《解題》公共化された「公共空間」の限界

 『公共化された「公共空間」の限界』のテーマは、理念としての自由が、現実としての不自由に支えられるという逆説である。これは、見田宗介の論じた二つのコミューン〔人間解放の共同体〕の対比構造を、近代社会の基盤的虚構である「自由」をモチーフに再構成したものである。


山岸会と紫陽花邑

 見田は、〈近代〉を乗り越える社会を構想するための素材として、山岸会(現:幸福会ヤマギシ会)と大倭おおやまと紫陽花邑あじさいむらを対比する。これらの共同体を理想化するわけではなく、〈近代〉に対置する理念型 Idealtypus として、二つの共同体のモデルを提示する。

 山岸会は、農業を中心とした生活共同体である。その興味深いところは、少なくとも建前としては労働が強制されないことだ。〈近代〉によって生活から分離されてしまった労働を、生活のなかに取り戻し、労働における人間性を回復すること。それ自体が歓びとしての自発的な労働に支えられた社会は、マルクスが構想したユートピアに重なる。

 紫陽花邑は、〈近代〉が想定する「人間」になれない人々が、〈近代〉とは異なる在り方で《人間》になれる共同体である。産業社会の主体=部品として規格化されていない人々、たとえば重度の身体障害者や精神障害者は、すでに疎外された社会としての〈近代〉から、さらに疎外される(二重の疎外)。人間の価値が「有用性 utility」で測定される疎外された社会において、有用性を十分に発揮できる限りは、その疎外はたいてい問題にされない。しかし、そのような〈近代〉は、その社会原理からさらに疎外される人々を救う場所を持たない。紫陽花邑は、そのような人々が人間性を回復できる共同体である。


理念と現実の逆立構造

 山岸会は「モチ(餅)」を、紫陽花邑は「あじさい」を、それぞれの理念としている。ニギリメシの状態では、個々の米粒のエゴが残存しているため相剋や矛盾が生じる。研鑽を通してエゴを抜くことで、モチとしての一体社会を実現する、というのが山岸会の理念である。これとは対照的に、あじさいは、その花の一つ一つが微妙な形や色合いの変化を伴って花開き、それゆえに花房としての美しさが現れる。邑に住む一人一人がそれぞれの在り方で花開くことが、紫陽花邑の理念である。

 二つの理念は対照的である。山岸会は一体性を、紫陽花邑は多様性を、それぞれの自己規定としている。しかもこれは、それぞれの共同体の現実とは逆立しているように見える。なぜなら、山岸会は徹底した「話し合い」を通して集団を維持するのに対して、紫陽花邑は「感覚」で通じる以上のことは何もしないからである。

 山岸会の「話し合い」は、参加者のエゴと多様性を前提としている。紫陽花邑の「感覚」は、参加者の多様性よりも深いところにある共同性を前提としている。現実としては、山岸会のほうが〈あじさい〉であり、紫陽花邑のほうが〈モチ〉なのである。

極限的な共同性(モチ!)をその理念とする集団が、まさにそれ故に、その現実の運動において、諸個体の個体性をより敏感に前提する方式をえらび、多様に開花する個体性(あじさい!)をその心とする集団が、まさにそのことにおいてある共同性を直接に存立せしめてしまう。あらゆるコミューンの実践にとって最も根本的な問題――人間の個体性と共同性の弁証法の問題が、この逆説のうちに鋭く提起されている。

真木悠介『気流の鳴る音』 p. 24
(「真木悠介」は見田宗介の筆名)


「公共空間」の可能性

 以上を踏まえると、理念としての「言論の自由」が、現実としての〈言論の不自由〉に支えられるという逆説も理解できよう。SNSが存在しなかった時代では、「言論」をふるうためにはまず〈論壇〉に立たなければならなかった。大学で思想の基盤となる基礎教養を身につけたうえで、雑誌を読んで自らの思想の位置づけを学び、周囲の人々との議論や雑誌への投稿を重ねて研鑽を積み、時間をかけて〈論壇〉へと到達する。それによって初めて、人は「言論の自由」を手にした。

 「言論の自由」をその理念とする集団が、まさにそれ故に、〈言論の不自由〉を敏感に前提する方式を選ぶ。あらゆる資本を動員して言論界の象徴闘争に参加し、〈論壇〉に立たなければ、「言論の自由」は達成されることはない。その〈言論の不自由〉こそが、「言論の自由」を理念とする《公共空間》の駆動力だったのである。

 情報技術の発達とともに、我々はもはや〈言論の不自由〉を失ってしまった。これからどうするべきか、おそらく〈近代〉の内部に答えはない。


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