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メタ社会学的対話 [5/5] -- 「入門」の一歩先へ

1. 「社会学」「人間」「自分自身」
2. 人間の「原罪」
3. 社会学の〈原罪〉
4. 社会学者の実存
5. 「原罪」と実存(←本稿)

「原罪」と実存

―― 僕自身の「原罪」か、良い質問だ。

―― 社会学者は、自分で「原罪」を選びとる。君はそう言ったはずだ。

―― 確かにそう言った。けれど、僕の「原罪」は、すでに説明されているんだよ。

―― どういうことだ?

―― 「原罪」とは、何かを自明なものとして認識するプロセスだったね。

―― 原理的には「他のようでもあり得る」モノゴトを、「他ではあり得ない」モノゴトとして自明化して、認識の出発点をつくるプロセスだ。

―― そこで、僕が自明化しているのは、「原罪」の存在だよ。

―― なんだと?

―― 僕は、あたかも、「原罪」の存在が普遍的な真理であるかのように語っていたね。しかし、同時に、普遍的な真理は「原罪」の檻の中にしかない、とも語っていた。

―― それは矛盾するんじゃないか?

―― いや、矛盾はしていない。僕は、「人間の認識は「原罪」によって作られる」という「原罪」によって、認識世界を作っているんだ。これは、世界生成の原理が、その世界そのものにも作用するという自己言及構造をもつから、確かに論理循環は発生している。しかし、ここに矛盾はない。

―― なるほど……。いや、しかし、何かがおかしい。君の世界は、「他ではあり得ない」ものとして存立しているようには見えない。つまり君は、「原罪」の忘却を達成していないんじゃないか?

―― 「原罪」の忘却を達成していないのは、見かけだけだよ。僕の世界は、論理的には、無限後退が発生するはずなんだ。「原罪」を認識するならば、その認識すらも「原罪」に規定されるはずだ。しかし、「原罪」の認識に対する認識も、さらなる「原罪」に捕まってしまう。まるでエッシャーの騙し絵みたいに、どこまでも下降していくのさ。

―― だとすると、やはり、「原罪」には無理があるんじゃ?

―― だからこそ、「原罪」の無限下降を忘却するんだよ。無理を承知で、「原罪」「原罪」として認識世界を存立させてしまう、この命がけの跳躍にこそ、僕の世界の核心がある。

―― 絶望的に安定性を欠いた世界だね。君の世界は、どこまでも溶けていく衝動を秘めている。あらゆる認識が、解釈可能性に還元されていく世界だ。

―― 僕はすでに、そう説明していたはずだよ。人間の「原罪」を措定したとたんに、それは自律運動を開始して、世界が無限の解釈可能性に還元されていく。恐るべきことに、ここで、「無限の解釈可能性」すらもひとつの認識に過ぎないことが発覚する。

―― ちょっと待ってくれ。それは絶対的な矛盾じゃないか。あらゆる認識を潜在させる無限の可能性と、ひとつの具体的な認識が、イコールで結ばれるはずがない。やはり、君の認識世界は破綻している。

―― そうだね。ここにあるのは、自己言及のパラドクスだ。認識に対する認識は、論理的には階層を上っているはずだけど、実際的には元の認識と同じ階層にとどまる。これと同じ構造は、「原罪」〈原罪〉でも発生している。つまり、〈原罪〉も、ひとつの世界を生成するという点では、「原罪」と何ら違いはないわけだ。

―― 君の世界は、もつれた階層によるパラドクスの世界なのか。その世界の論理構造は矛盾しているように見えるけれども、「矛盾している世界」としてメタ的に存立してしまっている。あらゆる認識を「括弧」に入れて、自明化を停止させ続けることで存立する世界だ。

―― その通り。自明化のプロセスを徹底的に自明化することで、それ以外のあらゆる自明化のプロセスを停止させることができる世界だよ。僕は、「原罪」の累積的な自乗化によって、それ以外の「原罪」を無効化しようとする。

―― 君の世界の存立構造は把握した。それは、存立構造が内部からは把握されないことによって存立する世界であって、その点では他のあらゆる認識世界と違いはない。しかし、何のためにその世界を選びとったんだ? 社会学者は、実存によって世界を選びとるんだろう?

―― それは、社会を丸ごと把握したいという好奇心だと思うよ。そのうえに倫理観や使命感が重なることもあるけど、根源的には、あらゆる人間の実存を汲みとりたいという情熱があると思う。僕は、あらゆる人間に対する共感の可能性を信じている。

―― あらゆる人間に対する共感?

―― そう。自分の認識世界に閉じこもったまま、自分の世界に現れる相手に共感することは、相手の世界に対する共感とは言えない。自分の世界に現れる相手とは、自分の「原罪」によって作られた認識だから、対象化された自分自身だ。

―― なるほど、君は、相手の「原罪」に寄り添うことを共感と呼ぶのか。自分の世界で相手を見るのではなく、相手の世界に自分が降り立つことを。

―― その通り。そのためには、まずは自分自身の世界を破壊しないといけない。そこで、「原罪」「原罪」として認識するという戦略をとる。それによって〈原罪〉に到達したならば、あらゆる他者の「原罪」に降り立つことができるようになる。

―― それで、その先には何がある?

―― 「原罪」を通過し忘却するプロセスは、「他のようでもあり得る」という可能性を捨てて、ひとつの現実の檻に埋没することに他ならない。そこには、先験的な痛みのようなものがあると考えている。それぞれの人間が「原罪」の檻に閉じ込められる前の、個別性・具体性・特殊性の水準で、実存を捉えてみたい。

―― しかし、相手の「原罪」に寄り添うために、「原罪」「原罪」として認識するというのは、論理的には循環している。「原罪」に寄り添うという目的のために、「原罪」を措定するという手段をとっているわけだが、そもそも「原罪」が措定されないと、「原罪」に寄り添うという目的は認識されない。

―― そうだね。僕の世界は「原罪」を核にして生成されていて、「原罪」の無限下降を意図的に忘却しているから、「原罪」の周辺では論理循環が生じる。けれども、やはり、論理循環は矛盾ではない。

―― 破綻しそうで破綻していない、あるいは、すでに破綻していたとしても問題にならない。本当に不思議な世界だよ。

―― 論理的に破綻していたとしても、実際的に存立しているからね。実存が「原罪」を選びとり、「原罪」が実存を可能とする。この無限循環として、僕の世界は存立している。

[ 終 ]



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