笑いで佐世保を元気に!!(前編)対談者:佐世保かっちぇて落語会 放送作家 海老原 靖芳様
今回のヒューマントークは、ヒューマントークVOL.34(2018年)の海老原靖芳様との対談記事《前編》をお送りいたします。
ザ・ドリフターズやビートたけしさん。
誰もが一度は聞いたことのあるような芸人のコント台本を書いていたのは佐世保出身の放送作家・海老原様でした!
人気テレビ番組の企画なども行っていた海老原様が、佐世保でなぜ落語会を主催するようになったのか、どんな思いがあったのか、会長が対談の中で伺いました。
それでは、前編よりどうぞ✨
※対談の本文は、2018年10月に社外報『ヒューマンニュースレター』に掲載したトークを当時の文章で掲載いたします。
笑いで佐世保を元気に!!
司会:本日はヒューマングループの地元佐世保ご出身で、放送作家であり、また佐世保かっちぇて落語会を主催されています、海老原靖芳さんにお話を伺いました。
内海:佐世保南高を卒業されて青山学院へ進学されますが、どういう過程で今の仕事に結びついていかれたのですか?
海老原:高校の頃は、大学に4年間行ったあとは佐世保に戻って、地元の銀行とか市役所とか公務員とか仕事についてくれと親が言ってましたので、僕もなんとなくそのつもりでいました。でも本当は、実は玉屋に勤めたかったんです。小さいときのあの玉屋のおもちゃ売り場の楽しさ、食堂のソフトクリームがとても美味しくてね、夢のようなところだったんです。
だから玉屋に勤めたらいいかなーって(笑)、そのくらいノー天気でしたね。
だけど大学行って、たまたま現役で南高から行ったのが僕1人だったので、誰も知り合いがいないんですよ、しかも東京だし。ガイダンスに初めて行って、どこで申し込みをしてどこで教科書をもらって、どこで説明を受けるというのが全く分からなかった。そんな中、クラブ、サークルとかの勧誘があっていて、わからないなりに1番たくさん声をかけてくれて、なおかつ1番かわいい女の子がいるところに聞きに行ったんです。親切に教えてくれました。可愛いし、さすが青学だなって思って。
いろいろ済ませて、何をするクラブなのかもわからないまま、そんな不純な動機からそのクラブに行ったのですが、「青山子ども会」と言って、DVで子供がかわいそうな状態だったり、親に捨てられたとかいろんな事情の子供たちがいる施設に、ボランティアとして行って、歌を歌ったり、キャンプの手伝いをしたり、勉強を教えたりする、そういうクラブだったんですね。でもね、嫌だと言えないし、友達もいないし、声をかけてくれたこの人可愛いし!とにかく知り合いがいないから、まぁそれがきっかけになればいいしと思って。
そういうクラブだったのですが、こんな子供たちがいるということを今まで知らなかったので、それがショックでしたね。そこで人形劇したりキャンプ手伝ったり、キャンプファイヤーで歌を歌ったり、子供たちと遊んだり、勉強教えたりそういう活動が続いていく中で、時代が時代だったのですが、社会の状況によってこういう子供たちが生まれる、ただの自己責任だけでは無い、そういう子供を生み出すシステムに問題がある、どうやったらそういう子供が生まれないようになるのか、これはちょっと考えなきゃいけないと思いましたね。現場に行ったり、勉強会に参加したり、この本読めとか、先輩にたくさん言われて、知らない作家の人や思想家とか、一生懸命読んだりして、そんな活動が続いていた時に、このまま佐世保に帰って普通に就職していいのかなと思い始めたんです。
それからとにかくずっと悩んでいたので、自分は一体何をしたくないのか!を書き出すことにしたんです。
内海:普通はしたくないことではなく、やりたいことを書きだしますよね。
海老原:そうなんです。大学4年当初、なぜかふっと、したくないことって何があるのかなと思って、仮に東京にいるなら、満員電車に乗りたくないとか、毎朝同じ建物に行くのは嫌だとか、ネクタイを締めるのが嫌だなぁとかね。全くわからないところに行って就職試験受けて受かったとしても、この上司が何考えているのか、何を好きなのか、どんな映画を見て感動したのかしてないのか、全く分からないような人の下で働くのは嫌だ!・・・そういうのを書き出していたら、だんだん働く気力がなくなってきて(笑)。
大学4年間の中で本を読んだり、人と接したり、人と話したり、年間300本ぐらい映画見たり、そうやって教えられたりした中で、何をしていいかわからないけれども、考えたり何か書くような仕事がしたいかなって、だんだん思い始めるんです。フリーで何かできなかなと思ったら、当時、コピーライターというのがあるって言うので、名刺だけ作って、コピーライターの真似事し始めたんですね。
でもいつでもフリーのコピーライターもだめだなと思い始めて、どこか広告代理店に勤めようと思っていた矢先に、本当にこれは偶然ですが、もうこれしかなかったら今がないでしょうけど、当時たまたま読んでいた新聞の芸能欄にゲバゲバ90分の復刻版のスペシャル番組を作ると書かれてあって、ギャグやコントの原稿募集します、この番組が好きでスタッフとして参加したいと思う人は、素人でもプロの放送作家でも漫画家でも誰でもいいから原稿持ってきてくださいというのがあったんですよ。
ゲバゲバと言ったら、とても大好きな番組だったし、ギャグの宝庫だったからよく見ていたんですね。番組を作った演出家の斎藤太郎さんとコント作家の河野洋さんという人がちゃんと審査しますと書かれてあって、なんだかわからないけど、その時ここだ!と思ったんですね。
初めてテレビが我が家にやってきた頃、小学校時代ですが、テレビが大好きで、もう魔法の箱のようでしたよね。シャボン玉ホリデーとかいろんな番組が大好きで見ていたわけですよ。その記事の最後の募集するという一言を読んで、小学校、中学校の時から楽しかったテレビ番組がいっぱい頭に浮かんできたんです。
小さいころから、自分が何かを率先してするタイプじゃなったのに、原稿の書き方とか台本の書き方も何にもわからないのに、原稿用紙を買ってきて、自分が面白いと思うギャグとかコントを見よう見まねで書きだしたんです。ここで採用されたい!採用されたい!というすごく強い欲求があって、どうしたらプロの相手に認めてもらえるか?と考えたんです。大体応募する連中のレベルもトントンだろう、面白いことはそんなに思いつかないだろう、そうするとなんだろうな・・・と思ったら、ふっとなんだか、数だ!と思ったんですね。
100本書いて日本テレビに持っていきました。最初の演出家の斎藤さんに会って、100本の原稿をどんと出したら、「えー、君、こんなに書いたのか」何もわからないただの素人と向こうは日テレの大演出家ですよ。でも全部読んでくれて「大体やったやつとか面白くないとかいろいろあったけど、でもよく書いたね。よく考えたね。」と言われました。
最終10人が残って、1週間ほどして担当のギャグ作家の河野洋さんに会ってくださいと言われ、もう35年くらい経ちますけれども、まだ場所も覚えていますし、河野さんが来てた服も今でも覚えています。
1週間ほど間があったので原稿をさらに30枚ほど足していきました。河野さんが「君かあ~こんなに書いてきたのは、よくまぁこんな考えるねーくだらないことを」と言われて、あーもうだめかなと思ってましたが、「でも読むよ」って言われて、「あと30枚ほど足してきたんですけど」と言うと、「えーまだあるのかよ、また書いてきたの?しょうがないなぁ」とか言いながら全部読んでくれました。「あー疲れたよー!でもね~君は本当に馬鹿だねー!こんなにねー!ばかだよ!」・・・。ああ僕は馬鹿だ。ダメだって思ってたら・・・、「馬鹿だから一緒にやるか?」って言われたんです。「まぁこんなくだらないことをさぁ、君いくつだっけ?」「28です」「28にもなってさー、こんなねー、この馬鹿さはいいよー!こんな奴はいないよ。一緒にやるか?」と言われて・・・。
馬鹿と言うと、佐世保の基準では、当然先生から言われたり親から言われると、もう駄目だという意味なんです。否定の馬鹿です。だけど初めてですね。肯定の馬鹿というか、後でわかるんですが、よくビートたけしさんが、「ばかだねお前は」「馬鹿だけど面白いよ」とか言われてますよね。
そういう使い方があるのかと思いましたね。
「一緒にやるか」と言われてしばらくして呼ばれて行きましたら、その番組のためだけに、ドリフの番組をやっている放送作家の人とか、ワハハ本舗を作った人とか、永六輔さんの弟子の人とかいろんな人が集まってきてたんです。自分が見ている番組を作っている人たちが。自分の横にいるわけですよ。そこに毎週毎週行くようになって、それからですね。
「お前か、くだらない話を100も書いて」「お前はつまんないらしいなぁ、つまらないらしいからTBSの誰それ(プロデューサー)に会ってこいよ!」「俺は嫌なんだよ。あの番組はやりたくないの、俺はやらないけど、お前行って来いよ!」そう言われて「Aさん(放送作家)に言われてきました。」と行くと、「ああそうか!Aさんがそう言うなら大丈夫だろう!」
そのプロデューサーは、何にも僕の台本とか知らないんですよ。でもあの放送作家が紹介したやつだから大丈夫だろう!と全てが信頼関係に成り立っている業界でしたね。
そうやって少しづつ知り合って、広まっていったから、名刺も何もなくてよかったんです。その積み重ねで放送作家になれたんですね。あの時のゲバゲバの特番に原稿持っていって、その時に会った人から「君は馬鹿だな」と言われた28歳の時が転機ですよね。
内海:テレビの放送作家がメインだったのですか?
海老原:そうですね。テレビ番組の企画とか台本を書くとか構成を考えるとかがメインです。大阪だと吉本新喜劇は舞台ですが、演出も脚本も書いていました。
内海:ちょうどお笑い番組が多い時ですよね。
海老原:そうです。全盛期ですね!
後編へ続く・・・
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