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自分を疑う。

悟りとは 悟らで悟る 悟りなり
悟る悟りは 夢の悟りぞ

詠み人知らず(古歌)

 以前文章を書いたとき、近いうちに「自分を客観的に見る方法」についても書こうと思ったのですが、長い間放置していました。最近ようやく重い腰を上げて書きはじめたのですが、少し内容が膨らんでしまいました。私のように議論やら小難しい話が苦手な人に向けて書いています。

1 自分を疑う、ということ

 自分は、かなり頭の回転は遅いほうで、物事を深く考えるのに時間がかかる上、素早い判断も苦手で、他人の意見に流されやすい所もあるので、若い頃からカルト・オカルト・セクト的なものにハマりそうになったり、詐欺に引っかかりそうになったり、デマを信じそうになったりしてきて、それでも本格的にヤバい事にならなかったのは、単に運が良かったんだと思っています。そんな経験から「自分の持っている知識や、自分の意見・主張・行動が、間違っているかもしれない」という「自分を疑う事」の大切さは学んだ気がするのです。

 もちろん「これで正しい」と思っていないと何も行動できないわけですけど、その「正しさ」は あくまで暫定的なもので、「正しさ」を疑う回路というかセンサーのようなものを心の隅のほうに設置しておいて、時々起動できるようにしておいたほうが良いと思うのです。自分の心の中心部分にある性格とか根本的な価値観は変わらないし変えるつもりも特に無いですが、もう少し表面寄りの部分、知識とか認識とか「ものの見方」のような部分は、ある程度柔軟に増やしたり変えたりできるようにしておきたいのです。

 「右足を出して左足出すと 歩ける」とか「人間に危害を加えてはならない」みたいな基本的でシンプルな知識や行動規範は ほぼ確実に正しいですけれど、もう少し複雑な「効果的なダイエット方法」とか「日米安全保障条約の是非」みたいな事柄は、自分自身の浅い経験と知識だけで結論を出すのは難しいわけです。考える事柄が複雑になればなるほど、色々な知識や考察が必要になり、他人が発信する情報や意見を見聞きし消化して自分に取り入れていくことになるのですが、そこに間違った情報や判断の誤りが入り込む可能性が生じます。

 ツイッターを始めとするネット上のツールは、様々な情報や意見に簡単に触れることができ、「自分を疑う」ための便利な道具となりますが、その反面下手な使い方をすると、むしろ逆効果になってしまう為注意が必要です。この文章では、自分の「間違い」の訂正をしつつ新しい知識や視点、より良い考えを取り入れていく上で(主にネットを使う上で)自分なりに工夫している事を紹介したいと思います。もちろんこれも現時点での私のやり方ですので、今後改善できるところが見つかれば変わっていく可能性も有りますが、その前に「正しい」という言葉について説明しておきます。

2 そもそも「正しい」とは何か

 「正しい」ってかなり曖昧な言葉ですが、この文章では大きく分けて2つの意味で使っています。まず一つ目の意味が「目的を実現するための手段としての正しさ」です。以下の3つがこれにあたります。

「事実」
 不正確な情報・虚偽ではない。正確な情報・事実である。嘘をつかない、嘘を信じない、という事です。何を考えるにも何を行うにも、まず事実を元にする必要があります。

(参照ー備考1 事実の取り扱い)

「論理的」
 事実を並べて説明している。前提された事件や事情から正しく推論している。分かっている事柄から、筋道を立てて物事を考えている。理屈に合っている。主張の根拠が明示されている。主張に矛盾が無く一貫性があり、相手によって判断基準を変えたりせず、詭弁ではない、という事もここに含みます。     
 私のような者にはこれがなかなか難しく、屁理屈・詭弁の類に気づけない事も有ります。この文章自体も、さほど論理的とは言い難いかもしれません。まだまだ修行が足りません。しかし後述の本題が、ある程度論理的に考えるための手助けになると思っています。

「合理的」
 目的を達成するために妥当で適切な手段である。やり方が合っている。風習や迷信にとらわれずに道理に合っており、目的にかなっていて余計なものがない、ということです。

(参照ー備考2 一見、無駄に見えるもの)

 これらは あくまで手段であり、必要無い場合も有ります。エイプリルフールの冗談は「事実」ではありませんし、料理評論家やプロの料理人以外の人がラーメンの美味しさを「論理的」に説明する必要はないですし、遠足の前日 てるてる坊主を軒下に吊す事は「合理的」ではないですが、何の問題も無いでしょう。「噓」や「直感」や「感情」や「無駄」を排除することが目的化してしまうと、逆に本来の目的の達成を阻害することにつながります。しかし次に述べる「目的」を達成するためには(特に「政治的」と呼ばれる領域においては)これらの「手段としての正しさ」が土台となってきます。

 二つ目の意味が「目的としての正しさ」です。こちらが達成できるのであれば、一つ目の意味での「正しさ」は必ずしも必要ではありません。

 それは「人権(個人の自由・精神と身体と財産の安全)の擁護」つまり「言動・仕組み・制度が誰かに対する加害・抑圧・人権侵害を引き起こしたり、災害・紛争・事故・病気による被害や貧困を発生・増加させたりするものではない事、あるいはそれらの発生を予防・減少させる、または被害を救済するものである事」です。(動物愛護や環境保護、文化財の保全等については少し複雑になるのでとりあえず言及しませんが、ここに含まれると思っています)言い換えれば、「全ての個人の不幸を最少化し幸福を最大化するよう公正な調整が行われるようにすること、あるいはそれを妨害しないこと」です。すべての人は、誰かに危害を加えない範囲で自分の好きなように生きる事ができる。誰からも危害を加えられず余計な干渉を受けず幸福に生きられる。その状態を社会全体で成立させ、維持する。以上が、私が今まで生きてきた中で到達した、(現時点で)「正しい」と思っている事です。

(参照ー備考3 いわゆる「トロッコ問題」について)

 逆に、人権を守る事以外の「正しさ」について私はかなり懐疑的です。「倫理的」とか「健全」とか「道徳的」とか「愛国心」といった言葉を使って他人に自分の「正しい」価値観を押し付け特定の行動を強要したり妨害したりする事は、前述した正しさとは真逆の態度であると思います。

 「なぜ人権を守る事が正しいと思うのか」「なぜそうしなければならないのか」と言われれば、突き詰めて言えば「自分がそう思うから」「自分がそうしたいから」ということです。当たり前過ぎて何も言ってないのと同じですね。これ以上は哲学の領域の話になって来ますが、そこまで遡った話をする必要性は感じていません。そういう質問をしてくる人が本気で人権を守る必要が無いと考えているのであれば、その人は他人に危害を加える可能性が高いので関わらないほうが良いですし、本当はそう思っていないのにそんな質問をしてくるのであれば、単なる嫌がらせなので、やはり関わらないほうが良いでしょう。

3 誰をフォローするか

 それでは本題に入ります。例えばツイッターのリスト機能を使ってフォローしている人を「趣味」「政治」「飲み仲間」のような形でグループ分けし、それぞれのタイムラインを見比べてみると、びっくりするほど違いがあるのが分かります。まるで別の国で生きているかのような違いです。誰をフォローするかによって見える世界が全く違うことを実感できます。自分がフォローした人達の間だけでもこの差なのですから、自分がフォローしようと思わないような人達のタイムラインなどは別次元の世界のような有様なのは想像に難くないです。

 人と人は、価値観・意見・思想・信仰から趣味・センスのようなものまで、自分と近かったり、かけ離れていたりしますが、それらをまとめて、自分と他人との「脳内の共通点」が多いか少ないかをここでは「シンクロ率」という言葉で表したいと思います。気になったツイートが有ったら、その人のプロフィールを見てタイムラインをある程度遡ってみれば、大体どの程度のシンクロ率か判ります。

 シンクロ率90パーセントを越えるような「お前は俺か」みたいな感じに気が合う人は、とても頼もしく大切な存在なのですが、そういう人ばかりをフォローしていると、自分が欲しい情報や見たい意見ばかりが表示され(ストレス無く非常に快適ではあるのですが)自分と異なる意見やものの見方、知らない情報などに触れる機会が大幅に減ってしまい、「自分を疑うこと」についてはあまり役には立ちません。これはいわゆる「エコーチェンバー」や「サイバーカスケード」が起こりやすい環境ですね。

 逆にシンクロ率50%を下回るような人ばかりをフォローしてみても、自分と異なる意見や見方・自分の知らない情報・自分の知識と矛盾する情報などに触れる事は確かに増えますが、自分にとって有用な情報の割合はさほど高くはなく効率が悪いですし、不快な情報や発言が多くなるので、なによりストレスが溜り長続きしません。

 人間は(少なくとも私は)結構、理性や理屈・論理よりも感情・気分によってほぼ無意識のうちに行動が決まる部分が多いので、シンクロ率が低すぎる人、つまり自分と価値観が違いすぎる人や大嫌いなタイプの人が何か言っていても「どうせ また ろくでもない事だろう」と感じてしまい(仮にそれが正しい事だったとしても)真剣に聞く気が起きません。

(参照ー備考4 誰が言っているのか)

 そこで私は少なくとも「合わない部分よりも合う部分の方が多い人」つまりシンクロ率60%程度以上の人をフォローするようにしていますが、「自分を疑う」ために有り難い存在は、シンクロ率70〜80%くらい、特に「50%=半分くらいしか意見が合わない人」と「100%=完全に意見が合う人」のちょうど中間、75%前後の「かなり自分と近い感覚や考え方だけど、違う部分もそれなりに有る」という人です。その人のツイート・リツイート10件の内、自分と異なる意見・自分にとって心地良くない話題・自分には興味のない情報が2〜3件程度になる人という事です。(純粋に趣味に関する話題等で、その人の意見や価値観を含まないツイートはカウントから除外したほうが良いかもしれません)自分には無い知識・意見・視点がいくつもあるけれど基本的には自分と似ている部分が多いので「あの人が言っているなら、そうなのかもしれないぞ?」という感じで異なる意見や情報に対し聞く耳を持つ態度になりやすいのです。

 全フォロイー中に占めるシンクロ率75%前後の人の割合をなるべく増やすのが、自分の考えを深めるために有効だと思っています。(私の場合「自分を疑う事を意識している」がシンクロ率に含まれるわけですから、シンクロ率が非常に高い人だけをフォローしたとしても、ある程度はチェック機能が自動的に働くのですが)メインのタイムラインとは別に、自分を疑うために敢えてシンクロ率やや低めのリストを作成しておいて時々チェックする、というのも良いかもしれませんね。私は幾つかのクラスタ(同じ趣味や思考を持つ人々の集合体)別のリスト(当然各リスト毎のシンクロ率は異なる)を作成して使い分けています。例えば、普段なるべく複数のリストに目を通すけれど休日や疲れている時はストレスから開放されたいのでシンクロ率が最高のリストしか見ない、というようにしています。

4 自分に取り入れる前に

 誰をフォローするかの方向性が決まったら次の段階です。自分に情報を取り入れる際、その情報が間違っていないかチェックをします。ここで弾く事ができればベストです。パソコンに例えれば、アプリをダウンロードする際にセキュリティソフトがウィルスチェックをするようなイメージですね。

 まず、タイムライン上に相互に矛盾する情報や相反する意見が流れてきたら、まさに「自動的なチェック機能」が働いているという事です。前項で説明したように、フォロイー全体のシンクロ率が上がり過ぎないよう気をつけていれば、こういう事が起こりやすくなる訳です。少なくともどちらか一方は間違っているわけですから(「どちらも間違っている」とか「どちらの言い分にもそれぞれ一理有る」みたいな事も有ります)双方の言っている事を比較しながらその話題について慎重に考える事ができます。

 次に、新しい情報が流れてきた時、他に矛盾する情報がタイムライン上に見当たらない場合。特にセンセーショナルな情報の場合は自分の感情が揺さぶられ、すぐに信じたり何か反応したりしてしまいがちですが、(可能なら、とりあえずイイネかブックマークだけしておいて一日程寝かせておいてから)そのツイートに付いているリプライ10件程度に目を通します。もし内容に誤りや矛盾が有れば、たいがい誰かが指摘や反論をしているので間違いに気付きます。あとはツイート内に記事等へのリンクがあれば必ずリンク先の内容を確認するようにします。特にリツイートをする場合は事前にこれをやっておかないと、自分がデマの拡散に加担してしまう事にもなりかねません。

5 自分の中に有るものを

 最後に、すでに自分の中に有る知識や意見について問題がないかチェックをします。これはハードディスクのウィルススキャンをするようなイメージですね。

 今、気になっている事柄について、まず自分がその話題や関連する言葉をちゃんと理解しているかどうかを確認します。意味を良く理解していない言葉を使っていないか。理解できていない状態で知ったかぶりをしていないか。あやふやなもの、正確ではないものを積み上げていっても、正しい結論には至らず、いずれ崩壊します。

 まずは非常にシンプルな事ですが、その言葉を検索します。ネットで調べものをする際のコツや注意点などは私が説明するまでもないとは思いますが、軽く触れておきます。

 煽るようなタイトルで閲覧数(広告収入)を稼ぐ「まとめサイト」「まとめ動画」の情報を鵜呑みにしないのは大前提です。Wikipediaに書かれている事が全て正しい訳でもありません。特に私のように他人の意見に流されやすいタイプの人は、一つの情報源に頼らず、複数の情報源、複数の意見(なるべく正反対の情報や意見を含むもの・最低でも3つの情報源)を比較する事が、正しく理解・判断するのに役立ちます。その言葉単体で検索するだけでなく、他の言葉、例えば「科学的根拠」「デマ」「デメリット」「問題点」「危険性」といった懐疑的な言葉と一緒に検索すると、異なる視点の記事が見つかりやすくなります。

 次に「その言葉や話題を知らない人に自分の言葉でそれを解りやすく説明できるか」というのが、自分の理解度を測る基準になると思います。それには まず説明したい事を文章にしてみる事です。言語化し文章にまとめる事によって頭の中で曖昧だったものが明確になり、自分の考えが整理されて来ます。その過程で自分の理解不足や考えの浅さ、間違いに気づく事も多いです。

(参照ー備考5 解りやすいということ)

 さらに、仮に自分の中に有る知識が全て正しいものだったとしても、知識の量や種類が何かの結論を導き出すために充分であるとは限らないものです。「自分の知っていることは世界の一部だけを切り取ったものだ」ということは常に意識していたいと思います。

6 まとめ

 「自分を疑う事ができる」=「自分の知識や常識や価値観をアップデートする姿勢がある」という事です。「自分を疑う」とは何よりも「自分や自分の所属している集団が、気づかないうちに誰かに危害を及ぼしていないか確認する」という事です。「他人を殴る」みたいな直接的な暴力なら分かり易いですが、「マイノリティを差別している」とか「法律が一部の人にとって不利にできている」というような事に気付かないことは有るのではないでしょうか。例えば自分でも、若い頃の自分の言動で今思えば「あれは完全にセクハラだった」と言える事がいくつも有ります。

 自分が誰かに危害を加えていないかを確認し、危害を加えないようにするにはどうすれば良いか考える。これは同時に、自分や自分の大切な人が被害を受けていないか確認し、被害を受けないようにするにはどうすれば良いか考える事でもあります。自分が被害者にならないようにするとともに、加害者にもならないようにする、そのために自分をアップデートし続ける、という事です。

 そして個人をアップデートすることは、社会をアップデートする土台となります。人間は神ではないので不完全な存在であり、その不完全な存在が寄り集まって成り立っている「民主主義」とか「国家」とか「社会」とか「世界」という大きなシステムが完全であるわけがありません。それでも人々はその中で日々生きていかなければならないのですから、少しずつ、永遠に、より「マシ」なほうへ更新していくしかないのだろうと思っています。社会のアップデートを疎かにしていたら、女性に参政権は有りませんし、黒人は奴隷のままです。昔はそれが「常識」で「正しい事」だったのです。そういった理不尽の固定化を防ぐために、軌道修正・微調整を社会全体で永遠に続けるという事です。

(参照ー備考6 変革の手段について)

 「自分さえ良ければ、他人とか国とか社会とかどうでもいいし」っていう人もいると思います。私自身、わがままで自分の事しか愛していないような人間ですが、一人で生きていくことは現代社会では不可能です。どんな暮らしをするにも「自分以外の誰か」が生産・提供するサービス・製品を必要とする訳ですから、その膨大な数の「誰か」が安定した品質で生産を継続できるような状態、つまり皆が「健康で文化的な生活」を営める状態を維持しなければ、長期的には(自分の子や孫の世代の事まで考えるなら特に)自分と仲間の幸福の質もどんどん低下していくでしょう。つまり、仮に自分の幸福だけを追求するとしても、結局は自分以外の人間もそれなりに幸福な状態が望ましい、という事になります。

 「とりあえず自分が生きている間だけ自分が楽しくやれれば良いから、そのために他の連中をいくらでも犠牲にしてやる」という「北斗の拳」のザコキャラ的な生き方の人間も居ます。その手段として違法な事をすれば「犯罪者」ですし、法には触れない形で(あるいは法を改変して)目的を達成している人間は政治家や財界人やその周辺に沢山居ますね。一部の人間が多くの人を虐げて甘い蜜を吸い続ければ、徐々に国は貧しくなり、社会の治安は悪くなり、いずれ自分がテロや暴動、革命の標的となり全てを失う事になるかもしれませんし、そうならなくても、つねに心の隅で何かに怯えながら暮らすことになるでしょう。それでもそういった生き方を選ぶ人、他人を踏み躙る事に良心の呵責も復讐される恐怖も感じない人は居るでしょうが、私は違います。

(参照ー備考7 自分と「悪人」の間)

 私的な領域と公的な領域、「個人」と「社会」は分けて考える必要があります。知らない人の事よりも、まず何より「個人」つまり自分自身と、自分の大切な存在(家族等)を守る事を優先させるのは、おそらく人間として自然な事でしょう。(もちろん、赤の他人の為に自分を犠牲にする行いを否定しませんし、そうゆう事ができる人は尊敬します)しかし人間の「社会」において、特に現代の世界において一番巨大かつ強力な枠組である「国家」の構成要素、立法・司法・行政各機関は、少なくともその国で生きる全ての人を公正に(特定の誰かを恣意的に優遇したり虐げたりする事無く)守る(人権を保障する)必要があります。人々の生活に最も影響を与える国家等の「権力」は、世界の歴史を見れば明らかなように放っておけば確実に腐敗・暴走し、権力に近い一部の人間を優遇し、多くの個人の人権を侵害し始めます。個人の自由は、まず国家(権力)からの自由が基本となります。

 まずは「個人」として、自分と自分の大切な存在を守る(心身の健康と安全、生活の安定を確保する)事。自分にある程度の余裕(気力・体力・お金・時間等)が生まれれば、身近に困っている人が居た時に助ける事もできます。逆に言えば、自分に余裕が無いと、他人の事など気にしていられません。

 次に「社会」を構成する一人として、公的権力が法の制定・改定・その行使によって人権の保護と公正な利害の調整を行っているかを監視し、問題が有れば改善されるよう、(自分のできる範囲で)投票・陳情・募金・署名・デモ・集会・SNSでの発言等で政治や社会に働きかけていく事。

 これら、私的な行動と公的な行動は、どちらも必要であり、並行して行う必要があります。前述したように、「個人」の生活が成り立たない状態では「社会」に関わっていられませんし、「社会」が機能していなければ、「個人」の生活が成り立たなくなっていきます。ロシアや北朝鮮、戦前戦中の日本のように、政治の腐敗・独裁・全体主義などで国家が正常に機能しなくなれば、自国や他国に住む人々の人権がどんどん侵害されていきます。個人の生活も脅かされ、権力に抗議することも許されなくなっていきます。社会が腐ってからでは遅いのです。(私には、既に日本は半分くらい腐っているように思えます)

 どの程度「社会」に働きかけられるかは、その人の置かれている環境(家計の状況・健康状態・障害の有無・居住地域・年齢・子供や要介護者の有無など)によって違います。しかし「社会に関わろうとする意思」は誰でも持つ事ができます。そして、多くの人が「自分を疑う」=「自分の知識や常識や価値観をアップデートする姿勢を持つ」ことが、自分と社会を守る土台となる、と私は考えています。

 自分も他人も過信せず、自分が変わる事を厭わず、善き事は学び、悪しき事を見ては我が振りを直す。自分は、なるべく そうありたいですし、なるべく そういう人と関わりたいと思っています。


(備考1) 事実の取り扱い

 自分に都合の悪い事実を伏せ、都合の良い事実だけを組み合わせて説明し、他人を特定の結論に誘導する事が可能だ、という事は意識しておく必要があります。正四角錐を真下から見せて正方形に見せかけたり、円柱を長方形だと思わせたり円だと思わせたりする事もできます。「間違った事は言ってない」事が「正しい事を言っている」事になるとは限らないのです。

(備考2) 一見、無駄に見えるもの

 たとえば「国会議員の数が多すぎるので減らすべき」などと言う主張をしばしば耳にします。国会中に昼寝をしている議員の映像を見たりすると「税金の無駄だから」と賛同しがちですが、議員定数が減らされても昼寝議員が落選するようになるわけでは有りませんし、議員の全体数が少なくなれば政治に少数意見が反映されなくなり民主主義にとって大きなマイナスです。消防・救急・警察・軍隊などの組織は、平時にあまり必要にならないからといって人員や装備を減らし過ぎると、有事の際に取り返しが付かない事になるのは解りやすいですね。(もちろん際限なく増やせば良いというものでもありません)どんな組織にも大なり小なり同じ事が言えます。
 学校教育の内容についてもそうですね。「大人になって役に立たない〇〇など教える必要はない。そんな事より実利的な□□を教えろ」などという主張を聞いた事はないでしょうか。しかし、直接役に立たない知識が、間接的に個人や社会にとって重要な役割を果たす事は多いのではないでしょうか。
 それが本当に無駄なのかは、広い視野で見てみる必要があります。

(備考3) いわゆる「トロッコ問題」について

 個人の人権を守る上で、複数の人々の間で権利・利害が衝突する場合も、時として発生するかもしれません。その際によく持ち出される「トロッコ問題」と呼ばれる例え話があります。要約すれば、「君が何もしなければ5人が死ぬが、君がスイッチを押せば5人が助かるかわりに別の1人が死ぬ。スイッチを押すか否か、どちらかを選べ」という話です。しかし、このような「究極の選択」は、思考実験かフィクションの中ならともかく、現実においては「本当にそれ以外の選択肢が無い」ということは、ほとんど無いのではないでしょうか。むしろ、他の選択肢が有る事に気づく前に特定の選択肢を選ぶよう誘導(特にマイノリティの人権を蔑ろにする方向に)されている事を疑ったほうが良いと思います。何か問題が生じたら、その都度、様々な状況を考慮し色々な可能性を想定した上で自分が最善だと思える結論を導き出すしかないと思います。

(備考4) 誰が言っているのか

 よく「誰が言っているか、ではなく、何を言っているかを見ろ」というような事が言われますし、それは確かにその通りではあります。「あの人が言っているのだから正しいに違いない」と鵜呑みにしたり、「あんな奴が言ってるんだから間違いだろう」と決めつけたりするのは危険です。著名な学者が、自分の専門外のことについては非常にいい加減な事を言っていたり、逆に普段は良識的で鋭い意見を言っている人が、特定の領域に関する事だけ偏見に満ちた発言をしたり、などという事も有ります。言っている事が常に正しい人や、言っている事が常に間違っている人というのは稀です。誰でも間違う可能性は有りますし、その逆も然りです。

 重要なのは、デマ拡散や失言等、自分の間違いや過ちを指摘された時どうするか、です。速やかに発言の訂正や反省・謝罪を行う人と、指摘を無視して同じ事を繰り返す人では、当然前者のほうが信頼できますし、後者のような人をフォローしていれば、タイムライン全体の情報精度はどんどん落ちていくでしょう。デマの流布・差別扇動・誹謗中傷・特定の相手に粘着しての嫌がらせじみた言動等を日常的に行っているような人の言う事は(その人の政治的立場・思想・信条とは関係無く)まず眉に唾付けて対応すべきだと思いますし、たまに何か有用な事や面白い事を言っていたとしても、そういう人をフォローすることもイイネを付けたりリツイートしたりすることも、私はしたく有りません。たとえば、プーチンがツイッターで人権の大切さについて熱く語っていたとして、そのツイートだけ見れば凄く良い事を言っていたとしても全く説得力が無く、世界中からツッコミが入るでしょう。たとえ彼のような人が可愛い猫写真や面白動画を投稿したとしても、私はリツイートしません。

(備考5) 解りやすいということ

 ただ、ここで気をつけなければならないのは「解りやすい=正しい」では無いという事です。テレビで時事問題を「解りやすく」解説しているオジサンが、事実の中に嘘を混ぜ込んだり、嘘は言っていないけれど重要な要素を伏せて説明していたり、複雑な事を強引に単純化して説明していないとも限りません。自分が他人に解りやすく説明できるように心掛けるのは良いですが、他人の「解りやすい説明」を聞いている時は、簡単に解った気になりやすいので、話を鵜呑みにしないよう注意深くなったほうが良いと思います。また、自分が解りやすく説明しようとする際は、同じような過ちを犯さないように気を付けたいものです。

(備考6) 変革の手段について

 ただし、革命やクーデターなどの急激かつ強引な変化は、その過程で多くの犠牲を生み出す上に、前よりも悪い状況になる事が珍しくない為、(1986年のマルコス政権打倒や1989年のベルリンの壁崩壊のように、ほとんど犠牲を伴わない強くて急で必然的な流れのようなものも有るとは思いますが)極力避けるべきだと思っています。が、全ての社会変革が「合法的」に行われるべきだ、とも思っていません。合法的な抗議が全て黙殺されたり、変革を望む事自体が「違法」とされたりする場合もあるからです。例えば北朝鮮で民主化運動を行えば、それが全く非暴力的なものだったとしても、おそらく「凶悪な犯罪者」として逮捕されるでしょう。南アフリカのアパルトヘイト(黒人を差別・隔離する政策)が廃止されるまでに、抗議活動を行っていた多くの人々が逮捕されています。日本で車椅子を使って公共交通機関に乗れるようになったのは「違法な」抗議行動による成果の側面が有ります。

 もちろん、抗議・抵抗活動の為なら何をやっても良いという訳ではありません。行動者は、その行動が逆効果にならないか、他者の人権を侵害するものではないか、自問する必要はあります。しかし、抗議者が特に誰かに危害を加えたりしている訳でもない場合、例えば路上での座り込みやプラカードの提示等の非暴力的な行動が厳密には道交法等に抵触する可能性があったとしても、ことさらにその違法性をあげつらうような真似はすべきではないと思います。(それは、いわゆる「トーンポリシング」ではないでしょうか)それよりも、抗議者の主張に耳を傾け、その主張に理があるのならば、今まで自分がその問題に気づけなかった、あるいは無視してきた事を省みたほうが良いのではないでしょうか。

(備考7) 自分と「悪人」の間

 北斗の拳のザコキャラ的な「悪人」と、そうではない「善良な市民」の境界は、それほど明確に存在するわけではないと思います。前述したように、人間とは不完全な存在で矛盾に満ちており、全く悪い事をしたことが無い人というのは、ほとんどいないのでは無いでしょうか。しかし、「なるべく悪い事はしないでおこう」「なるべく他人に優しい人間であろう」と考える人は多く、(「考える」というよりも、特に意識しなくても普段あまり悪事をせず、困っている人が居れば助ける人は多いと思います)世の中は比較的安全で快適な時間・空間が多く維持されているのだと思います。

終わりに

 この文章をほぼ書き終えた頃に、致命的な欠点に気付いてしまいまして…というのは、「この文章を最後まで読んでくれるような人は、そもそもこの程度の文章を読む必要が無い」という気が凄くしています。それでも何かしら得るものが有れば幸いなのですが。ともあれ最後まで読んで下さり、ありがとうございます。

神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホルド・ニーバー(訳:大木英夫)


(蛇足)

自分の良くない点・間違っている所(「正しさ」的なものだけではなく、わがままさ、弱さ、心の醜さ、みっともなさ、といった自分ではなかなか気づき辛いマイナスの部分)を直接指摘してくれる人が身近に(友人や恋人など)居るという事は、とても有り難い事です。ネットだと、微妙なニュアンスが伝えづらいですし、対面でしか伝わらない力というものも有りますから、オフラインで深い対話が出来る近しい相手というのは昨今特に貴重です。(昔、付き合っていた女性が別れる事が決まった途端に一気にダメ出しをしてきた時は、しんどかったですけどね。涙)
 逆に、身近な存在の人が、こちらに届くかわからないような(オンライン上の)場所で、抽象的な表現で(自分の事ともとれるような)何か愚痴や嫌味や批判じみた事を言っている場合は、(仮に自分に対する言葉だったとしたら)直接言って来ないということは本気で伝える気が無いわけで、こちらの事を思って言っているわけでもないですし、おそらく単に自分のストレスを発散させているだけなので、あまり気にしなくて良いと思います。
 そして、全然知らない人がいきなり何か上から目線で「アドバイス」してきたりする場合、自分が優越感を得たいだけの事が多いので無視して構わないと思います。(大抵そういった「アドバイス」は役に立ちません)
 さらに、よく知らない人が理由を付けて いきなり会おうとしてくる場合は、確実に邪な目的(詐欺・性犯罪・カルトの勧誘)なので警戒しましょう。

「正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義!!」みたいな事を言ってドヤ顔で思考停止している輩には「うるせーバカ」と言ってやる事にしています。心の中で。

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