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天皇の広島・長崎自爆論を事実だと仮定した場合、戦後の核問題。

伊藤貫/水島総 雑談


天皇の広島・長崎自爆論を事実だと仮定した場合、戦後の核問題。
そして今後独立する日本・いま独立しつつある?日本の問題。

日本は、中国のとって来た立場や国際戦略をば本来、日本がするべきだった論を述べている場合ではない。
第二次大戦の周辺国への不十分だった謝罪を今行い、
その後自国民に徹頭徹尾 利益(愛)を還元することに終始すべき。

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参考資料)TOYO note さんの広島長崎のページ




上記記事から。
これが史実・終戦時、本当にあった・真実であったという前提に立って。

敗戦の決意に辺り、
何故天皇が自国を原爆で自爆したか についてと、その影響の分析。

敗戦受諾(We have no choice but to‥)に際し、日本が「敗戦はしたが、どの国よりも先に原爆に成功した」ことを、天皇がせめて誇示したかったという仮定に立つと、日本人としては容易に受け容れがたい面もありつつ・同時にいろいろな糸がほどける。

冷戦というものの再考と、「これまで日本人に起こりがちだった、米軍の《支配》下ではなくむしろ米軍《保護》下という “植民地精神” の意味再考・この精神への欺瞞的影響力」
米・ソの慌てぶりと、日本に対する恐怖――ポテンシャルの高い民族と同時に、手放しでは自爆的→暴発的で何をしでかすか解らないという意味含。今日WHO問題等でも変わらない性質であるところのものである――。
こうして、日本という国への米ソの視線と視座:ここより出発していた「冷戦」の意味性が改めて確立される。
これは同時に日本人の精神自体にとって、国内の米軍駐留を (支配ではなく)保護だと錯覚したい幻想、其処に於けるポテンシャルの多義性・黙示を意味する。「何の」保護なのか?長い米軍駐留を、支配され続けていると受け留めるより、守られているとする倒錯は、裡面に於て、本来的敵国による自国の秘匿守秘義務厳守の借/貸を帯びている――このことへの無意識的・集合意識的・潜在的自覚、と言い換えてもよい――結果、植民地化により、日本は搾取され損をし続けているのに得をしたと思い続けたがる。

ところで戦勝国側の意識への影響に関してはどうだろう。米の戦後一貫した支配の冷徹さ――日本の四囲がどんなに核を有しても ”日本にだけは絶対に核を持たせない” 、との方針の意味性は、先述(核開発で出遅れた失態と焦燥・日本の暴発性向への恐怖)とともに大国・戦勝国としての面子回復の意味性を担保する。
米国(DS or イルミ●ティ)にすれば、日本には絶対自主防衛能力を持たせない、という意味とともに、核開発をさせない、と言う双つの意味を帯び、国際的核戦術上の安全性と大国威信の両義性を獲得する。同時に核開発については先を越されたことへの畏れとトラウマは残存する。(→japという言葉・唾棄)

では日本国は、国内(自国民)にとってはともかく、国際関係上は同大戦における完全なる被害国なのであって無罪放免なのか?
日本国内にもこの闇勢力は幕末~明治には既に内在していたのだが、日本自身(の態度)が覇権国化することにより、このような勢力を呼び込んだ結果ともいえる。

伊藤貫氏がダレス・ドクトリンをこのような意味として理解してこう言っているのか、まして天皇による原爆での自国爆破(説?)をも、じかに踏まえているのかは解らないが、私としては、色々絡んでいた糸がほどけ、非常に得心がいく。

無論、38:00ー以降の言説に賛成するわけでは毛頭無い。男性のこうした論理は、結局の所、遠征ロマン主義的であり、国盗り合戦的である。日本国、という国の特性と経緯・事情・地政学的条件を考えても、もはや日本は非核の道も核武装も、いずれの道も非現実的(永世中立国的立場の絶対的喪失)である。

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【追記】

ただ、もう一つ言えることは、之が或意味、最も大事なのだろうが、昨今の興味深い事象として、
第二次大戦の場合、開戦の3年前から、「アメリカが日本に核を投爆することにより、日本を敗北・壊滅させ、属国化させる」という筋立てが既に決められて居たという、もう一つの説が、Twitter Xにて散見されはじめていることである。

最終的にエノラゲイやらリトルボーイなどといった大型戦闘機に、開発した原爆が入らない、など物理的な問題が生じたにせよ、また最後の一撃はアメリカや他の戦勝国がふるうのか・日本自身にふるわせるのかなど、執られる手段に幅が在るにせよ、
要するに 亜細亜圏における覇権主義国化(大東亜共栄という全体主義傾向の策動)に鉄槌を下された日本が、核の爆破によって、米を筆頭とする大国同盟国により懲らしめられ、敗戦し、戦争が終結を迎え、属国化する、というシナリオは事前に作られていた。という側面のもつ、異常なリアリティである。
敵側から之を言い換えると、
開戦前から、もしくはポツダム宣言前から、という幅はあるものの、降伏の手段として、是が非でも日本への原爆投下を避けなければならないという倫理的判断などまったく介在した痕跡はないのである。

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編集後記のかわりに‥♪

【参考文献】
1)

翻訳
1938年、有名な教育者陶興志は米国を離れる際、次のように演説した。「私は抗日戦争に参加するために中国に戻りました。もしいつか日本の爆弾で殺されたとしても、どうか忘れないでください」私の体の54.4% 彼はアメリカの爆撃で殺されました... 当時、中国侵略戦争のための日本の戦争物資の54.4%はアメリカから来ました!

https://x.com/hnbhger17/status/1801533976898900249?s=46&t=ShZComMABEU9YJ5t4D8KIA

(※ここでは、大東亜共栄など明治維新後、覇権主義国化する日本の挙動をにらんでいた大国が、まずは軍拡暴走する日本の路線を経済物資面で焚きつけ支持し、勝利を収めさせたのちに今度は被害国に陥るよう徹底的に痛めつける、という筋書きがあったことを示している)

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2)
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/ 
立命館大学リポジトリ のサイト から、index 立命館アジア太平洋大学
なぜ米国は2発の原爆を日本に投下したのか」を探して見てください
[※2つのタイプの原爆投下し終えるまでは日本に降伏を許さなかったのが事の真相ではないか、という件もあるそうです]

というわけで、私の最近の関心事は、一定の抑圧と不自由の傘暈のもとに置かれた際の、日本人の「自発性」発動の特質である。
つまり、議会などでも「自発的な辞任を促します」といった発言や答弁にも代表されるごとく、
日本人にとって、”状況づけられた” 自我に於ける自発性とは何か(尊厳の損ね方)、この変容の特異性に、関心が遷移して来ている。
これは芸術や表現行為について考える問題意識にも繋がるからである。

明治維新よりもずっと昔からあった、イルミナティの闇の策動に、乗せられつつ乗っていく、長い歴史における 日本と日本人の「自発性」に特有の機序。こんにちのWHO問題然りであって、これに異常な興味をそそられている。




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