★【酔筆素読#11】カタルシスと“超”カタルシス


カタルシス


カタルシス・・・「舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること。浄化」(Oxford Languageより)

ざっくり言ってしまうと、悲劇を見ることで、快感を得るということです。

おそらく、悲劇(特に舞台という、フィクション)は実際には起こらないほど悲惨なことで、その「あり得なさ」「現実味のなさ」が悲劇以外の物語を見たときの面白さ、感動に近いものを感じさせるのでしょう。
特に悲劇においては、しばしば人が死んだり、街が破壊されたりといったように、現実に起こってしまってはそれはそれは大変な、あまりに悲しすぎる出来事が起こります。死とは現実において究極。一度起きてしまえば二度とは起こらないこと。破壊も同じようなものです(というより、死は生の破壊)。
言い換えれば、1以上のものが0になる、その強烈な出来事の結果と過程は、人間の経験するものの中でも一際重大なものです。

この、現実に起きては受け止めきれないような重大な出来事を、フィクションの味付けとして、非常に濃い味付けとすることで、フィクションの面白さを格段に高めていると言えるでしょう。

二次創作において、既に存在する版権作品のキャラクターを、元ネタのストーリーでは死なないながらも書き手の物語の中で死亡させるという「死ネタ」なるものもあり、生きるものの生を止めることというものは、人を惹きつけてやまないことを証明していると言えるでしょう。しかし「死ネタ」は人を選ぶものであり、その出来事の重大さというものは、受け止めるにも一苦労のようです。

私がアニメオタクになった要因の一つに、『ひぐらしのなく頃に』という作品があります(先日のnoteでは、このひぐらしの最新作を元にした記事を書かせていただきました)。もっとも今では三次元の方に重きを置いておりますが…

YouTubeのネットサーフィンをしていて、当時衝撃を受けたのがこのシーンです。

あえて、なぜこんな描写が生まれたのかという文脈を抜きに、この映像だけ見ることで、その異常さがわかるというものでしょう。実際私はそうでした。

ちなみに、ひぐらしはただ殺し合いをするだけの作品ではないのであしからず。

他に殺人・殺戮・死亡シーンが多いアニメといえば、Anotherなんかは人がポンポン死んでいくし、幼女戦記なら国(だっけ?)を滅ぼすし、まどマギならそんな雰囲気見せていないところでいきなりキャラが斬首されたりするなど見ていましたが、よくよく考えたら殺戮に関わるシーンといえば、大抵が女の子が殺す、もしくは死亡するものが多い気もします。GUNSLINGERGIRL.もオタクになるきっかけを作ってくれた作品です。これについても一本記事書きたいなぁ。

女の子と死、この組み合わせは何か人を惹きつけるものでもあるのでしょうか?これだけで一つ、議論の余地がありそうです。フィクション内での殺戮というサディスティックの延長が、マゾヒスト視聴者の興奮を呼び起こすということなんですかね。

さて、死という要素によって、視聴者に圧倒的な快感を与えるカタルシスを与えることができます。しかし、私がここで語りたいのは、このカタルシスを超えた、“超”カタルシスです。


超カタルシス


大学生の頃、『怒り』という映画を見に行きました。

詳しい内容は書きませんが、なかなか衝撃的なものでした。他の作品で例えるなら、『告白』と近いでしょうか?

小説でいうところの「イヤミス」のように、後味が悪い、すっきりしない感じです。

観終わった後の絶望感、自分の力ではどうすることも出来ない無力感、虚無感、豊かな感情や喜び、ポジティブな感情で埋め尽くされた心を焼夷弾で殲滅させたような焦土感。超カタルシスでは、圧倒的な悲劇によって快感を生み出すことなく、ただ悲劇をそのままに受け止める、いやむしろ快感を生み出す悲劇を通り越して、許容範囲を通り越した感情を溢れさせることになります。

2013年公開の、魔法少女まどか☆マギカの劇場版『新編 叛逆の物語』公開時、監督の新房昭之が「心を強く持って」と言ったのも、この超カタルシス並の展開をよく表してると言えます。


前述した「豊かな感情や喜び、ポジティブな感情で埋め尽くされた心を焼夷弾で殲滅させたような焦土感」というのは、人間が持つべき幸福感の元になるステキな感情、望ましい感情を、戦争のごとく蹂躙する。人間誰しも持つことを期待し、期待される感じ方を踏みにじられるかつてない、予想だにしない経験。また、ハッピーエンドが当たり前で、観終わった後は気持ち良くなるであろうと思っていた視聴者の心を握りつぶすという行為そのもの。これが超カタルシスであると、私は位置付けています。

しかし、あくまでもフィクションであり、その激烈な表現手法とストーリーは、通常のカタルシスよりもさらに印象的で、「フィクションしている」とも言えます。また、その予想不可能性からして、基本的には斬新なお話となり、作品としての面白さにもつながるのではないかと思います。


この記事を通して何を伝えたかったか

私がこの記事を通して伝えたかったことは、2つあります。1つは超カタルシスという、これまでに言語化されていなかった概念を説明することです。もちろん説明は非常に簡潔で、定義なども緩いので、隙の多いものになっているのは否めません。

しかし、この超カタルシスという、快感を与えてくれるであろうという読み手、視聴者の期待を裏切るという手法を、豊富な表現手段の一つとして確立させるべきだという気持ちがあり、表してみました。そしてこれこそが、2つ目の目的です。

芸術とは人々を幸せにするためだけに存在するに非ず、中には見た人全員が不快になる、そんな芸術もあっていいのではないかと思っています。それが、表現の自由の多様性を担保する余地だからです。
表現とは、全て自由に出せるようにし、出した後で批判や議論を行うべきです。最初から一部の表現を封印してはなりません。それをしたら、際限なく封印できるようになってしまう=表現の自由をいくらでも狭めることができてしまいます。

この記事が、その危機感に一石を投じるものになればいいなと思います。



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