我々は必死に社会へ適応する「たい焼き」である説
先日投稿した記事で
「我々は社会を生き抜くため、幼少期に鋳物へと押し込まれる」といった内容を書いた。
たい焼きで例えると、カリカリに焼けた外側が社会に合わせるために形作られた面になるだろうか。
その人が本来持つ、自由な部分、個性を中へと閉じ込めざるをえない人がいる。
人間の本心は、たい焼きでいうところのあんこに当たる。
外界や周囲にいる人の変化に敏感な人ほど、無意識に外側の対象へ自分を合わせようとする。
合わせすぎると、本当の自分の気持ちがわからなくなり「なんで私は、こんなに辛くなるまで犠牲的な適応をしているのか?」と疲弊しかねない。
たい焼きのあんこの部分が「本来の自分はこっちなのに」と、外へ出たいと主張することも。
このとき、あんこの声を聴かないまま無視し続けると心身に不調が出やすい。
全ての状況で素直に生き続けることは難しいが、嫌いな人間や嫌いな行為に対して「自分はこの対象を今、これくらい嫌悪している」くらいは自覚できておいた方がいいだろう。
自身の本心を否認すると、あんこが「お願いだからこっちを向いて」「無視しないでよ」と暴れ始める。
外側ばかりに関心を向けて、自分の本心に無関心を貫けばコンディションを崩すのは当然の帰結かもしれない。
社会生活を営む際に、たい焼きであることを求められるのはしかたがない。
ただし家に帰って、くつろいでいる時間くらいは、衣からあんこを外に取り出して「今日もよくやったね」とねぎらってあげてほしい。
心身の不調は、無視されたあんこの反乱なのだ。
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