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元当事者としての葛藤

元ヤングケアラーとして、メディアや人前でお話しさせていただくことがある。

私はその度、「自分が元ヤングケアラーだったなんて言っていいのだろうか?」と考える。

精神的に不安定だった母。
私と弟の前で包丁を手首に当てたり、睡眠薬を大量に摂取して意識不明になったり、弟と大喧嘩して、弟の髪を掴み壁際に追いやり、暴言を吐きながら殴り合ったり…もちろん、私が相手になることもあった。

母がパニック発作を起こしたり、多重人格発現の状態で酒に酔って暴れたりした時には、私が救急車や警察を呼ぶこともしばしばあった。

「近所に迷惑がかかるし、知られたくないのでサイレンは消してきてください」と伝えて。確か、私が小学高学年から中学生の頃だったと思う。

結局、大人に助けを求めても何にもならなかった経験から、私は大人への信用を失っていくのだが、それはまた別の機会に書こうと思う。

さて、多分、何事もなく穏やかな子ども時代を過ごした人からしたら、この数行だけでもあり得ないと感じるだろう。実際に知人にポロッと過去の話をしてしまった時に、そんなのテレビの中だけのことだと思ってた!と驚かれて、話したことを大変後悔したことがある。

母親の自傷行為を止める、愚痴を聞く、カウンセラーに家での様子を伝える。
近所へのフォローをする…

客観的に見ればこれだけでも立派な「精神的なケアラー」だと思うが、如何せん、私の記憶が曖昧なもので、本当にそんなに自分は悲惨な状態にいたのだろうか?と自分自身を疑うときさえある。

先日、とある研究者の方とお話しした際、この心のモヤモヤを打ち明けてみたところ、

「人間の機能として、自分に危険が及ぶ音や状況を受け取らないように、脳や耳の機能を遮断することが脳科学の側面からわかっている。だから、あなたが記憶が曖昧であったり断片的なのは当然のこと」

と、私の解釈では稚拙になってしまって教授に申し訳ないのだけど、まさかのエビデンスに基づいた事象であることを教えてもらった。
これを聞いて、ずいぶんホッとした。あぁ、自分は間違ってないんだ、本当に自分の身体が自分を守る必要があるような状況にいたんだと。

もう一つのモヤモヤは、元当事者として語り続けることの需要や必要性が自分では感じられない、ということだったが

これについては、「その界隈の情報通」としての立ち位置でいいんじゃないか、と言っていただいて、これもまた、そっかー。と妙に納得したのだった。

こうして、聞いてもらえる誰かがいることは私の財産だ。

自分の気持ちを少しずつ言葉に変えて、心の中から解き放つ作業は、自分自身の癒しにつながっていると思う。

いわゆる支援職とか専門家の人たちは、現場で何が起きていたのかとか、なぜ支援に繋がらないのかの答えが欲しくて私に話を聞きにきてくれる。

けど、聞いてもらうことで私の心も整理されていく感覚があるし、新たな視点や発見もあったりする。元当事者として話すたびに、支えられているのは私の方なのに、と感じる。

だからやっぱり、今同じくしんどい思いをしている人の、聞き手に回りたいなと考えることは多い。

大体のことは言われても驚かないし、フラッシュバックで辛いことも多いけれど、その分、他人事でなく聞くことができると思う。

今はまだ大きなことをしたいとかの欲はないので、こんな記事に辿り着いてくれた人の、何らかの役に立てれば嬉しい。

辛いのは自分だけじゃなかったんだ、と気づくだけで、本人の世界に少しだけでも光が差すことを知っているから。

それでは、また。





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