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ウルトラマン・仮面ライダー・スーパー戦隊のいずれも「ヒーローがヒーローする」という点で大差はないのではないか?

宇野常寛や切通理作ら平成ライダー擁護派の意見によれば、「ウルトラマン」がビッグブラザーで「仮面ライダー」がリトルピープルなのだという。
そしてスーパー戦隊はその間の子のハイブリッドで斬新さはなく話も低俗だから幼稚な子供向けみたいなことを言っている。
もっとも、彼らが擁護している平成仮面ライダーの初期作品群(『クウガ』『アギト』『龍騎』『555』)は作り手もそういう意識だからタチが悪い。
特に白倉伸一郎氏はインタビューでも事あるごとにスーパー戦隊や昭和ライダーを貶し、自作品を持ち上げる傾向があるから尚のことだ。

これらに関してふと思ったのだが、ウルトラマン・仮面ライダー・スーパー戦隊の違いなんて精々「柔道か空手かサッカーか」という違いでしかないのではないか
スポーツで言うところの競技種目とその方向性が違うだけで、「ヒーローがヒーローする」という1点において変わったところは何もない。
要するに修辞技法でいうところの「シネクドキ」でしかないから、「ヒーロー作品」という上位概念の中における下位概念が「ウルトラ」「ライダー」「戦隊」であろう。
シネクドキが何なのかわからない人は説明がめんどくさいので、以下のサイトをご覧いただきたい。

だから私の中で宇野氏らが論じていることは所詮「サッカーよりも柔道が凄いんです!」というレベルのナンセンスでしかない。
このことがピンと来ない方々は彼ら自称「インテリ批評家」が論じていることがさも高尚であるかのように錯覚してしまうのである。
だが、私に言わせれば彼らの言い分は蘊蓄を元にしたポジショントーク(自らの優位性を立たせるために紡がれる言説)でしかない。
全てがそうだとはいわないが、少なくとも以下の言説に関しては間違いなくポジショントークでしかないであろう。

切通 僕は圧倒的に仮面ライダーそのものに魅力を感じます。ライダーのデザインって、石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)さんの漫画と実写で微妙に違うんですよ。漫画では触覚がホントの昆虫みたいにしなやかなんですけど、実写の、当時エキスプロにいた三上陸男さんが造型したライダーは触覚がラジオのアンテナを曲げたみたいで、まるで町の工場で造ったような工作的な感覚に、当時のラジカセや自転車とか僕らの身近にある機械のデザインを見た時のような、なんとも言えない味わいを感じます。大人になってからも、あの顔の写真を一目見ただけで気持ちが持っていかれてしまうんです。
宇野 僕も初代『仮面ライダー』の何が一番好きかというと、デザインとスーツの造形なんです。同じ特撮ヒーローものでも石ノ森さんのデザインワークは『ウルトラマン』の成田亨さんのものとはまったく違う。たとえば成田さんの場合、ゼットンは水牛がモチーフで、レッドキングも恐竜がモデルだろうけど、どちらもモデルになった生物の進化したものではなく、あくまで実在のものとはまったく別種の生物になっている。つまり成田さんは現実にはこの世界に存在しない、あたらしい生物を産み出す天才だった。対して、石ノ森さんはすでに存在する二つのモノを組み合わせる天才だった。クモ+人間でクモ男、カニ+コウモリでガ二コウモル、そもそも仮面ライダーのバッタの仮面にライダースーツというデザインを考えついたというだけでもう確実に天才だと思うんです。要するにウルトラマンが世界の外側から来訪した超越者で、仮面ライダーは僕たちのこの世界の内側から産まれ落ちた存在だという物語上の設定がデザインコンセプトにも通底しているわけですね。

切通理作×宇野常寛 3万字対談 いま昭和仮面ライダーを問いなおす ――映画『平成ライダーVS昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』公開(勝手に)記念 (PLANETSアーカイブス)

分かる人には分かると思うが(分からない人には永遠に分からない)、このトークは典型的な特撮オタクがやりがちな「どうでも良いこと」である。
彼らは成田亨氏のウルトラ怪獣のデザインと石ノ森先生の手がけるショッカーの怪人のデザインを比較しているが、ぶっちゃけどうでも良い。
何故ならば私にとっては「そのデザインが画面上でどう動いているか?」が大事であって、「どんなデザインをしているか?」なんてどうでも良いからである。
ウルトラ怪獣もショッカーの怪人も、そしてスーパー戦隊の怪人も大事なのは「動いた時にどんなパフォーマンスを見せるか?」ではなかろうか?

それこそ私は同じ「仮面ライダー」という中の初代と庵野監督の「シン」の比較動画を見比べてみたが、やはり藤岡弘が荒削りながら動いた初代に比べて「シン」のアクションはどうしても軽く見えてしまう。
軽いというか「これで初代の凄さをオマージュしたつもりか?」と言いたくなってしまう、少なくとも藤岡弘程の動きの質を池松壮亮は出すことができていないように思われる。
これは何も懐古主義でそういっているのではなく、カメラワークなども含めて藤岡弘が提示したアクションの質を今尚どのスーツアクターも越えられていないのだ。
初代ライダーのTV版のアクションシーンが伝説になり得たのは決して最初の作品だからではなく、藤岡弘演じる「仮面ライダー」のアクションのあり方を1話で完璧に定義したからである。

少なくとも「ウルトラマン」の古谷敏や「ウルトラセブン」の上西弘次とはまた違った動きであり、この動きは確かに当時の藤岡弘にしか再現し得ないものであった。
その後、大事故の関係で仮面ライダー1号のスーツアクターは中屋敷哲也に変わったが、何れにしても初代には初代にしかない画面の動きというものがある。
ところが、宇野氏らはライダーやウルトラの「アクション」を褒めるのではなく「デザイン」「文芸」を褒めているため、最終的に思想信条の方向性に話が終始してしまう。
それが行き過ぎると昨日の記事て書いたような「平成ライダー初期の作品は特撮ファンではなく一般的なテレビ好き・サブカルチャー好きが見ていた」という大袈裟な論調に繋がる。

私自身も見失っていたが、どこまで行こうと戦隊もライダーもウルトラも「日本が生み出したヒーロー」であることに変わりはなく、後はその表現方法やルールが異なるだけだ。
それぞれに違う軸でやっていることを安易にどちらが凄いなどと優劣はつけることができないし、ましてやその奥に思想信条など読み込むなんて失礼であったと我が身を恥じる。
特撮ヒーローも所詮は「映画」から派生した下位概念の一分野であり、本質はどこまで行こうと「動く絵」「画面の運動」であることに変わりはない。
そう思い至る時、昨今のタイパ・コスパ重視の視聴やSNS・サブスク・YouTubeという幻想化されたプラットフォームに無自覚に依存する危険性もまた自覚する次第である。

「ウルトラマンと仮面ライダーと戦隊シリーズは何がどう違うんですか?」と聞かれて「競技種目が違うだけで、同じ「ヒーロー」です」と答えられる感性が大事なのだ。
私もこれからはその観点で改めて「スーパー戦隊」というものを見直していこう。

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