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”おかしい人”だから”好き”で食べていける。期待に応えない。規格外の大切さ。

”いい人”になりたい人はいっぱいいる。


「40歳からは「信頼」である。」と、あるときに聴いたことがある。だいたいの人は、大人になるにつれて、「迷惑をかけないこと」だったり、「まともな人」として扱われることを望んでるんじゃないかな。と、、

だから、必然的にこどもにもそういった道を教え、導こうとしていると思う。私もずっと「こどもには”まとも”で信頼される人になってもらいたい」という気持ちで子どもたちに接してたと思う。

じゃあ、その本質を、人はみんなわかってるんだろうか?と最近思うことが増えてきた。「いいひと」ってなに?「まともな人」ってなに?「迷惑をかけない」って素晴らしいのか?

みんながそれぞれ、人に迷惑かけないように生きたら、その世界は「平和」なのか?どこかで目的を間違ったように感じる人は、今の時代増えてきてる気がする。


迷惑をかけないようにするのか?迷惑をかけるからかけられることも許すのか。


今日、チャンスをいただいて、ある  ”おかしい人”と朝から小一時間、話をさせてもらった。。。そのおかしな弾丸トークをひたすら聞かされていたともいう(笑) 彼はよく約束を忘れるそうで、約束したのちにzoomで話せたのはなかなかのタイミングらしいとのこと(笑)

のっけから出た言葉は、「約束忘れてたからって1回2回の失敗で切れるような縁は結局切れる」という、大胆発言。かといって、今日の、別に彼にとってそれほど大事でもないzoomをちゃんと覚えていて顔出してくれたので、「失敗すること、忘れてしまうことに重点を置いていない。」という意味だと捉えた。

失敗したらごめんなさい、で済ますわけではなくて、それを必死でリカバリーしようとする、そして、自分が失敗するひと・迷惑をかけてしまう人だと認知していることで、相手の失敗も許せる、って話してくれた。

よく日本とインドの「迷惑をかける」という価値観の違いなどが話題に出るけど、「迷惑をかけない」ということは、=みんなが「間違ってはならない」という緊張状態でいなければならなかったり、互いに助け合うよりも、一人で完璧を目指す。というような風潮に流れるんじゃないかなとも思ってて。

もしかしたら、迷惑かけてもいいじゃん、かけられてもいいじゃん、間違ったら、失敗したら、それをリカバリーしようよ、とか、助け合おうよ、ってみんなが思ってたら、よほど「平和」なんだじゃないかって思う。

だって、、怖がらなくっていいじゃない?
人も、社会も、自分の失敗も。そしてら、、きっともっといろんな挑戦できるよね。自分も許せるよね。


沢山の人に認めてもらうのか、少なくても”強く欲してくれる人”を持つのか


大企業のような組織がでっかい市場向けに高額をかけたマーケティングをするとしたなら、または、個人が知らない個人から見つけてもらうことが困難な時代なら、より多くの人に「よい」と思ってもらうことは必要なことなのかもしれない。

だけど、今、どこにいたって、誰しもが自分をアピールできる「海」があって、自分が持っている「なにか」をほしいと思う人は、どこかにいる。逆に言えば、これだけたくさんの発信がある中で、だれしもがそうだよね、と思うようなことは、よほどの努力や才能や時代とのマッチがなければ注目されない。


楽して稼ぐ、とは、無理をしない。ということ


先日、ある対談で、「楽して稼ぐ」っていうのは、結局、自分の才能が爆発しているとき。という話が出た。「え?こんなことでお金もらっていいの?」ってことを求めてもらえる時。ということなんじゃなかろうか、というお話だった。

今日お話ししてた方は、「週4時間だけ働く」という本の話をしてくれたのだけど、それに自身の例をあてはめて、「本が大好きで、いっぱい読んでて、それをもとに好きな読書会を開いて、それにお金払って出てくれる人がいて、なんなら著者が来てくれるときは自分がいなくても成り立つときもいっぱいあって、、僕は人と人をつないで、その人たちが喜んで、それがうれしい。それを定期的にやるだけで生きていけるよ。」という話をしてくれた。(超要約。実際彼が早口すぎるのと私の記憶力が弱すぎてとらえきれてるかなぞ(笑))


自分の心と一致した表現をすることに意味がある


私もnoteを書き始めてまだ少しだけど、それでもわかったことがある。noteの反応は、私が私らしく文章を書いたときに一番上がる。当たり障りないことや、誰がどう思うだろう?と思いながら「いい子ちゃん」して反感買わないように書いたものは、素通りされてる感が否めないんだな。。

今日話した彼も、話してた。「ストレートに吐いた方が、フォロワー数が上がるんだよ」って。フォロワー数があがるってことは、その人の発信していることに、どういう方向であれ、興味がわいている、気になる、ということだよね。これだけ情報過多の世界で、興味をもって一瞬止まってくれるって、やっぱりなんかないと難しい。

人の感覚って、意外と鈍ってなくて、誰かの本音っていうのを文章中にでも見つけるものなんじゃないかと思う、そして、普段ほとんどの人がいいこちゃんしてるからこそ、その「本音」こそ自分の中にもあって、見過ごせないんじゃないかって思う。


「私のことを気に留める人」がどれだけいても、生きていけるわけではない。

でも「実際のところフォロワー数なんてどれほどあっても意味ない」と彼は言ってた。なぜならって、フォロワーが彼にお金落としてくれるかっていうとそうじゃないから。大事なのは、アクションしてくれる人であって、傍観してる人ではない。でもって、アクションしてくれる人なら、すごい少数だって、食べていけるんだよなってこと。

まず気になるというところで足を止めてもらうにも、「本音」が必要だけど、そのあとさらに、自分に必要な「経験」や「関係」を得たくて寄っていく、支払いたくなる時代なんじゃないかな、と思う。

みんなもう、対価を支払って、単純にものをもらう時代は終わりに近づいていて、自分の「本音」や「人生」を動かしてくれるところに価値を見出している気がする。


期待値に叶うというのは、相手の域を出ないということ


今日思ったことがもうひとつあって、今日本当は彼に、「家族デザイン」のセッションのモニターをしてもらう予定だったんだけど、、彼は全く意に介さず(笑) 自分のことを話しまくったわけで。※ちょっと気にしてくれてたよ?最後の方(笑) 

家族にそれほど興味のない彼との話は、私の期待とは外れてて、予定していた家族デザインの話の時間は取れなかった。だけど、彼がもし私の期待値に合わせてくれたとしたら、、それは結局私の想定の域を出ないまま。というところで、私の本音の感情が揺れたり、なにか違う世界に触れたりする経験はそこにはなかったように思う。

それがないってことは、足は止めてくれても、それ以上のアクションにはつながらない、ということかもしれない。今日こうして、結局私は、彼の話をブログにつづることになったのだけど、このアクションっていうのは、彼が私の期待値に収まってくれてたら絶対になかった収穫だったりする。

子どもたちの才能を殺すのは「普通」に合わせようという教育。

だとするなら、こんなに多様で、ひとりとして同じ人間がいない、実はみんな個々にそんな普通じゃない=普通を演じることにつかれてない?かっていう世界、”おかしな人”でいた方が、自分の無理ない才能で食べていける=楽して稼げるってことなんじゃないかな、って思うんだな。

そしてね、みんながそうやって気楽に、リラックスして、楽しく生きていけるには、受け取り側も、「こうだったのに!」とか、「こうしてくれない!」とかっていう枠を外して気楽に楽しめることがまた重要だなとも。

私は、やっぱり気楽でいたい、わらっていたい、人とのかかわりを楽しんでいたい。そこに緊張感なんてもったいないと思う。そういう感覚の人が今いっぱい周りにいる。動けば動くほどそんな人たちに出会う。

今日彼は、「俺、時間どろーぼーだからね、俺と話しても、俺にアドバイスしても、自分の自信とかにならないしね」なんて笑ってたけど(笑) 実際、彼は人と人をつないでくれたり、こうやってインスピレーションくれたりするわけで、彼が彼でいること、誰かとこうやって話すのが楽しいって思ってることが、何かを生んでるってことなんじゃないかなって思う。

そんな時代に、、みんなが同じことができるようになる教育。って必要ですか? 

は~、結局、これが言いたかっただけ(笑)(*´▽`*)

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さて、今日話しに出てきた彼は、無印本命の出版をリードする臼井正己さん。あ~、規格外でいいんだって思わせてくれた時間でした♪

最後にそっと紹介する(笑)




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