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【エッセイ】奈良の盧舎那仏と白い教会

大仏殿の中で静かに微笑む盧舎那仏の前で、目を閉じて手を合わせている最中、緑の大草原の中に建つ尖塔の頂上に十字架がある白い教会の姿が目に浮かびました。

「田舎に帰ったら、仲間と教会を建てるんだよ。」


飛行機がレキシントン空港に着陸するからベルトを締めて下さいとアナウンスが流れた時に「故郷に着いたらのんびりと暮らすつもりですか?」と僕が尋ねたら、老人は誇らしげに飛行機の窓から、緑の大草原にポツンと建つ建築途中の白木の建造物を指差して誇らしげに言いました。

15年前、アメリカに住んでいる友人に会いに行きました。国内線に乗っていた時、隣に座っていた、ラガーシャツにチノパンにナイキの古いスニーカーという年の割に若々しい服装をしたシルバーの髪の老人が、多分暇つぶしに話しかけてきました。

急に話しかけられたから最初はあたふたしましたが、片言の英語で何とかコミュニケーションを取ることができました。老人は軍人で日本に駐留していたそうです。日本に駐留していた時は、日本各地を旅した事など色々と話してくれました。

15年後、僕は奈良の東大寺に盧舎那仏を見に行きました。盧舎那仏の前に立ち、このような巨大な仏様を人々はどの様な思い出で造ったのか想像してみました。

天平時代、疫病の蔓延や飢饉、長屋王の謀叛、全国各地で起こる反乱。そして、まだまだ天皇の権威は確立されておらず地方豪族の力が強く天皇ワントップ体制とは言いづらい状態。聖武天皇は仏法の力によって解消しようと全国に国分寺の創建を推進する一方、743年大仏造立をスタートしました。 

しかし、巨大な国家プロジェクトは、当然農民や地方豪族には大変な負担となるので、民衆や豪族達の反対は相当なものでした。

でも聖武天皇の熱意は徐々に人々に伝わり、朝廷からは度々弾圧されたが、民間布教や社会事業に尽力し民衆から絶大な人気があったといわれている行基が、その影響力の大きさから、聖武天皇の要請により奈良の大仏建立の実質上の責任者として協力しました。 また当時日本ではまだ難しかった仏像を鋳造の技術を持った渡来人達も協力を惜しみませんでした。

そして、ついに天平勝宝4年(752年)に開眼法会が盛大に行われて盧舎那仏が完成しました。

仏法の教えと一緒に世界の最先端の文化と技術、政治制度を輸入する事により日本が豊かで平和になると強く願った聖武天皇と、命掛けで盧舎那仏の造営に携わった人々がいたからこそが完成できたのだと思います。

そんな様々な人の思いが結実して造立された盧舎那仏の前に約1,200年後立って祈っていると、ふと約15年前、アメリカの小さな町の人々によって建築された教会の完成した姿に思いをはせました。

しかし、あの時にあいにく老人と連絡先を交換するのを忘れていました。だから完成した教会の写真を撮って送ってもらうか、メールに添付してもらうようにお願いすることも出来ません。

そんな15年前の後悔の念が盧舎那仏の前で、想像の白い教会の姿を頭の中で描かせたのです。

あの老人とはもう会えないかも知れませんが、いつの日にかあの教会に行ってみたいです。

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