本当は泣きたかった
何を隠そう私は大学受験に失敗した。今通っているのは滑り止めでギリギリ受かった学校。
何を隠そう私は1年前、共通テスト(昔で言うセンター試験)で国公立を目指してますなんて口が裂けても言えないような点数をとった。
その瞬間に私の淡い期待は粉砕された。
もうダメだろうなと思った。でも諦めるなんて勿体ないことは出来なかった。努力した過去を捨てられなかったから。
(そんなカッコイイことを言ってはいけないような酷い点数だった。もうこの時点でほぼ脱落が決まっていた。)
二次試験は案の定落ちた。
誰もが「でしょうね」となったはずである。
私は「やっぱり?!?!」となった。
そんな散々な私とは対照的に、別の国立大を目指していた友達が奇跡的に逆転合格した。
合格した瞬間に電話をくれた。(その前に私の結果は報告していた)
「待って、受かった、、。どうしよ信じられへん受かってる、、、。」
と電話の向こうで涙ぐんでいる友人に、
「よかったなぁ!!!!!ほんまおめでとう!!!私も嬉しいわ、、、」
と答えているうちに目から水がこぼれてきて、
いや、そのときはしっかり友人の合格に対しての嬉し涙を流していたのだけど、
人の成功を泣いて喜べる人間に自分はなれたんですね?!?!と妙に驚いた。
でもちゃんと、喜びながらものすごく複雑な気持ちだった。喜びと喪失感と自分の人格への驚きと、後悔と期待らしきもの、なんだかよく分からないが時間止まってくれないかなと思った。なんでそう思ったかはまだ説明できない。
友人は受かりました。おめでたいです。私は落ちました。落ちました。。。
「受かるとか思ってなかったし!」
「実家から通えるし良かったわぁ!!」
どれも本心なんだが本心じゃないんだ。
不合格というのは一般的にかなり嫌なもので、かなり悲しくて悔しいものなのだが、そこには確実に安堵とか開放感も存在していて、泣くに泣けない。
というかその日まで絶えず努力をしてきたかというとそんなことは本当になくて、何時間昼寝をしたら気が済むんだという休日も山ほどあったから泣けなかった。泣くほどのことではなかった。泣き叫ぶほどの重症ではなかった。その代わりに心の隅に陰りができて、それがこれからしばらくの間後遺症として居座り続けることとなった。
こんなふうに些細な陰りが心にはたくさんあって、ふと思い出して虚しい気持ちになる。多分大泣きしてもそれでチャラになるなんてことはなくて陰りはある程度心に留まるのだろうが、自分の感情は押し殺すもんじゃない。
悲しいとか嬉しいとか、瞬間的に目まぐるしく変化する感情についていけるなら、それを次々表現すればいいのだ。
ついていけない場合は、追いついたときに吐き出せばいいのだこのNOTEみたいに。
感情はイカサマできない。苦しい気持ちを楽しいにすり替えることができない。私たちは奴らに選ばれている。非常に不本意である。特に怒りと羨望と嫉妬とは仲良くしたくない。
ただ奴らに選ばれることに1つメリットを挙げるとすれば、人に優しく出来るということ。もうちょっと何か収穫が欲しいところだが感情から得るものなどそんなものだ。
これが意外と良くて、仕方なく味わった苦味が人々の心にお邪魔する際の鍵になったりする。
そう思うと悪いものでは無い。
苦味で人の心が買えたのだから。
泣きたかったというのは悲しみを表に出したかったという意味か、泣くほどの努力がしたかったという意味か、よく分からんけども、私は今の生活はそれなりに良いと思おうとしているので、しばし心の陰りにはすっこんでおいてもらおうと思う。
友達おめでとう。
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