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東京大学の学費値上げに反対します。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。

村上春樹 エルサレム賞受賞スピーチ『壁と卵』

 
先日、僕と同じ東大生が学費値上げに反対する文章を書いていた。

自分と同じようなことを感じていた学生がいることがとても嬉しかった。そして、決して金銭的に恵まれてきたとはいえない自分にも書く義務があると思った。

 僕は数年前まで住民税非課税の母子家庭で過ごしてきた。いまはJASSOから第一種貸与型奨学金、ある民間の奨学財団から給付型奨学金を受け取っている。入学時はJASSOの給付型奨学金(第Ⅰ区分)も受け取り授業料は全額免除だったが、親の収入がだんだんと上がり、とうとう半年前にそれらは対象外となった。それまで学費を払っていなかったので、「一年間は学費を払っているという実感を持ちながら大学に通ってみたい」という贅沢な考えで授業料免除の再申請はしていなかったのだが、家計のことを考えて、三年生の後期に再申請するつもりである。大学院にも進学する予定だ。たとえ学費が値上げしたとしても、留年しなければ奨学金のおかげで卒業できそうではあるが、今回の件は決して他人事ではない。

 僕が学費値上げに反対する理由は五つある(他にもあるといえばあるのだが)。最後の二章にも目を通してほしい。


反対理由

①情報格差

 現在の東大の学費は学部で53万5800円だが、値上げが実現すれば年間64万2960円まで上がり、在学中の四年間で計43万円の差が出る。この程度の値上げであれば問題ないと判断する家庭は多いだろうが、経済的に苦しい家庭はそうではない。
 ゆえに東大は奨学金や授業料減免の拡充をするという。では、そうした経済的支援を行えば、進学に支障はないと言い切れるだろうか。僕にはそうは思えない。
 奨学金や授業料減免を受けるためには、まずはじめにそれらが「存在する」という知識が必要であるそれらを知らないまま進学を諦めざるを得ない層が一定数いることを忘れてはいけない。
 
僕は高校三年生のとき親からはじめて奨学金と授業料減免の存在を知らされ申請をした。親に言われなければ知らなかった。受験期の高校生が奨学金や授業料減免を自ら調べることに期待するのは現実的ではない。調べないのは学生の自己責任だと言えるだろうか。僕はそもそも、奨学金や授業料減免について調べる必要がなくただ塾に行って勉強していればいい学生がいるのに対して、受験勉強の合間を縫ってそれらについて調べなければならない学生がいること自体が格差だと思う
 学生自身が調べない場合はその親が調べる必要がある。しかし、すべての親にその余裕があるわけではない。たとえばひとり親家庭の場合、家事と仕事をすべて一人でこなすことも多いだろう。そして、受験について話す親の集まりがあったとしても明日の生活のために諦めざるを得ないこともあるだろう。つまり、経済的支援について調べる時間的余裕もなければ経済的支援の存在を知る機会もない親が存在するのだ。子どものために調べる余裕のない親を責めることができるだろうか。確かに、僕の親のように、厳しい生活の中でも調べるために時間を割く親はいる。しかし、「厳しい生活の中で」調べなければならないのである。自分で調べたり他の親と交流したりする時間的余裕が十分に確保されていたり、そもそも経済的支援を受ける必要のない親がいる中で、仕事と家事の両立で眠い目をこすりながら調べなければならない親がいる。それも格差ではないか
 学生も親も情報を得ることができない場合、学費の数値をそのまま受け取り大学進学について考えることになる。現在の「53万5800円」という数字でも諦める人はいるだろう。ではそれが「64万2960円」となったらどうだろう。さらに進学を諦める人が現れるのは明らかではないだろうか。
 ここまでは階層間の情報格差について触れたが、都市と地方の情報格差も考えなければならない。一般に、東京圏と比べればそれ以外の地域の方が世帯年収は低いし、何より東大から遠い。つまり、地方に住んでいる高校生の方が東大進学を諦めやすい。経済的支援に関する情報は、果たして地方でも充実しているだろうか。地方から東大に進学する学生は東京圏に比べて少ない(東京圏出身の東大生が過半数を占める)。そもそも大学進学率そのものが低い地域もある。つまり地方では東京圏と比べて東大の情報を得る機会が少ないし、したがって東大にまつわる経済的支援についての情報を得る機会も少ないと予測できる。
 「経済的・時間的余裕がないこと」と「地方に住んでいて情報が少ないこと」が重なれば、それは「和の苦しみ」ではなく「積の苦しみ」になる。僕は東京圏の公立の進学校に進んだため、東大に関する情報はたくさんあったし、何より東大が家から近かった。もし地方に生まれていたら東大に来ることはなかったしこの文章を書くこともなかっただろう。東大当局は、低階層や地方出身であることが理由で東京圏の恵まれた家庭に生まれ育ってきた学生よりも何倍も進学が難しくなる学生がいるということを、果たしてわかっているのだろうか。
 そして、もし経済的支援の存在を知ることができたとしても、その手続きは煩雑である。親は必要書類を忙しい中用意しなければならないし、学生自身も分厚くて字の細かい書類を読んで申請しなければならない。そして世帯年収の具体的な数値もそのときに知り、将来が不安になる。一方で、その間に経済的支援を受ける必要のない学生は経済的な憂いなくどんどん自分の勉強を進める。受験に関する情報格差も不安の格差もここで生じるのだ。
 学費値上げそれ自体に関しても反対なのだが、むしろ「学費値上げしても奨学金や授業料減免の制度を拡充すれば影響は出ない」という「上」の人たちの安易な考えがとても危険だと感じる。

②学費を自分で払う学生の存在

 授業料減免を受けられない裕福な家庭であっても苦しい生活を送っている学生はいる。たとえば親が奨学金を借りさせてくれず(奨学金の書類には親しか持ってこれない書類もある)仕送りもない場合だ。そのような学生は現行の学費ですらギリギリの生活を送っている。ここに年10万円の値上げが加われば生活が壊滅してもおかしくない。
 貧困や家族仲の悪さは学生個人に帰属できない。それなのに学生がそれらを理由に「いつ大学生でなくなってしまうか」という不安に怯えながら生活しなければならないのは明らかにおかしい。大学はどのような場所であるべきだろうか。僕は、たとえ貧困でも家族仲が悪くてもそのような人を包摂するべき場所であるべきだと思う。なぜなら、大学が社会をつくりだす側面というものは必ずあって、大学がそのような人を排除すれば、社会もそのような人を排除するものに変質していく可能性があると思うからだ。大学に進学・在学できる人の属性はいかなる理由であれ狭めてはいけない。

③貸与型奨学金の返済+親の介護費用

 「奨学金を借りればいい」と簡単に言うけれど、貸与型奨学金はあくまで借金であって就職したら返さなければならない。特に、金銭的に苦しい家庭はたいてい、学生だけでなく親も苦しんでいる。そして、親が高齢になり介護が必要となったとしても老人ホームに行けず、子どもが介護をすることになる可能性がある。しかし、子どもにも子どもの人生があるわけで、介護と仕事、家事、場合によっては育児を両立することはとても苦しい。両立を諦め老人ホームに入れることもあるだろう。
 では、その老人ホームの費用は誰が払うのか。親が払えない場合、子どもが払うことになる。子どもが貸与型奨学金を返済し終わっていない場合、貸与型奨学金の返済と老人ホーム費用の支払いに追われることになる。
 
晩婚化・晩産化が進む現代社会、子どもが親の介護について考えはじめる年齢は早まっていると思う。現に僕は考えているし、周りの友だちにもどうするか考えている人は多い。貸与奨学金を多く借りている大学生の中には、返済に追われる未来を暗く捉えている人が多いと思う。そこに親の老後の費用の不安も重なればさらに未来を暗く捉えざるを得ない。このような状況では少子化もまったなしだ。
 貸与型奨学金は決して借りて得するものではない。借りないと損するものでしかない。奨学金を借りることは「いま」を前借りすることで未来の負担が確約されることであり、学生が未来を暗く捉えることになる一因でもある。東大は「学費が払えないなら奨学金を借りればいいじゃない」と簡単に言うけれど、こうしたことに考えが及んでいない。

④学費値上げの影響を受ける当事者の無力さ

 東大内では多くの人が学費値上げに反対しているが、学費値上げが適用されるのは「これから学部・院に入学する人」である。いま学部に所属していて院には行かないという学生は、学費値上げの影響を受けない。
 では、これから学費値上げが適用される層の学生たちは反対できるだろうか。僕を含め、いま学部生でこれから院に進学するつもりの学生は、学費値上げの影響を受ける可能性があるから反対することで声が届く可能性がある。しかし、これから学部に入学しようと考えている中高生は反対しても声が届かない。なぜならまだ東大に合格していないから。つまり、学費値上げを宣言したそのときすでに東大当局はほぼ勝ち逃げ状態となる。これはとてもずるいことだと思う。当事者の賛成意見と反対意見を踏まえた上でしっかりと説明・行動し学費値上げに踏み切るべきだが、現在は「本当に意見を聞くべき層」の意見を聞かずに学費値上げを実行しようとしている状態だ。

⑤機会の損失

 これはとても単純な話で、四年間で40万円値上げすれば、四年間でできるはずだった40万円分の経験ができないことになる。大学生にとっての40万円はとても大きい。これがあるだけで何ヶ月も生き長らえることができるし、学業に関係するものを買ったり、好きなものを買ったり、旅行したり、さまざまなことに使うことができる。何を経験するにもお金が必要となる現代社会で、40万円の損失は40万円分の思い出の損失にほぼ等しい。

志ある卓越−東大が卓越すべき壁−

 ある記事で、学費値上げに賛成する学生がその理由を次のように答えていた。
「インフレだから仕方ないんじゃないですか?賃金と物価の好循環という視点でいうと、今はその恩恵を受ける前の段階。数カ月後には見方も変わってくるのでは」
自分で学費を払ったり奨学金を借りたりしていたらこの意見は出ないだろうなと思った。この際、マクロな「正しい」意見は意味をなさない。マクロな視点ではこぼれ落ちてしまうようなミクロなものに焦点を当てるべきだ。

 東大はダイバーシティ・インクルージョン宣言を2022年に制定している。そこでは「ダイバーシティの尊重」と「インクルージョンの推進」が掲げられ、その属性によって東大構成員を差別せず包摂することが明文化されている。
 果たしてこれは達成されているだろうか。たとえば、東大の男女比は8:2である。東大生であれば誰もがこれは異常なことだと思っている。しかし、世帯年収の低い学生が何%を占めているのか知っている東大生は多くない。親の年収が950万円以上である割合が過半数を占めることが異常だと捉えている東大生は多くない。「海外の大学はもっと学費が高いから」「海外はもっと格差がひどいから」と言って日本で苦しむ当事者にとってはまったく救いにならない相対化をする学生さえいる。東大はジェンダー、民族、地域格差、バリアフリー等に対する取り組みを積極的に進めていて、それ自体はとてもいいこと、というか当たり前にやらなければならないこと(それでも大幅には改善していない)なのだが、社会階層が話題に上がることは少ない。

 東大のキャッチコピーは「志ある卓越」である。数年前にある学生が応募したもので、これ自体はとてもいい言葉だ。

東大は、越えていく。
国境を、分野の垣根を、文化や立場の違いを。
あらゆるギャップを越えた先で生まれる多様性が、
世界の知を、さまざまな角度から磨き上げる。

東京大学キャッチコピー 「志ある卓越。」

「東大は、越えていく」ではなく「東大は、肥えていく」の間違いかと思ったが一旦それは置いておくとして(実際には10万円値上げしたところで東大の予算は1%ほどしか増えない。それに対して10万円の値上げによって壊滅的な被害を受ける学生がいる)。
 僕は「②学費を自分で払う学生の存在」で、「大学が社会をつくりだす側面というものは必ずあって、大学がそのような人を排除すれば、社会もそのような人を排除するものに変質していく可能性があると書いたが、それと同じような考えはここにも公式に示されている。あらゆる属性の違いを乗り越えた先にある大学生の多様性は、学問におけるものの見方の多様性につながる。学問だけではない。東大は社会を引っ張っていく立場の人間を多く輩出するわけだから、社会の変革の多様性につながるといっても過言ではないと思う。恵まれた人ばかりが官僚になっていたら恵まれていない人はどんどん生きづらくなる。恵まれた人ばかりが東大の上層部にいたら、たとえば安易な学費値上げによって、恵まれていない学生はどんどん生きづらくなる。「志ある卓越」ということばは心なしか、「国境」や「民族」などについて多用される気がする。それは、国境や民族の境目が、言語や外見や物理的距離によって判断しやすいからだ。しかし、本当に超えるべき壁はそれだけだろうか。「あらゆるギャップを越えた先」。東大は越えられているだろうか、学生と上層部のギャップを。恵まれた層と恵まれていない層のギャップを。目には見えない壁が見えているだろうか。
 東大が恵まれた人しか入れない大学になったらどうなるだろう。東大卒は一般に平均年収より稼ぐわけだから、結局恵まれつづけることになる。つまり、「すでに恵まれている人は恵まれたままで、そうでない人はそうでないまま」という格差の固定と再生産がさらに進んでしまう。これはれっきとした「壁」だ。生まれながらにして存在する「つねにすでに」越えられない壁だ。これはとても残酷なことだ。学費値上げは、壁を卓越しようとしている東大がかえって壁(断絶)をつくりだす契機になる可能性がある。東大は壁を乗り越えるために必要なことが何かわかっているだろうか。

さいごに

 先日、バイト終わりに学内の年一万円のジムへ行くために、日の暮れた安田講堂の前を通った。そこでは、「学費値上げ反対」とマイクを持って演説する学生たちがいた。ジムで飲むために、安田講堂裏のローソンへ飲み物を買いに行ったら、そこにはポルシェのような高級車が停まっており、警備員が二人立っていた。このあとはおそらく総長かそこらの「上」の人たちが安田講堂から出てきて、警備員に「守られながら」、高級車に乗り込んでいくのだろうと思った。その光景は一種のメタファーだった。学費値上げ反対を唱える学生と、守られて高級車に乗る「上」の人間とのあいだに、「超えられない壁」として、来年で建設から100年を迎える安田講堂がただ立ちはだかっていたのだ。

 学費値上げを検討している「上」の人たちは、日本の大学の学費のために奨学金を受け取ったことがあるだろうか。奨学金や学費免除の申請がいかに面倒くさいか、自分は下流階級であるというつねにすでに変えることのできない残酷な事実が、手続きを通していかに深く心に刻まれていくか、わかっているだろうか。高校三年生でのはじめての奨学金の手続きのとき、親の年収を見て、いかに自分と親の未来が暗いか痛感させられたかわかるだろうか。受験勉強に励む友だちの横で、泣きそうになりながら奨学金の応募用紙に自分の家庭の苦しさについて書き込んだことがあるだろうか。親に「お前のためにお金をドブに捨てたくない」と言われたことがあるだろうか。お金のなさがいかに人を狂わせるか、知識として知っているだけでなく実感として「わかっている」だろうか。経済的な問題は経済的な問題だけではないことがわかっているだろうか。なぜ自分はこんな環境で生きてこなければならなかったのかと悩み、親を恨んだことがあるだろうか。私立の大学を受ける費用がなく東大だけを受験し、浪人する費用もないから「東大に落ちたら死のう」と考えたことがあるだろうか。受かったあとも、周りの恵まれた家庭で過ごしてきた東大生を見ていかに卑屈になるか、いかにさらに深く自分は下流階級であるという烙印が押されていくか、わかっているだろうか。東大は家庭環境も悪くお金もないような自分が行くべき場所ではないと感じたことはあるだろうか。これは僕だけの話ではない。僕と同じような学生は東大にたくさんいて、それぞれ普段は語れずとも個別の多様な苦しみを抱えているということが、果たしてわかっているだろうか。これは東大だけの話ではない。僕らと同じような学生は日本にたくさんいて、日本を代表する大学である東大がそれを無視すれば、全国の学生が苦しんだままとなることがわかっているだろうか。
 
 「学費値上げの検討」、およびその「代わり」として甘い思考で生み出された「学費減免措置の拡充」は、「上」の人たちの、社会階層の低い人々に対する「想像力、共感力、理解力、対話力の完全たる欠如」の結果であり、したがって僕は、東京大学の学費値上げに反対します。
 
 


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