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夏草

落ちてゆく
もう取り戻せない
狙ったよりも確実に
図ったようなタイミング
電車とホームをすり抜けて
軽い摩擦を指に残して
白い傘が、落ちてゆく

ああ、よくある話さ
傘も、わたしも
どこにでもあるビニール傘
税込525円
手を離した瞬間から
所有権を主張する事すら
躊躇われるほどの量産品

わたしは先を急いでいた
ちくりと感じた痛みを抑え
電車に身体をねじ込んだ
どうせ特別な傘じゃない
どこでも手に入れられる
もう、わたしの傘じゃない
失くしたものは、思い出さない

そうしてわたしは
気づかないままに
ひとつひとつ、
失くしていった
傘を失くし、
痛みを失くし、
影を失くし、
わたし自身を失くして、
わたしはその町を立ち去った

それから、たった一度だけ
その駅を通り過ぎたことがある
ホームの下の線路脇
伸びかけた夏草に埋もれて
白いビニール傘が一本
埋葬されるように横たわって
還り着いたように安心しきって

それ以来
折にふれて思いだす
あの時わたしが落としたものは
はたして何だったのだろう
ひょっとすると
それは傘ではなくて
わたし、だったのかもしれない

夏草は、ただただ青く優しく
誰かが失くしたものたちを
そっと受け止めつづけている

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