たので偉そうに言えませんけど、ロン・ハワードの『ラッシュ/プライドと友情』(一三)もF1レーサー、ジェームズ・ハントとニキ・ラウダの実話ですが、これは格が違うという感じでした。先ほど言及したフィックスショットがごく短い瞬間にフィクションを的確にキメてくる。やっぱり本物のアメリカ映画作家ですよ、ハワードも。

■「カイエ」誌の凋落?

 蓮實 最近一つ気になっているのは、最近号の「カイエ・デュ・シネマ」の採点表が全く駄目だということです。何しろ、イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」が星一つとか二つだけなのですから。その中で一応は評価している批評家が批評を書いてはいるのですが、これまでイーストウッドの作品をずっと評価してきたこの雑誌が、こんどの作品については、どうも彼らの批評言語では語れないところに行っちゃったという感じが強い。さらに、今月の「カイエ・デュ・シネマ」の採点表で腹を立てたのは、アレクセイ・ゲルマンの遺作「神々のたそがれ」(一三)を完全無視していることです。作品紹介でもほんの数行ですませて、「こんなものはクソだ」なんて書いてある。
 阿部 それは許し難いですね。
 蓮實 たしかにこれはアレクセイ・ゲルマンが仕上げの直前に急逝したので、彼自身が完成させた作品ではないということがところどころに見えてしまう、という欠点はあるにせよ、大傑作「戦争のない20日間」(七六)を撮った監督の遺作をここまで無視するというのは……。
 青山 いや、あり得ないですね、それは。
 蓮實 雑誌としての存在意義はもはやない、と言うしかない。あのテレンス・マリックの国際映画祭向けのいかがわしい「ツリー・オブ・ライフ」(一一)を雑誌を挙げて大絶賛しているのを見て、最近の「カイエ」の若い批評家たちはどうもおかしいと思っていました。さすがに次作の「トゥ・ザ・ワンダー」(一二)はほとんど無視していましたが、それならそれで自己批判が必要でしょう。でも、「神々のたそがれ」の無視ではっきりしました。「見にゆく価値なし」という人さえいる始末です。複数の見解を異にする評者がいるとき、雑誌の一般的な傾向に和さない人が批評を書くという伝統があったはずなのですが、今は口をそろえて否定してしまっている。それで何かを表明したいのは分かるけど、全員でやっちゃいかんよ、と思いました。でも、これで本当に「カイエ」とは縁が切れたという感じで、すっきりしています(笑)。
 青山 前の世代まではそういうことはなかったような気がしますけどね。そういえばこの間、アンスティチュ・フランセで「カイエ・デュ・シネマ週間」をやった時に、ブリュノ・デュモン(「ユマニテ」九九等)を特集したんです。「カイエ」が自信を持って送るという趣旨であるはずのカイエ週間で、なぜブリュノ・デュモンなのか、僕には理解しがたかった。
 蓮實 「欲望の旅」(〇三)など、あんなものという程度の作品ですよね。この世代のフランスの映画作家たちに決定的に欠けているのは、アメリカ映画の知識です。
 阿部 この亀裂は今後どうなっていくのか。今の「カイエ」同人って何歳ぐらいの人たちなんですかね。
 青山 三十代と四十代が中心だと思います。フランスの批評って今やよく分からない。イーストウッドを駄目だと言ったり、スピルバーグも彼らにとってもう駄目なんでしょうね。
 阿部 スピルバーグはテレビドラマ「エクスタント」の製作総指揮をやったりしてますが、「リンカーン」(一二)の次の監督作「BRIDGE OF SPIES/ブリッジ・オブ・スパイズ」も十月くらいにアメリカで公開されるようですね。冷戦期のスパイ解放交渉を描く実話の映画化らしいです。そういえば、「インターステラー」も「アメリカン・スナイパー」も、もともとはスピルバーグが監督をやることになっていたようですね。第二次大戦しか撮らないスピルバーグとしては、イラク戦争を扱う「アメリカン・スナイパー」は避けたのでしょうか。
 青山 実は僕は昨日、「アメリカン・スナイパー」とゴダールの「さらば、愛の言葉よ」(一四)という、同い年の映画作家の最新作を立て続けに見たんです。そうしたら、どちらにも一組の男女が鏡に映るというショットがあった。ゴダールの方では男は鏡に背を向けていて、厳密にはちょっと違いますが。
 先ほどのデヴィッド・フィンチャーのシステムエラーの話じゃないけど、逆にゴダールはずっと、新しい道具を本来の使い方では使わない人だったけれど、今回は3Dであんなことをやってて本気で嫉妬しました。3Dは同じものを二台のキャメラで撮るわけですが、一台を別の方向に向けたらどうなるんだろうと実は前から思っていたんですよ。見てたらそれが突然始まっちゃって、もう本当に悔しかった(笑)。
 蓮實 あの場面は、本来ならうまいカット割りで見せるところでしょう。それをワンショットでやっちゃった。しかも、目はそれについていかない。
 青山 「何これ?」みたいなことになっていた。「アメリカン・スナイパー」の砂嵐と同様に、ものが見えづらい、というかほとんど識別不能。ゴダールとイーストウッドの二人ともがそういうところに行ってしまった。もし「カイエ」がゴダールを高く評価するならイーストウッドも同様に、というのがこれまでは筋だったはずなんですけどね。

■青山監督の「アメリカ映画」

 蓮實 昨年の後半、病気で映画を全然見られないということがあったちょうどその時期に、お二人は変わったことをなさったでしょう。阿部さんは伊坂幸太郎さんと合作をイーストウッド的な題名の『キャプテンサンダーボルト』として発表され、しかもそれにとどまらず、文芸批評にたいへんな健筆をふるっておられる。あの中上健次論(『中上健次集 七 千年の愉楽、奇蹟』インスクリプト所収)と大西巨人論(『地獄変相奏鳴曲 第四楽章』講談社文芸文庫所収)は、作家を論じる際の腰の据わり方が半端じゃないと思いました。
 阿部 そんなものまで読んでいただいたのですか。恐縮です。
 蓮實 今の若い批評家には書けないことをやっておられて、感服しました。批評家としての阿部和重を嫉妬すらしない現在の文芸批評は、やはり弱体化していると言うしかない。そこで長篇小説作家だと思っていた阿部さんが、いきなり文芸批評家として周りにいるやつを蹴散らしていることにビックリしました。
 阿部 ありがとうございます。
 蓮實 最後に、青山監督の「贖罪の奏鳴曲(ソ ナ タ)」(WOWOW土曜オリジナルドラマ、中山七里のミステリーが原作)に言及しないわけにいきません。テレビドラマなんて絶対撮らないと思っていた青山さんが、テレビドラマ以上のテレビドラマをあっさり、しかも堂々と撮ってしまわれた。脚本はベテランの西岡琢也さんで、主語だけを挙げ、動詞を省略するところなど、セリフがいかにもテレビっぽいじゃないですか。それをものともせずに撮っておられる。
 青山 はい、平気でやりました(笑)。
 蓮實 私が驚いたのは、導入部が夜で暗くて、ほとんど見えないところで、謎をいわば全部見せてしまう。ところが最後にどんでん返しがあり、それが謎じゃあなかったということが分かる。その第四話がすごい。しかも、映画以上に光と影のあやうい対照をきわだたせる画面を撮っておられる。
 青山 立教大学の僕の先輩である寺田緑郎さんがキャメラだったんです。彼と、いつも僕と一緒にやっている中村裕樹という照明技師がかなり頑張ってくれました。それにやはり長年仕事をしているデザイナーの清水剛さんをはじめとする美術スタッフも。スタッフ総動員であそこへ向かった感じです。
 蓮實 ほとんど五〇年代アメリカの犯罪映画ですよ。現在のアメリカ人であの照明、あのカットを撮れる人がどのぐらいいるか。絶対にジョセフ・バイロック(ロバート・アルドリッチ「攻撃」などで知られる撮影監督)を狙っておられたでしょう。
 青山 実は三人でバイロックや五〇年代のラングのノワールのことを考えながら撮っていました。
 蓮實 ああ、やっぱり……(笑)。でも、そんなことをテレビでやっていいんですか。
 青山 いや、映画でやる機会がないものですから(笑)。
 蓮實 あの事件の現場となる廃墟のような材木置き場はオープンセットですか。
 青山 ああいうところは、全部実際の場所を加工しました。
 蓮實 はあ、そうなんですか。まるで映画向けに作られたセットのようでしたね。しかも、夫である青山真治監督が、芝居をさせないような狭い空間に妻であるとよた真帆さんを閉じ込めてしまう。ああ、「サッド ヴァケイション」(青山真治、〇七)の最後の接見場面の再現かなと思っていたら、最後の最後に材木置き場の向こうをとよたさんが歩くロングショットがあったわけです。あそこは泣けました。
 阿部 とよたさんは素晴らしかったですね。あと、法廷を撮るというのは今回が初めてですよね。あの広さ的にも曖昧で役者の居場所が固定されてしまう空間を撮るのにはご苦労があったのでは。
 青山 法廷劇は確かに初めてですね。長回しだときっと間が持たないと、それこそアルドリッチ的にカットをざくざく割って、キビキビ見せていこうと。三上博史さんをはじめとする俳優陣に相当骨を折ってもらいました。
 阿部 僕は青山さんの映画はいつも、機械的な装置がその通常の使われ方でない形で登場する時にものすごくスパークするのを感じます。「共喰い」(一三)の田中裕子さんの「ローリング・サンダー」(ジョン・フリン、七七)を思わせる義手とか、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(〇五)のスピーカーとか、「EUREKA」(〇〇)のバスもそう。今回のドラマでは謎解きの場面で使われるフォークリフトにそれを強く感じました。青山さんにはやっぱり工場と機械が合うということを確信したので、今後もそういう企画を立てて撮ってほしいです。
 青山 最後に思いがけず自分の作品の話になって焦りました(笑)。お二人とも見ていただいてありがとうございました。
                (二月二十六日収録。構成・高崎俊夫)


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