「生々しさ」と「アカデミクス」 -- 社会学の存立様式

 私はこれから四人の社会学者を論じる。この論考は、彼らの社会学者としての生に共感するものではなく、彼らの社会学的成果を徹底的に脱色し、白骨化させたものである。

■ 本稿と対になる論考



〈妥協〉の戦略と〈跳躍〉の戦略

 認識作用こそが対象を構成するのだから、我々は決して《そのもの》を見ることはできず、認識世界の恣意性を排除することはできない。これを人間の原罪とするならば、社会学の原罪もまったく同様である。

 ブルデュー (Pierre Bourdieu, 1930-2002) とギデンズ (Anthony Giddens, 1938-) は、認識以前の実践世界と認識的な理論世界の狭間で、対照的な戦略をとっている。社会学の蓄積は、個々の人間を超えた社会的拘束力を措定する立場と、個々の人間の創造的主体性を措定する立場に分かれていた。それを認識していたブルデューとギデンズは、どちらの立場も批判し、かつどちらの立場の成果も取り込めるような理論枠組みを目指したのである。

 ここで、「実践」と「社会」と「個人」の三項関係が問題にされる。両者とも焦点を当てるのは「実践」だが、その認識作用を向けるための足場を、ブルデューは「社会」の側に、ギデンズは「個人」の側に、それぞれ設定する。同時に、足場として選ばれなかった項は、概念的な不安定性を隠すことができなくなり、その不安定性を「二重性」として肯定的に描き出すレトリックを用いる。それこそが、ブルデューの「ハビトゥス」であり、ギデンズの「構造」である。

 このように対照的な立場をとるブルデューとギデンズだが、しかし両者とも、原罪に対しては〈妥協〉している。理論世界と実践世界の軋みを承知したうえで、理論としての形態を維持しながら、いかに「生々しさ」を汲みとるか。本来は両立しないはずの二つの目標を両方とも追い求めることは、理論枠組みの内部に矛盾を持ち込むという〈妥協〉の戦略に追い込まれることを意味する。

 彼らの〈妥協〉の戦略と対立するのが、ルーマン (Niklas Luhmann, 1927-1998) と見田 (見田宗介, 1937-2022) である。ルーマンは、理論的な足場を「実践」そのものに措定し、「生々しさ」を極限まで削ぎ落とした厳密な理論体系を作り上げた。ルーマンとは対照的に、見田は固定的な足場や理論を措定することなく、レトリックを駆使してどこまでも「生々しさ」を追い求めた。ルーマンと見田の戦略は対照的だが、彼らは原罪に対する〈跳躍〉の戦略のバリエーションである。

 ブルデューとギデンズは対照的な〈妥協〉の戦略をとり、ルーマンと見田は対照的な〈跳躍〉の戦略をとる。〈妥協〉と〈跳躍〉は、彼らの社会学のメタレベルで対立する。ところで、「妥協」という言葉がネガティブに、「跳躍」という言葉がポジティブに受け取られる傾向があることは私も承知している。そのような意味合いを持たせたわけではないが、私の語法に不満を感じるのであれば、前者を「創造的妥協」、後者を「退行的跳躍」と、それぞれ読み替えていただいて構わない。


〈妥協〉の戦略のバリエーション

 理論世界はどこまで実践世界に近づけるか。人間は、実践を生み出す主体として生活しつつ、反省によって自分の実践が拘束され方向づけられていることを認識できる。社会学は、人間生活のリアリティをどこまで理論的に語ることができるのか。

 ブルデューは「構造(諸構造)」に足場を置いて、ハビトゥスが構造から強く規定されて構築されることを強調する。場の構造と、行為体のハビトゥスの構築に関わった構造が一致していれば、客観の側から見ても主観の側から見ても「理想的な実践」が生じる。すなわち、その実践は社会構造に完全に規定されており、行為体の創造性など存在しないように見えるが、行為体にとっては、その実践は自発的かつ戦略的に創造されたものなのである。ブルデューの枠組みでは、行為体が自覚する「主体性」を汲みとりながらも、構造の変わりにくさがクローズアップされる。

 対照的に、ギデンズは「行為主体性」に足場を置いて、構造が行為体によって創造的に構築されることを強調する。諸規則と諸資源の総体としての構造は、行為主体性の働きによって常に別様に解釈される可能性に直面しており、それこそが社会変容の駆動力となる。構造は、実践の可能性の範囲こそ規定するが、その内部では無限の創造性が発揮されるのである。ギデンズの枠組みでは、行為体に対する客観的な「拘束性」を認識しながらも、行為体が新たな実践を生み出す可能性がクローズアップされる。

 彼らの理論はトートロジーを含むため、論理的に完全ではない。しかし、それは社会学の原罪に由来するのであり、理論世界を実践世界へ近づけるためにはそうするしかないのである。また、彼らはレトリックを用いて論理的不完全性を隠そうとする。たとえばブルデューの著書では、「ハビトゥス」の説明はしつこく繰り返されるが、「構造」はあまり説明されない。ギデンズは逆に、「構造」を何度も説明する一方で、「行為主体性」の説明は簡単に済まされてしまう。

 社会学の原罪を理論内部に取り込み、実践世界のリアリティを汲みとりながら、論理的に不完全なところはレトリックで偽装する。これこそが、理論世界と実践世界の狭間で揺れ動く、創造的な〈妥協〉の戦略である。


ルーマンの〈跳躍〉――どこまでも理論の世界へ

 ブルデューとギデンズは、理論としての形態を維持しながら、できる限りで人々の生きる現実を描き出そうとした。しかしルーマンは、そのようなものをすべて削ぎ落とす。社会学の原罪に対して、どこまでも理論の世界へ〈跳躍〉することがルーマンの戦略である。

 ブルデューは「構造」に足場を置き、ギデンズは「行為主体性」に足場を置いて、それぞれ「実践」に焦点を当てた。しかしルーマンは、「実践」に足場を置いて「実践」を見ようとする。彼の言う「社会システム」とは実践のプロセスそのものであり、客観的構造も行為主体性も措定されない。実践に外在する「人間」も「社会」もなく、ただ実践のみがある。実践のプロセスの単位を「コミュニケーション」だと定義し、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出し続ける自己言及的なシステムとして社会を捉えるのが、ルーマンの社会システム理論である。

 ルーマンは「意味」を語る。しかし、人々が生活の中で経験するような「生きられた意味」を汲みとるわけではない。むしろ逆に、あらゆる「意味」を機能に還元してしまう。社会が秩序化される前に存在していたはずのカオスを「複雑性」という純然たる量に還元し、「意味」は複雑性を縮減する機能としてのみ把握される。どのくらい複雑性を縮減する力があるかは「意味」によって異なるが、あらゆる「意味」は社会の秩序化に貢献するのであり、すなわちシステムの存続に貢献する。複雑性をうまく縮減できなくなると、システムはその環境との差異を保てなくなり、環境のうちに蒸発してしまうからである。

 あらゆる「意味」を機能に還元することで、徹底的に生々しさが削ぎ落され、冷たい理論が出来上がる。ブルデューやギデンズと比較すれば、論理性の徹底という側面では進化しているが、社会現象の記述という側面ではむしろ退行しているようにも見える。人々の「生きられた意味」を排除したルーマンの理論は、しかしその最深部で、「生きられた意味」を追い求めた見田の社会学的感性と接続する。


見田の〈跳躍〉――どこまでも実践の世界へ

 ブルデューは「構造」に、ギデンズは「行為主体性」に、そしてルーマンは「実践」に、それぞれ足場を置いた。ところが見田は、どこにも固定した足場を置かず、理論枠組みも措定しない。それにより、見田はどこまでも自由に「生きられた世界」を描き出す。レトリックを消極的に用いたブルデューとギデンズ、そして厳密な論理によってレトリックを極限まで排除したルーマンとは対照的に、見田はレトリックを積極的に用いる。社会学理論ではなく社会学的感性を働かせ、厳密な論理ではなくレトリックを駆使して、彼は実践の世界へ〈跳躍〉する。

 人間は、カオスと秩序の狭間に生きる。カオスを純然たる量に還元したルーマンとは対照的に、見田はそれを人間的な「豊かさ」の源泉だと見なす。すると、秩序をもたらす諸制度は、人間を生かすための機構であると同時に、人間的な「豊かさ」を抹殺する装置としても把握される。まさにこの秩序装置によって人間性が抹殺された状態こそが、彼がレトリックを駆使して論じようとする「疎外」である。「生きられる意味」を単純化し、人々の実践を規格化していく秩序装置から、いかにして人間性を救い出すか。だとすれば、社会学者の認識を規格化してしまう社会学理論すらも、見田にとっては疎外の一形態だったはずである。

 ルーマンが「複雑性の縮減」と呼んだものこそが、見田における「疎外」である。「意味」は複雑性を縮減するが、それは同時に「疎外」を生み出す。たとえば、あらゆるモノの価値が貨幣で測定される経済システムでは、商品の「意味」が純粋な量に還元されるため、複雑性は強力に縮減されている。同時に、人間の労働は本来的な歓びを失い、ただ貨幣というメディアを手に入れるためだけの行為として「疎外」されている。ルーマンの理論は疎外の内容を関知しないが、疎外そのものを鋭敏に察知する。見田は、疎外の内容を生々しく語り、そこからの人間性の回復を図る。

 社会が機能分化するほど、あるいはメディア化・物象化・個人化が進むほど、複雑性が強力に縮減され、疎外は深刻化する。ルーマンの社会システム理論と見田の社会学的感性は、ともに現代社会の「豊かさ」ではなく《貧しさ》を余すところなく照らし出す。生々しさを極限まで削ぎ落したルーマンと、どこまでも生々しさを追い求めた見田は、互いの深奥で通底する。


社会学の可能性

 ここまで、ブルデュー、ギデンズ、ルーマン、見田の四人の社会学者を論じた。社会学の原罪に対して、ブルデューとギデンズは対照的な〈妥協〉の戦略を、ルーマンと見田は対照的な〈跳躍〉の戦略をとっている。社会学は、その原罪を自覚しているがゆえに、認識しようとするものを認識できてしまう。そのため、社会学は可能性に開かれている一方で、何を目的とするかを最初に決めることを要請される。

 ここに、社会学者の信念や倫理といった、およそ学問的とは言えないものが密輸される。理論世界と実践世界の狭間で揺れ動く社会学者たちは、戦略的に「構造」や「行為主体性」を自明視したり、あるいは理論世界/実践世界を放棄したりしながら、独自の社会学を構築する。社会学は、「学問」であろうとしながら、「学問」の閉じられた世界に風穴を開けようとする。このような「学問」に対する矛盾した態度こそが社会学の原動力であると、私は考える。


■ 本稿と対になる論考

■ 本稿の解題

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