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「自由」と「自分勝手」を履き違えてはならない!好きなら好きでそのジャンルに真剣に取り組め!間違えてもエピゴーネンになるな!

まさか私に向かって真っ向から「ヒュウガさんの考えを楽に掠め取ろうと考えています」なんて堂々と宣って来る輩に出くわすとは思わなかった。
まあ別に良いんだけどね、そんなの今に始まった事ではないし、私が注意しないだけでネットで見て回っても明らかに私が書いたスーパー戦隊の評論をほぼそのままなぞってRenoteに垂れ流している人だっている

これね、明らかに私がブログ・HPに挙げた感想・批評のほぼ完全なパクリ・丸写しである。

日付から見ても私がブログに挙げたのが2021年11月19日、大して向こうは2022年4月23日だから、私が書いたものをほぼそのまま盗用していたと見て間違いはない。
ここまで堂々とパクられるともう怒るのもバカバカしいのだが、いくら個人的趣味とはいえ私が原体験も含めて20年以上もの月日をかけて錬成させた文章をこんな形で模倣されてしまうとはね。
訴えることも可能といえば可能なのだが、誰が書いたのかも不明だし、それが「仕事」ならともかく「趣味」としてやっていることなので訴えるのも筋違いかと思えてならない。
よくいえば、私が書いた文章がこうやって誰かにそのままパクられてしまうくらいには影響力があったということだから、喜ばしいといえば喜ばしいことではあるのだろうけど。

文体の並びからして大体誰が書いたのかは予想がある程度つくのだが、ほぼ間違いなく私と交流があった人ないしタチの悪い隠れ読者であろうな、少なくとも真っ当なフォロワーはこんなことをしない。
親友の黒羽翔さんをはじめ私の記事に真っ向からコメントをしてくださる方々はまずこのような恥知らずなことはしないだろうから、そこに関しては別に問題はないだろう。
しかし、まさか堂々と私に対して「〇〇という作品のレビューを書いてくれませんか?」と初対面で不躾なお願いをはじめとした数々の粗相を働く人が出るとは思わなかった。
私に直接害が向けられるなら話は別だ、ということで今回もまた注意喚起というわけではないのだが、改めて自分自身のスタンスの再確認も含めて書き記しておこうという次第である。

こういう芸術作品に触れる人であれば少なからず「オマージュ」「本歌取り」「パロディ」「模倣」「パクリ」といった単語は耳にしたことがあるだろう。
しかし、現代人のほとんどはその言葉の定義をきちんと押さえた上で正しく用いているのかといったら、そうではないのではないかと思えてならない。
まず「オマージュ」という言葉は「hommage」と表記されるフランス語だが、英語でいうとrespectやhonorに相当する「敬意・賛辞」を表す言葉だ。
先達となる作品に対する敬意を払いながらも、決して盗作とならないように独自の表現方法で似たところに辿り着くのが「オマージュ」と呼ばれるものである。

日本語でいうと「本歌取り」がそれに当たり、良いと思った先達の短歌の句や節を借りても構わないというもので、元ネタがわからなくても十分に成立するものだ。
これに対して「パロディ」は「オマージュ」とは逆で既存の作品やジャンルに対する揶揄・批判・風刺の意味合いが強く現れた相手を小馬鹿にする表現である。
いわゆる「モノマネ芸人」もこれに相当するもので、モノマネの対象となる人の表現や特徴を誇張し小馬鹿にして笑いを取るというものだ。
ただし、「パロディ」の難しいところはその元ネタに対して見る側の知識がないと深く楽しんで面白がることができないところである。

それぞれに定義は違えど、大事なポイントは「既存の作品・ジャンルに対する詳細な分析と敬意」があった上で「如何にそれを独自の表現に昇華するのか?」ということである。
芸術は須らく模倣から始まるわけなので別に先達の作品から借りてくることは恥ずべきことではないが、そこに独自の作家性をいかにうまく織り交ぜて楽しませられるかが大事なのだ。
しかし、いわゆる「パクリ」「盗作」にはそういう「敬意」と「独自の作家性」が全くないので、まるで土足で踏みにじられたような気分になってしまう。
そして、そういう「パクリ」「盗作」を何の臆面も恥もなく行ってしまう人たちのことをドイツ語でEpigonen(エピゴーネン)と呼ぶのである。

Epigonen(エピゴーネン)とは「思想・文学・芸術などの、追随者。独創性のない模倣者。亜流」という意味なのだが、まさにRenoteのギンガマン批評や私に堂々と粗相を働いた方はこれに該当するであろう。
しかも後者の方は「自由に見て好きに批評しろといったのはあなただ。そんなあなたが私のやることなすことに怒る・批判するのは筋違いではないか?」ととんでもないことまで私に言ってきたのである。
どうやらその人は「自由」と「自分勝手」というものを、そして私が書いたあの記事の意味を完全に履き違えてしまっているようだ。

確かにこれらの記事で私は「批評なんて自己満足の世界である」「自分が好きなように見て好きに批評すればいい」と私は書いたが、そこには当然ただし書きというものがある。
それは「ただし見るからには本気で見て真剣に取り組め」「罷り間違ってもエピゴーネンになってはならない」という戒めの但し書きが入り、実はこちらが最も大事なのだ。
「自由」とはあくまでも「自(みずか)らに由(よ)る=他人に依存しないで自分らしく生きること」が本質的な意味だが、それは「他者に迷惑をかけない自己責任」が前提にある。
よく「自由には責任が伴う」というが、自分の意思で行ったことに対してしっかり自分で責任を取ることが肝要であり、一定の社会的規範や責任・礼儀を遵守して初めて「自由」は成立するのだ。

そして芸術の世界では「オマージュ」「本歌取り」「パロディ」はOKでも「パクリ」「盗用」はダメだとされている、ならばそれは芸術作品の批評にだって同じことが言えるのではなかろうか。
その作者なり批評家なりといった先人が時間をかけて積み上げて研磨していった表現・思想・形態といったもののエッセンスを時間もかけず楽して掠め取るなんて山賊・海賊と同義である。
そのような義理と筋を欠くようなことを私は今までしたことがないししようとも思わない、それは明らかに先達に対する礼儀や敬意を欠いているとしか言いようがない。
確かに一時期は私も蓮實重彦や淀川長治の映画評論を見て尊敬し近づこうと思ったことはあるし考え方や技術を模倣したことはあったが、それはあくまで自分の意見や視野をより広げていくためである。

それを「愚か者の末路」と私のことを腐して愚弄する者もいたが、私は先人の考えにしろ後進の世代にしろ「意見を参考にする」ことはあっても「掠め取って自分のものにしよう」と思ったことは一度もない
どれだけ自分と考えが近い・似ている人がいたとしても「全く同じ」なんてことはあり得ないわけだし、だからこそ見る人の数だけ意見や評論が存在していて面白いと思うのである。
だから私は最後にその人に向かって言った、「そういう盗人猛々しいことをして本当に楽しいのか?」と……そう、最終的にそんな真似をして損をしてしまうのはその人自身なのだから。
何ならその人は自分が私に成り代わろうとしているのだから、幾ら何でもそれを許容することはできないし、そういう筋の通らない不義理・自分勝手に対して無頓着でいるのは決して「優しさ」「寛容」ではない

だから改めていうわけだが、映画なりアニメなり漫画なり、自分が好きな作品やジャンルは各々が好きに見て自由に批評するなり、そこから自分独自の創作につなげるなりすればいいだろう。
ただし、それが先人に対する敬意と礼儀を欠くものであってはならないし、ましてや時間と熱量をかけて世に生み出しているものを楽に掠め取ってやろうなどというエピゴーネンにだけはなるな
好きなら好きでそのジャンルに対して真剣に正攻法で取り組むこと、それが私のスタンスであり、曲がったことや不正を働こうとする輩を許すことは今までも、そしてこれからもない。
だから、今後もそういう不逞な輩が降りかかってこようものなら全力で跳ね除けるし、このスタンスを曲げるつもりは毛頭ないことを強調して、今回の挨拶に変えさせていただこう。


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