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テオロギア 断片 1 本多裕樹 記

テオロギア



1、断片



 神学を書き記そうと思う。これは私の遺言ともなろうか、そのような作品を書いてみる。多分、この文章作品は多くの人に拒まれようし、信じてくれまい。しかし書かねばならない、というか私自身の問題である。私自身の中にある思想をすべて明かそうという一つの試みである。天空のことを私は知っているのか、ただ、信じてはいる。ただの信仰である。まったく霞を掴むようなものだ。誰も私の信じている神を信じてくれなくていい、ただ、私の脳の中はこうなっていることを表現するために、これを書くのだ。つまりこの文章作品はホムンクルスそのもので、人口楽園でもある。それは言っておきたい。私の中の現実である。




             ◯

 さて、皆さんは神というと、どういう存在に思うだろうか。この国では神社に奉納されている鏡であったり、神物であるそういうものを御神体にして、皆様は礼拝されておられるだろう。また、他の外国の宗教なども入ってきていて、その地の神を唯一だと信じ、毎週日曜日に礼拝を捧げている人たちもいらっしゃるだろう。そうして、あまり信仰の対象を分析されたりせず信じているだろうか、それはそう私も信じている存在は、または概念は、霞かもしれない。他の方から見たらそう思うかもしれない。では、神とは何か、礼拝されている存在は何であろうか。それは古代において実際にあった奇跡がそうであるし、自然現象など、雷、台風、災害、疫病なども祟り神などもそうだ。しかし、私は言う。神を信じている私はいる。今、信じている。そういう目に見えない可能性を信じている。それは脳で知っているのか、脳が信じている。左脳で信じているのか、右脳で感じているのか。神の世界は脳で認知されている現象なのだろうか。そうなのか、そうかもしれないし、信じているものは仕方ない。信じる世界があることは事実である。では、私に奇跡は起きたか?起きているかもしれないし、それを当たり前に思っているのが現実である。他の人から見たら、何てこともない現象を奇跡だと思って信じているのではと思うかもしれない。もう、ここまでくると信じる世界なのだ。では、私が信じる世界、右脳と左脳が認知している世界はどのような世界なのであろうか。人間はタンパク質と菌と細胞、水でできているだけの存在なのであろうか。私は右脳と左脳で認知する世界がある、これが人類を進化させ、文明をもたらした霊性でもあるのではないか。たとえ幻想とも思えるこの信仰は無駄では無いのではないか。信じるその信仰は文明を創造してきた。神を信じる信仰が文明もまた人が良きと思う品性や徳も創造してきた。では、神はあるか? 確かに、その信仰の世界にいるだろう。そうであるなら、私が信じる神は何であろうか。私は聖書とクルアーンを信じている。それが基盤になっている。その聖典に出現する神なる方を信仰し、時に祈る。それで得したことがあるか、わからない。しかし、この聖典に書かれていることを信じたし、信じてこそその聖典の世界の中に私はいるのだ。ただ、信じるより他ない。そんな、私を馬鹿にしてもいい。実際そうなのかもしれない。では、なぜ、そうなるかであるが、現代の宗教と古代の宗教が違うからである。現代の宗教は科学であり、合理論と、見たものしか信じない科学立証されないと事実として認知されないからだ。今になって精神世界というものが流行しているが、その方々もその信仰の世界を信じているだろう。科学合理論と科学立証の事実は人々の心は鎖にかかり、そこから出たい人もいたから脱出方法として精神世界があったのだ。そこから意識を広げ、覚醒し、古い時代から逃げた人も多いことだろう。彼らは精神世界の神学を信じて、信仰と行動によって進化したのだ。そういう人はこの世に多くいるだろう。神の世界がその人たちにも見えるだろう。


私の信仰の糸口は聖書とクルアーンである。


しかし、すべての人がこの聖典に頼っているわけでもないし、他の信仰にも霊性を高める進化した教えや覚醒者、悟りを開いた人も多いことであろう。


今、現代は新しい時代を迎える人たちが多い、新時代の意識に目覚めた人も多いだろう。


科学、物質だけの、肉体だけの存在でなく意識、心そのものが自分の思想体として、霊体の感覚を覚醒した人も多い。


今や、新しい時代であり、古き認識に生きる人はその思い物質、権威、権力、我欲に執着していた人はその文明の混乱に迷いそこから出たいのか、新しい意識に覚醒できなかったのか、苦しんでこの世にしがみつこうとしている。


そうして、今まで信じてきた肉体の欲を捨てる時期に来ており、それを脱皮しようと苦心している。


霊性を悟れるものは多いが、その新しい意識に行けず苦しみ悩む人もいるだろう。


理知が邪魔をするのか。


信仰の無がそこに辿り着けずにいる。


では、その解脱のために何をすればいいか。


そういうことで、私の開陳している経書、イデアの考察もそうだし、芸術の書も悟りの縁になる。


しかし、本当は、私の信仰の大本である聖書、クルアーンを読み祈るしかないし、信じるしかない。


徳ある生き方を知らない人もある。


この混迷を極めた時代である。この最後の日のような世界観の今の時代を乗り越えるにはただ、信仰しかないのだ。そして、私の方法であるが聖書やクルアーンを読むことである。読むことそれ自体が祈りであるのだから。




令和5年12月30日本多裕樹 記

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