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アートは"創作"ではなく"媒介"かもしれない。〜ミケランジェロや呪術廻戦に学ぶ世界の見え方〜

Ⅰ.アートは媒介?

かのミケランジェロや、大仏師の称号を持つ松本明慶さんなど、
名彫刻師はその彫刻の早さが有名だけれど、
彼らは口を揃えて、
「埋まっているものを掘り出すだけ」だと言う…。

それは石や木自体が、すでに掘るべき形の限界を定めているということだ。

そこに着想などはなく、
「内在しているものを見つけてあげる」
「余計なものを取ってあげる」
というニュアンスが正しいのかもしれない。


彼らはただ"知っている"
全身全霊でこの世界を感じて、
真理とシンクロしている。


そんな奇跡を必死に分析した僕は、
「元々"アート"はそこらじゅうに落ちていて、
彫刻や音楽、絵画やファッションみたいな創作物は全て、本質的には創作するのではなく"媒介"するのかもしれない。」
と考えるようになった。


宮沢賢治やアインシュタインも、
到達したそれぞれの宇宙という真理を誰かに伝えようとしているし、
現に僕たちはその真理を渇望し、追求を余儀なくされている。

元ZOZOTOWNの前澤さんのように、
実際に宇宙を感じずにはいられないなんて人もごまんといるはずだ。
(資本主義に侵された人間は、その行為さえもただのマーケティングの一環だと思ってしまうのだろうか…その側面があるにせよ)


もちろん、僕もその一人であって、
そうやってアートを捉えた先にある
"真理への渇望"
をファッションを媒介として共有してみたいと思う。

繰り返しになるけれど、それがnoteの主題である[創アーティスト時代の創造]にも繋がる。


今は媒介のさらに媒介でしかない立場にあるけれど、
いつかは感じたものを創作物として伝え、本質的なコミュニケーションを図りたいと思う…。



Ⅱ.アートとエンタメ 〜結婚はアート?笑〜

お伝えした通り僕は、
「ファッションでアートしたい」
と常々思っている。

しかし、同時に
「ファッションはただエンタメであってもいい」
とも実は少しだけ思っている。

エンタメとは、受け身にただ楽しめるもので、とにかくハッピーなもの。
最高だ。

しかし、エンタメには必ず飽きがくる。
それは相互のコミュニケーションではなく、一方的に楽しむ側面が強いからだ。
飽きがこないのならばTVは終わっていない。


いつも通り恋愛に例えるとより分かりやすいだろうか。
浮気性や恋愛体質と呼ばれる人たちは、
表層的な好みのアンテナを張って、オムニバス映画のように「刹那的な恋愛」という短編集をエンタメ的にさらっている。

飽き続けているのだ。

ゴルフでアウトサイドイン軌道を描いてしまうように、力強くとも、真っ直ぐ飛ばないモヤモヤを残しながら、我流で強引に振り続けること自体を楽しんでいるのだ。


そんなエンタメも悪くない。
けれど、勿体ない気もする。


インサイドインでスカッと真っ直ぐにゴルフの球を打ち出してみたくはないか…?
その技術の習得には、膨大な時間もお金もストレスもかかるかもしれない。
けれど、カップインという真理により近づくことができる。

結婚はどうだ…?
同じく、膨大な時間もお金もストレスもかかるかもしれない。
けれど、それ以上の喜びがきっとあるはずだ。
(結婚していないので超絶客観視)


そう考えると、
「愛し合う」というテーマは真理だろう。
世界のテーマ「LOVE&PEACE」だろう。笑

結婚は、
愛し合いたいという衝動を"相互の"契約として半永久的に強制する。
真理をその場に留め、媒介しているではないか…。


結婚はアートだ。(暴論)
(これはなんか言いたかっただけです笑)


とまあ、
アートとエンタメを対比した真意は、

アート=真理のための媒介
エンタメ=感情のための創作

と仮定して、
何をどちらに充てがうべきか。
という問題提起でもあるのだけれど…


皆さんは、
何でアートして、何でエンタメしているだろうか…?



Ⅲ.アートが媒介だと気づいた時、世界はヴィヴィッドになった。

そもそもこれをnoteにしたのは、
アーティストに憧れて、アーティストの脳内を必死にトレースしていた自分を俯瞰した時、
"Don't think. Feel"
という自己矛盾が発生していたからだ。


この時、
一種の諦めに似た感情が心の奥底に見え隠れしたと同時に、
人間という限界とその可能性が見えたのだ。

そして事もあろうに、天才アーティストと自分を本当の意味でフラットに捉えられたのだ。


要するにこれは、
アーティストもただの人間で、
生活の中で何かを"感受"し、それを"形"にしているのだから、より重要なのは"形"の完成度よりも、その"感受性"の方だということだ。

当たり前のことだけれど、
意外と意識できていないことのような気がする。


この気付きの重要性を語る上で、
今流行りの呪術廻戦の中で、東堂葵という僕の大好きなキャラがそれをいい感じ代弁してくれていたので紹介したい。


※以下単行本第5巻より抜粋

-「"目"より先に"手"が肥えることはない」-
-良し悪しを見抜く"目"を養わねば作品を生み出す"手"の成長は望めない
表現者の間でよく使われる文句-
-これはあらゆるジャンルに共通し
"目"の良い者の上達速度はそうでないもののそれを遥かに凌駕する-

(↑主人公虎杖の上達の早さを説明するところから始まったこのシーン、
先輩の東堂が虎杖に、[身体と呪力のスピードを合わせるコツ]というものを伝授した時の台詞↓)

「負の感情から捻出される呪力はヘソを起点に全身に流すのがセオリーだ
(しかし)
体を部位で分ける意識が呪力の遅れを生む
俺たちは腹でモノを考えるか?
頭で怒りを発露できるか?
いいか虎杖
俺たちは全身全霊で世界に存在している
当たり前過ぎて皆忘れてしまったことだ」
(一部省略)

これだけで主人公の虎杖は「なんとなく分かった」と理解に及んでいる。


呪術廻戦の面白さは後で誰かと語るとして、
このシーンで、
「イメージを体現するために当たり前を感受しろ」
と言い放った東堂とそれを瞬時に理解した虎杖に感服した。

ここでいう呪力のコントロールとは、NARUTOでいう仙人モードみたいなことなのだけれど、
世界(自然)を媒介することの力強さ
をまさに暗喩している。


最後に、

アートが媒介だと気付いて何がどう変わったのかを簡潔に言うと、
インプットの質が圧倒的に変わった。

五感が研ぎ澄まされて、空の青やコンクリートの匂い、都会の喧騒までもが身体中を駆け巡る感覚がある。

喜びや悲しみが立体的に頬を打ち、
世界の全てがヴィヴィッドに、とにかくエモーショナルに変貌する。

「これが感受するという体験か。」と、
小さい頃、当たり前に教授していたであろう新鮮さを再びアートが教えてくれる。

それは、
大人として、社会人として、理想の何かとして…
そんな自分を更新する上で、
心の片隅にそっとしまっておく必要のあった、柔らかくて純粋な"本当の自分"を、優しく指摘されるような恥ずかしくも温かい体験だ。


僕が愛するファッションというアートは、
そんな自分を隠すためのものと一見思われがちだけれど、

デニムに宿る反骨精神や、軍モノが纏う規律的イメージ、色や形の持つ感情などなど、、
服が持つ「世界」を見る"目"を養えば、
本質的に求めるファッションを介して"本当の自分"に出会うことができるかもしれない。

そんな本質的なコミュニケーションのために、
そして世界の美しさを共有するために、
今日も僕はファッションをアートしたいと思う。

皆さんはアートをどう考えているのだろうか…。
そんな話をまた誰かとゆっくりしたい。



それではまた、
一緒に世界を感じ、あなたに内在する真理を探し当てる日まで✋

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