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笑いで佐世保を元気に!!(後編)対談者:佐世保かっちぇて落語会 放送作家 海老原 靖芳様

今回のヒューマントークは、ヒューマントークVOL.34(2018年)の海老原靖芳様との対談記事《後編》をお送りいたします。

前編では、海老原様がテレビでお笑い番組の放送が多くされている全盛期に放送作家として活躍されるまでのお話をお送りしました!

後編では、東京から佐世保に活動拠点を移し、「佐世保かっちぇて落語会」を誕生させるきっかけについて伺っています。
前編よりぜひ続けてご覧ください🎵

※対談の本文は、2018年10月に社外報『ヒューマンニュースレター』に掲載したトークを当時の文章で掲載いたします。

笑いで佐世保を元気に!!(後編)

佐世保かっちぇて落語会 放送作家 海老原靖芳様
ヒューマングループ 会長 内海和憲

内海:東京で放送作家の仕事をされながら、佐世保に軸を移されたのはどういうきかっけだったのでしょうか?

海老原:東京ではテレビ番組、大阪では吉本の仕事をやっていたのですが、だんだん自分の中で、この笑いは違うな!心から本当に笑っていないな!と思い始めたんです。
でもスタジオ行けばスタジオのスタッフは受けるし、吉本行けば吉本のお客さんは受けるんですが、自分はあんまり面白くない、何かが違う。マスクを1枚して笑ってるようなそんな感じでした。

 そういう時に佐世保市政100周年記念イベントとして、吉本新喜劇を佐世保に呼べないかと言う話があって、100周年だからということで、100人の市民に参加してもらい、佐世保オリジナルの吉本新喜劇を行いました。

 佐世保のオリジナルの脚本を書いて、市長役にチャーリー浜、当時の市長の光武さんに市長の秘書の役、市の職員に華丸大吉、佐世保弁を使って、大宮市場とか大黒町とか戸尾市場とか、地域の名称を使って、お客さんも受けるんですけど、それ以上に僕が受けました。これはドリフを見ても、大阪吉本新喜劇を見てもなかった、自分の中に本当に湧いてくる「笑い」がありましたね。

 自分の中の本当に湧いてくる「笑い」、この笑いはそういえばどこかにあったなぁ?と思ったら、実は佐世保南高校にあったんです!思い出しました!
高校の時、教室中がシーンとしている中、「なんの園まり天地真理」と友人が言って、大爆笑した事。これが原点でしたね。プロとしてその時は25年、それなりの番組を作ってきて、その吉本新喜劇の佐世保版をしたときに、そこがつながったです。

 そうこうしていた時に佐世保で小学6年生の同級生の事件があって、なんで佐世保で、しかも楽しいはずの小学校時代なのに、なんでこんなことが起きたのか、市制100周年イベントでの吉本新喜劇で出演してくれた子供たちが何人もいたので、子供たちが大丈夫なのか心配してました。

 市制100周年イベントでの佐世保で生まれ育ったネイティブな笑いを思い起こしてくれたことと、そういう事件があったことから、自分が持っているキャリアの「笑い」で、佐世保の子供たちを元気にできないかな?佐世保って本当はもっと明るくて楽しい街なんだ!とアピールできないかなと思っていました。でもまだ佐世保に帰ろうとは思っていませんでした。

内海:ロータリークラブ主催の親子漫才も企画されたんですよね。

海老原:そうです。あの事件の2年後にロータリークラブで「親子で考える教育問題」と言うのを頼まれたんです。コーディネーターとしてタレントのルー大柴を呼んで、教育関係者の人がシンポジウムをやると言うのですが、教育問題を2時間でそこらしゃべったって解決するわけないし、親子のコミュニケーションの最たるものとして佐世保のオリジナルの親子漫才ができないかなと思ったんです。
 それをロータリーの方に話したら、すぐ親子3組を探してくれて、台本を書いて稽古して、親子漫才をやりました。

内海:あれも受けましたよね。漫才は今も覚えてますが、その前後は何も覚えてないですね。

海老原:そういうものですよね。教育問題はコミュニケーションが基本だとすると、それを僕なりに笑いに転嫁しながらできたのが親子漫才だったので、あれはものすごく受けましたね。佐世保でこういう風にして作っていくのもありかもしれないと思いました。でもまだ佐世保には帰ってこないんですよ。

内海:まだ帰ってこないんですか?いつ頃帰ってくるんですか?

海老原:自分が思っているテレビ番組が作れなくなったんですね。これは僕自だけの問題ではなく、テレビ局全体で、笑いが変わってきたんですね。テレビのバラエティーそのものが、台本を書く人がいて、考える人がいて、演じる人がいて、コントとか、そういう作りものが無くなっていったんですね。

内海:そういう大きな変化があったんですね。それが佐世保に戻られるきかっけになったんですか?

海老原:ちょうど、その頃軽井沢に住んでいたのですが、軽井沢の冬がだんだんきつくなってきたんですね。暖房費もかさむし、雪かきもかつて腰は痛まなかったのに痛むようになり、冬の間だけ佐世保に移住してみようとお試し期間で戻ることにしました。それが戻るきっかけではありますね。住んでみると、改めて佐世保ってこんなにいい街だったんだと思いましたね。

内海:そのお試しで佐世保に戻られることになったんですね。佐世保かっちぇて落語会を誕生させたきっかけはどういうきっかけだったのですか?

海老原:これもまた僕自分でやる気はなかったんです。落語はそんなに好きではなかったのですが、佐世保に住み始めて、旅行気分で毎日毎日楽しく過ごしていた時に、コント赤信号の小宮くんから電話がかかってきたんです。佐世保で落語会ができませんか?って。彼が落語をやっているのは知っていましたけれども、落語会と言われてもねぇ。別に好きでもないし、なんで佐世保で落語をやらなきゃいけないんだよ・・・。
 と、ふっとまたここで浮かんだんです。「もしさぁどんな噺家さんに来てもらえるかわからないけど、プロの前座を断って、佐世保の子供たちに前座をやらせるっていうのはどう?」と言ったんです。「佐世保の創作落語を俺が書くから・・・。」「落語家さんがそれでよければ面白いかもししれませんね。・・・。」それがきっかけです。理想に燃えた遠大な計画があってやり始めたわけではないんです。

内海:でももう落語会を17回も続けられていますので、佐世保の市民にはもうすっかり定着しているし、期待もあると思いますがその辺いかがですか。

海老原:続けたいと思いますね。毎回僕自身が発見があるんです。この前愛宕中学校の子供が、弁論大会で長崎新聞社賞をもらったんです。でもそんな子供じゃなかったって親御さんがおっしゃるんです。今まで自分の中になかったようなものを、落語を600名の前でやることで自信が出てきたり、度胸がついたり、しゃべることが面白くなったり、そんなふうに言ってくれると、じゃあこれからも続けるかって・・・。

内海:最高の教育を受けていると言うことですね。

海老原:そう言って下さると嬉しいですね!学校とか塾とかクラブとかまた違う「笑い」を教えられる人ってそう多くはないですからね。

内海:私も子ども落語と本物の落語を見せてもらうようになって、自分の中でスピーチがものすごく変わりました。最後にオチを言えるようになりました。そのオチは自分の失敗談ですけど。

海老原:「笑い」はコミュニケーションのとても大事な部分だと思うし、人間と人間の潤滑油みたいなものだと思いますね。それも信頼関係とかそういうのがあって初めてまともな笑いが生まれると思うんですね。あと対等であればあるほど気持ちの良い笑いが生まれます。

 この年まで放送作家をずっとやってきたと言うのは、市政100周年の佐世保版吉本新喜劇、ロータリーので親子漫才、そしてこの子ども落語、これをやるためにやってきたんじゃないのかな?って最近しみじみ感じます。それを友人に言ったら「格好よすぎるばい!」って言われましたけどね(笑)

内海:佐世保に根を張られて、笑いで人々を元気にしてくれる企画をこれからも楽しみにしてます。

▶海老原靖芳様プロフィール(当時)
放送作家。1953年佐世保生まれ。青山学院大学経済学部卒。
大学卒業後、今や伝説のテレビ番組となっている「巨泉·前武のゲ
バゲバ90分!」の特番に持ち込んだギャグとコントの原稿が日本テ
レビの番組スタッフに認められ、放送作家となる。以来、ザ、ドリ
フターズ、コント赤信号、とんねるず、ピートたけしとたけし軍団
や三宅裕司とSETなどのコント台木を書き、数多くの番組を手がけ
る。現在「佐世保かっちぇて落語会」と「信州すくだせ落語会」を
主催している。

著書:「軽井沢のボーイ」「佐世保に始まった奇蹟の落語会」「還暦すぎて、陽はまた昇る」
所属:日本放送作家協会、日本脚本家連盟

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