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推薦・指定校推薦・AO入試で合格した人たちを「受験生」と呼んでいいのか?

受験に関するエピソードを色々と語っていたら、そういえばと思い気になるニュースが1つあった。
鈴木福がAO入試で慶應SFCに合格したというニュースである、詳細は以下をご覧いただきたい。

この手の議論になると毎回思うのは「慶應って"忖度"大学か」ということであり、ぶっちゃけ今に始まった事ではないのだ。
私は慶應義塾大学をどんな大学として見ているかといえば「世渡り上手の知名人を生み出すゴマスリ大学」とでも言っておこうか。
これは個人的な体験談に基づく主観的な判断と外から見た客観的な世間のイメージの双方から見ていて思うことなのである。
しかし、今回論点にして語りたいのは決して慶應義塾大学やその派生学部であるSFCに関する誹謗中傷では決してない。

あくまでも大学受験の中に設けられている「推薦」「指定校推薦」「AO入試」という枠並びにそういう枠で合格した人たちのことについて今回は話す。

推薦・指定校推薦・AO入試で合格した人たちを「受験生」と呼んでいいのか?

大学受験の話題になると必ず出てくるのが「推薦・指定校推薦・AO入試で合格した人たちを「受験生」と呼んでいいのか?」ということだ。
おそらく多くの人が疑問視・批判をしているのはそこであり、私もかつては同じように感じていたため、その気持ちもわかる。
しかし、一方的な批判ばかりを鵜呑みにしていて尻馬に乗る形で批判していたのでは単なる「長い物には巻かれろ」でしかない。
今回はその辺り、私なりの見解を出したいので、改めて意見を述べさせてもらう。

どんな形であれ「大学生」という事実は変わらない

私の意見としては、別に推薦枠だろうが何だろうが入学してしまえば「大学生」であるという事実は何も変わらないので別に構わないと思っている。
SFCだろうが看板学部の医学部・経済学部であろうが同じ「慶應義塾大学」の学生であることに変わりはない、所詮はどんぐりの背比べ・五十歩百歩だ。
元々私自身が個人的経験も含めて慶應に対してあまりいい印象を抱いていないからかも知れないが、別に東大だろうが京大だろうが所詮は「社会を知らない若造」でしかない。
むしろ普通の人が社会に出て早めに働いているのを4年もの間先延ばしにしてもらっている分、大学生の方がよっぽど世間知らずの甘ちゃんだといえるのではないだろうか。

「十で神童、十五で才子、二十歳を過ぎればただの人」という諺があって、学生時代に「優等生」「神童」と持て囃されていた人も大人になって社会に出たら意外と普通の人なのである。
もちろん神童の中にも東大出身の堀江貴文やカリフォルニア大出身の孫正義氏みたいに大人になってもずっと神童のままでい続けるガチの天才もいるが、それはほんの一握りだ。
ほとんどの人が大学へ行って教養を磨いたとて所詮は世間にその名が知られることなく終わってしまい、学生レベルの輝きを大人になっても発展させられない
だから、どんな試験形式で入ったところで別に構わない、そこに大きな差があるというわけでもないだろうが、こんな些細なことにこだわるのが日本人の悪癖だろうか。

大学受験はあくまで戦略だから特別枠を使っても別にいい

私自身の経験も踏まえて意見を述べるなら、大学受験はあくまで戦略だから「合格」の二文字を勝ち取ってしまえば推薦だろうが指定校推薦だろうが構わないと思っている。
むしろその枠を上手に活用できるかが大きな鍵であり、合格するためだったらたとえ「卑怯」と言われようが戦略を上手く賢く使うのも1つの手段だ。
真っ当に学力で勝負できないがその大学には行きたいという人だって18〜19の年齢なら普通にいるだろうし、実際私の親友も浪人したにも関わらず推薦で私と同じ学部学科に入っていたから。
どの試験形式で入ったかによってその人自身の価値が決まるわけじゃないし、話してみたら指定校推薦枠で入った人たちだって意外と普通に話せるものである。

日本人は集団主義かつ苦労話が好きな人種だから、とにかく必死に受験勉強をこなして入ったのだという話を美徳としがちなのであろう。
しかし、そう思っているのは所詮日本か日本以上に受験戦争が過酷なかつての中国や今の韓国くらいのもので、欧米の大学ではむしろ逆である。
欧米の大学は日本とは逆で「入学は簡単だが卒業は難しい」というものであり、入学後の成績や勉強がむしろ大事だ。
一方日本では「大学生活=バラ色のキャンパスライフ」という表面上の輝かしいポジティブなイメージばかり持て囃されているから、受験に夢やドラマを見出しがちなのであろう。

なぜ推薦・指定校推薦・AO入試という枠が批判されるのか?

上記を踏まえ、今度は別の角度から「なぜ推薦・指定校推薦・AO入試という枠が批判されるのか?」というテーマについて語ってみたい。
日本人が単純に苦労話が好きという民族性だけでこのような批判が出るわけではなく、そこには何かしらの理由があるのではないだろうか。
これまで語ってきた浪人時代の経験なども踏まえつつ、その真相なるものを解き明かしてみたい。
おそらく一般試験という形できちんと学力を向上させて合格した人たちは実感しているはずのことである。

学力が一番伸びるのは実はセンター(共通テスト)本番〜二次試験の時期

私自身の体験として実感があることだが、大学受験で学力が一番伸びるのは現役生・浪人生を問わず実はセンター本番〜二次試験の時期である。
もちろん東大京大早慶に余裕綽々と合格する「天才」と言われるような人々はそんなことはないが、いわゆる偏差値55〜65から伸びない受験の中間層にいる人たちはそうであろう。
これは「ドラゴン桜」でも語られていたことだが、大学に一般入試で合格する受験生の大半は右肩上がりではなく、ある時点からいきなりグーンと学力が向上した手応えがあるはずだ。
私自身もこれを感じたのがセンター試験本番とやや遅めではあったが、人それぞれそれまでやってきた努力が結実して学力が急に伸びた瞬間は必ずある。

本当に実力のある人はY=Xのような右肩上がりではなくY=ax乗という指数関数のような急激な伸び方をしたことがあるはずだし、私もそうだった。
そしてそのタイミングは殆どの場合においてセンター(共通テスト)本番〜二次試験の時期であり、この時期が一番伸びることがすでに証明されている。
私が通っていたK予備では「直前期の1日の勉強時間の密度は最初の4〜5月の1ヶ月分」という言葉があるくらい、直前期〜本番で驚くほど受験生の学力は伸びるのだ。
そこを経験しているかどうかで推薦・指定校推薦・AO入試といった特別枠に対する見方が変化してくるのではないだろうか。

特別枠が一番勿体無いのは一番学力がつく最後の3ヶ月に勉強しないこと

推薦・指定校推薦・AO入試=特別枠が一番もったいないのはそういう一番学力がつく直前期〜一般試験本番の時期に勉強しないことである。
そこまで本気で勉強に取り組んでいる人ももちろんいるのだが、特別枠で合格した人のほとんどが直前期を前に勉強を辞めてしまう。
これが実は入学後に大きな差となることがあり、特別枠で入った子は入学後に授業のレベルの高さについていけなくて落ちこぼれになってしまうのだ。
特に指定校推薦枠で途中退学してしまうと、大学との信頼関係を損ねたとして次の年から退学者を出してしまった高校の指定校推薦枠がなくなることがよくある。

せっかくキャンパスライフを楽しむために入ったはずなのに、直前期まで粘って勉強しなかったばかりについていけなくなるのは本末転倒だ。
それに、そういった特別枠で頑張らなくても合格してしまった子は「本気で頑張る・努力する習慣」というものが身についていない。
予備校講師の林修先生も言っていることだが、努力して合格した人や努力しても合格できなかった人は別に問題ない、その辺になるともはや「運」と「準備量」の差だから。
しかし、頑張らなかったのに特別枠で合格してしまった人たちは「俺は所詮頑張れない人間なんだ」というコンプレックスを抱えて生きていくしかない。

そういう意味で、直前期〜本番までに死ぬ気で合格を勝ち取りに行ったかどうかという姿勢がその後の人生を大きく左右するのである。
直前期〜本番まで頑張った人は結果がどうあれその後の人生でも踏ん張りが効くが、そうでない人はそのツケが大人になって回ってくるだろう。

まとめ

今回は芸能人・鈴木福のSFC合格から推薦・指定校推薦・AO入試という特別枠やその特別枠で合格した人たちに対する個人的見解を語らせてもらった。
別にどんな枠であろうが入学してしまえば同じ「大学生」であり、きちんと卒業さえしてしまえば問題はない。
しかし、直前期〜本番までついた学力や努力量の差はその後の人生において思ったより大きな差があるといえるだろう。
鈴木福がこのSFC合格をきちんと有意義なものにできるかどうかは入学後の本人の行動次第である。

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