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トランスジェンダーが引き起こす社会問題に見る「性差」の壁〜「男女平等」「男女共同参画社会」はあくまで綺麗事〜

昨今、トランスジェンダーもといLGBTと呼ばれる"セクシャルマイノリティー"(性的少数派)の人達が社会問題を起こしている。
「心は女」と称したニューハーフが女湯に入ったり、或いは女性の競技種目に参加して圧勝したりと我が物顔で男女平等を自らが好き勝手する免罪符にしているのだ。
しかし、これが社会問題になったお陰で世の自称フェミやポリコレを押し付ける人達にとっても「性差とは何か?」を考えるいいきっかけになったことだろう。
「男女平等」「男女共同参画社会」など所詮は綺麗事・机上の空論でしかないことが明らかにされたのが今回の出来事だと私は思う。

そんな風に「心は女」「男女平等」だのを盾に身勝手な振る舞いをしているセクマイに見せたいのが『忍者戦隊カクレンジャー』の26話である。
この話では歴代初の女リーダーとされていた鶴姫が実質の「リーダー失格」となり「女らしさ」を自覚させられる話となっているのだ。
忍びの巻を手に入れる為に鶴姫はサスケ達に擬態した人形を連れて行くのだが、彼女は巻物を手に入れる為に次々と倒れる仲間達を置いて行くことになる。
そして鶴姫はいざ巻物を手に入れる直前で「こんな形で巻物を手に入れてもちっとも嬉しくない!」と、「この人達を置いて巻物を手に入れても意味がない」と嘆く。

それまでリーダーとして毅然とした態度でいた鶴姫からすっかり威厳が失われ、この瞬間に鶴姫は如何に自分がリーダーとして未熟かをまざまざと突きつけられる。
結局鶴姫は忍びの巻を取らなかったわけだが、実はこれ自体が三神将と三太夫が彼女に課した試練であり、人形を回収した三太夫は彼女に向かって言い放つ。

「鶴姫、お前は女やけん。腕もか細く、到底力ではサスケたちには敵わん。けどそれでも、カクレンジャーのリーダーなの……力より、人一倍相手を思いやる優しさが求められているんよ!」

このセリフ、今見ると凄く偏った昭和時代の男女論だと思うし、それこそ今の自称フェミやセクマイ達が見たら「男女差別だ!」と言いそうだ。
しかし間違っているのかというとそうとも言い切れず、やはり鶴姫はリーダーには向いておらず、その座を後半でサスケに明け渡していた
歴代戦隊で伝統となっているものもあればそうでないものもあるが、継承されなかった要素の1つがこの「女リーダー」という要素である。
「カクレンジャー」の鶴姫、「タイムレンジャー」のユウリ、「シンケンジャー」の薫姫と女リーダーが出たことはあるが、どれも物語の中で肯定されていない。

なぜなのかといえば、スーパー戦隊シリーズはあくまでも「男社会」の理屈であり、原点である「ゴレンジャー」が示すように戦隊はあくまで「軍」なのである。
もっといえば軍になる前の武家社会からしてそうであり、日本の武家社会は例外なく男によって成り立ち、女がそこに入る隙間はほとんどなかった。
精々が「くノ一」と呼ばれる忍者だが、これもあくまで男に力ではな敵わないから知略・謀略を張り巡らせて生き延びるしかないのである。
それに歴史を見てもわかるように、女が国のトップに立って国が繁栄した試しはほとんどなく、そういう意味でも昔から男と女は平等でも対等でもないのだ。

それはダブルヒロイン中心になった今もそう変わっておらず、やはりスーパー戦隊シリーズはあくまで男社会の理屈で作られているのだと納得する。
強いていえば『鳥人戦隊ジェットマン』の小田切綾長官が女性リーダーだったが、立ち居振る舞いはほとんどが「男」のそれであった。
実際竜をはじめメンバーの誰もが畏敬の念を抱いていたし、長官自身も「女性」であることを認識することなど皆無である(そういうエピソードは香に多い)。
つまり何が言いたいかというと、女が男社会に混じって男以上の活躍をしようと思ったら男に当たり負けしないだけの「何か」がないと無理ということだ。

それこそ「セーラームーン」「おジャ魔女」「プリキュア」が女児向けとして作られているのも、その反動があったからではないかと思う。
「セーラームーン」の画期的なところは「女だけの戦闘チーム」という、東映不思議コメディが内在的に持っていた要素を世に認知させたことにあった。
それまで男社会に揉まれて内助の功として戦うか、「魔法使いサリー」みたいに単独で魔法を操りながら変装して戦うのが女性のヒーローものである。
その定義を変えて「女の子だって男の子のように暴れたい」と「ふたりはプリキュア」で男性ヒーローの持つダイナミズムを取り込んだ。

しかし、そのプリキュアシリーズでさえ初代の渚とほのかがやっていた徒手空拳オンリーのシリーズは長続きせず、「Splash☆Star」以降は飛び道具も使うようになる。
そしてとうとう「魔法使いプリキュア」でかつての魔法使い路線に戻ったわけだが、これは即ちセックス(生物学的性)から逃れられない事実を示しているのではないか。
どれだけ女の子が男の子の真似をして筋力や運動神経を発達させようとしたところで伸ばせる才能に限界はあり、ほとんどが「鵜の真似をする烏」で終わる。
プリキュアも所詮は「ドラゴンボールの真似をする女子中学生」でしかなく、やはりどこかで「女」であることからは逃れられていない。

それこそ「ドラゴンボール超」では女サイヤ人のカリフラやケールが出てきたが、それでも男サイヤ人の悟空やベジータ、悟飯には戦闘経験の差があるし、キャラ立ちにも失敗した
「ONE PIECE」ではそれこそバロックワークスとゾロが戦った時にメリケンサックを使う怪力女がいたが、細身であるはずのゾロにあっさりと頭を握り潰されて負けた。

そう、これが残酷なまでの男と女の力関係であり、どれだけ女が頑張って力を鍛えたところで鍛え上げている本物の男には敵わない社会の縮図が示されている。
ナミだってそれこそ悪知恵と性格的な器用さでルフィたちを手玉に取っているように見せかけているが、純粋な戦闘力では男性陣には敵わないのだ。

古来よりある男女の性差の壁は時代や環境が変わったところでそう簡単に変わるものじゃない、このごく当たり前の事実を再認識すべきではないか?
男女の壁というのは自称フェミやセクマイが暴れ出した程度で解決できるような問題じゃないのである。

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