公共化された「公共空間」の限界

フェイクニュースや陰謀論がはびこる現代にて

 しんぶん赤旗を読む人は、自分が「しんぶん赤旗」を読んでいることを知っている。月刊ムーを読む人は、自分が「月刊ムー」を読んでいることを知っている。しかし、Twitterで情報の洪水にさらされる人々の多くは、自分がどのような情報に接しているかを知る機会に乏しい。情報そのものは理解できるとしても、その情報源がどのような性質をもっているのか、すなわち情報の情報を意識させられることは少ない。

 「表現の自由」が確立した当初は、大衆メディアといえば新聞か雑誌であった。そこでは、情報や意見を発信できるのはごく限られた人間であり、ほとんどの人はマスをターゲットにした発信手段を持たなかった。異端の言説も、口頭のコミュニケーションではよく見られたかもしれないが、それが口頭で行われている限りは蓄積することはなかった。しかし、インターネットとデジタルプラットフォームは、少なくとも先進国では、公共的な言説空間をほとんどすべての人間に開放した。インターネット空間のコミュニケーションは、口頭のコミュニケーションとは異なって、異時点・異地点のコミュニケーションが成立するうえに、すべての言説が検索可能な形で蓄積される。現実の小空間の中で圧殺されるはずだった言説が、インターネット空間で解き放たれ、連結し、蓄積され、発見される。

不自由による自由の成立

 コミュニケーションの在り方、すなわち「発信」と「受容」の在り方は、インターネットによって大きく転換した。ほとんどすべての人間が情報を発信でき、メタ情報を無視しながら情報の中身だけを受容できる社会。そもそも「言論の自由」が想定していた自由とは、技術的背景や社会的背景に制約された形での自由である。言論の不自由が前提されてこそ、言論の自由は機能する。インターネットによって公共空間が真の公共性を獲得したことにより、それは上手く機能しなくなったのである。言論の不自由が消滅したインターネット空間において「言論の自由」を振りかざすことは、それ自体で「言論の自由」の趣旨に反する。

 初期近代において、自由は「制約された自由」でしかあり得なかった。だからこそ、それを理想として掲げることができたわけである。しかし、社会と技術の発展によって「言論の自由」が現実化するにつれて、それは本来の機能と理念を失っていった。かつての公共空間を取り戻すには、我々は、何らかの形で「言論の不自由」を取り戻さなければいけない。


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