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メタ社会学的対話 [4/5] -- 「入門」の一歩先へ

1. 「社会学」「人間」「自分自身」
2. 人間の「原罪」
3. 社会学の〈原罪〉
4. 社会学者の実存(←本稿)
5. 「原罪」と実存

社会学者の実存

―― 「社会学」と「人間」と「自分自身」は、ひとつの問題として理解できる。これが、僕たちの出発点だった。

―― よく覚えているね。

―― そして君は、僕を導いていった。僕たちは、まず「人間」の核心にある「原罪」を明らかにしたうえで、「社会学」の核心にある〈原罪〉に到達した。すると、残されたピースは「自分自身」だ。

―― 君は、自分自身が何者なのか、分からなくなっていたね。

―― 今もまだ分からないよ。でも、それが、自分の世界が解釈可能性に還元されていく事態だということは理解した。

―― だからこそ、君はもう一度、「原罪」を通過して世界を再構成しなければいけない。君は、君が思うように世界を作ることができるはずだ。

―― いや、僕にはできないよ。僕が知っているのは「現代人」の「原罪」だけだ。つまりは、「主体」を自明化して世界を構成する方法だけだ。しかし、その自己責任的世界の残酷さと理不尽さを知ってしまったからには、その世界に戻ろうとも思えない。

―― 君は、故郷喪失者なのか。けれども、君の世界を作ることができるのは君だけだ。私にできることは、せいぜい、「原罪」の具体的な形式を紹介することくらいだよ。

―― ぜひ、紹介してほしい。「原罪」に無限の可能性があることは理屈では分かったけど、まだそれを実感できてないんだ。

―― 承知した。人間が生きようとする仕方、すなわち実存によって、「原罪」が選びとられることが分かっていただけると思う。ただし、ここでは簡単にしか紹介できないからね。

―― 分かった、よろしく頼む。

―― じゃあまず、「ハビトゥス」という言葉を知ってるかい?

―― それは確か、ブルデューの中心概念だ。構造と実践を媒介する、とか説明されたけど、正直よく分からなかったな。

―― あれを理解するには、1960年代のフランスの思想状況を知っておく必要がある。当時は、実存主義と構造主義が、批判合戦を繰り広げていた。

―― 実存主義の旗手がサルトルで、構造主義の旗手がレヴィ=ストロースだったね。

―― その通り。実存主義も構造主義も、それぞれの「原罪」に規定されている。実存主義の「原罪」は、人間の主体性を信じることにあった。一方、構造主義の「原罪」は、人間の主体性を否定して構造の客体とみなすことにあった。

―― まるで僕の振動する思考のようだ。ところで、実存主義と、現代人的な自己責任論は似ているんじゃないか?

―― そうかもしれないが、そこには重大な違いがあるよ。同じように自由意思を信じていたとしても、実存主義には、自らの意思決定が人類全体に対して責任を負う、という倫理観があった。自らの堕落が人類の堕落に直結するという思想は、利己主義とか自己責任論として片づけられるものではない。

―― なるほどね。実存主義は主体信仰と倫理を両立していたけど、現代人には倫理が欠けている。むしろ、利己的な利益追求が正義とされる新自由主義においては、他者への配慮が不要になってしまうわけだ。

―― そうだね。しかし、いくら倫理を備えていたとしても、未来を生み出す存在として人間を信じ過ぎると、軽薄な楽観主義に転落してしまう。つまり、現実を直視することを忘れ、ユートピアを建設できるという幻想に取り込まれてしまう。

―― かと言って、構造主義だと、虚無的な悲観主義になるだろう。人間の意思決定がすべて社会構造によって仕組まれたものだったら、もはやそこに希望はない。

―― だからブルデューは、実存主義と構造主義の双方を相手にして、二正面作戦を遂行したんだ。実存主義に対しては、意思決定の不自由さを突き付ける。人々の日々の実践は、ある程度の創造性を含んでいるかもしれないけど、それでも構造に規定されている部分も大きい、というように。その一方で、構造主義に対しては、構造の可変性を突き付ける。構造は、あくまでも人々の実践の産物だから、実践が変われば構造も変わるのだ、というように。

―― なるほど、だからブルデューは、構造と実践を媒介する概念を必要としたのか。「ハビトゥス」は、実践の完全な自由を否定すると同時に、構造の完全な支配も否定する。しかし、やはり概念であるからには、「原罪」があるんだろう?

―― その通り。ブルデューの「原罪」は、再生産される格差を理不尽だと感じる倫理観と、自分が社会変革の先鋒にならなければいけないという使命感だろう。彼は、当時の知識人としては異例で、農村出身なんだよ。彼は誰よりも、フランス社会の経済的格差や文化的格差の存在を実感しているし、その格差が再生産されることも実感しているはずだ。

―― 社会の理不尽に対する抵抗として、ブルデューの社会学は始まったのか。だとすると確かに、構造主義的な悲観主義に陥るわけにはいかない。抵抗するためには、希望が必要だからね。

―― しかし、実存主義のような軽薄な希望にも頼れなかった。事実として理不尽は存在するし、それは強力に再生産されている。人々は自由意思を発揮しているように見えるが、それでもなお、格差の構造が再生産されてしまうんだ。その現実を直視することなしに、有効な社会変革はありえない。

―― 社会の理不尽を直視すること、そして理不尽に抵抗すること。この倫理観と使命感のなかで自分を燃やし尽くそうとする。彼の実存は凄まじいね。

―― 彼が社会学を「マーシャルアーツ」と表現した意図も理解できるだろう。社会において虐げられた者たちへの共感と、彼らを虐げる社会構造への鋭い分析、これがブルデューの社会学に他ならない。

―― 彼の社会学は、まさに彼の実存によって選びとられたものだったんだね。これは確かに、僕にとっての新世界だった。なるほど、こういう「原罪」があり得るのか。

―― 参考になったのなら嬉しいよ。自分の世界を作るためには、いろいろな世界を知っておく必要があるからね。

―― ありがとう。「原罪」という視点をもつと、社会学は一気に面白くなりそうだ。ところで、ひとつ質問があるんだけど。

―― なんだい?

―― 君自身は、何を「原罪」としているんだ?



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