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「表現の自由」について / 議論に入る前に確認しておきたい事。

[2019/11/24] 記事作成
[2020/04/05] 全体的に大幅な加筆修正を行いました。
[2022/11/06] 追記1~4を加えました。
今後も随時、編集していく予定です。

最近ツイッターで「表現の自由」絡みの話題が悪い意味で盛り上がっていて、自分も色々と考えていたので、それを整理するための、自分の認識と意見の現時点でのメモです。特に漫画・アニメ等「フィクション」の単体の画像について。主に「宇崎ちゃんの献血ポスター」と「秋葉原のエロゲ巨大看板」の件の概略を知っている人を対象に話しています。

表現をめぐる立場の違いについて

「宇崎ちゃんの献血ポスター」と「秋葉原のエロゲ巨大看板」の件に関連して、それらに言及している人々の姿勢の違いについて、要となるのは「ゾーニング」をめぐる問題だと感じたので、その点を軸に大雑把に分類してみます。

批判側の主張は、その殆どが「TPOをわきまえろ」つまり、「過剰に性的(あるいは性差別的・性暴力的…便宜的に以下は「性的」という言葉で統一します)な要素を含む表現は、ゾーニングが必要である」(ゾーニングの対象や方法については個人間で意見に差が有ったり、曖昧だったりする)という意見でほぼ一致しているように見えます。

さらに分けると、
1「表現の内容や用途を批判するが規制は望まない」
2「何らかの規制を求める」
3「表現者側に作品の撤去や修正を要求する」
といった感じでしょうか。

2に関しては、法的な規制を求めるか、業界の自主規制等に留めるべきかで更に分かれるでしょう。2と3は層が重複している部分も有りますが、3に関しては「直接の抗議・要求は行うが、制度的規制は望まない」という立場も有り得るので、1と3も一部重複しています。

「献血ポスター」の件については割合としては1が最も多く、3が少しで、2はほとんど居ないように見えます。「巨大看板」の件については、「献血ポスター」を批判していなかった層も一部加わって「批判側」の全体数は増加し、3の比率が増している印象です。

それに対し、擁護側の主張は、(「巨大看板」に対する言及は少なく、主に「献血ポスター」に関してですが)
A「性的ではないのでゾーニングは不要である」
  又は「性的ではあるがゾーニングが必要な程ではない」

B「性的だが適切にゾーニングされている」
C「性的であってもゾーニングすべきではない」
といった感じで分かれているように見えます。

Aに関してはゾーニングの必要性自体は認めており「性的」の度合いの判断の違い。Bに関しては性的である事もゾーニングの必要性も認めておりゾーニングの方法についての考え方の違い。Cに関しては性的である事は認めている(もしくは性的か否かの判断自体を不要としている)がゾーニングの是非についての考え方の違い。

批判側1は、実は「反表現規制」という点では擁護側の多くと意見が一致しており、「表現を批判している」=「規制推進派」という図式は成り立たちません。しかし擁護側の少なくない部分が批判側1~3を一括りに「規制推進派」と認識し、対立しているように見えます。

また、擁護側A・Bは(具体的な方法に対する考えに差異があるとしても)ゾーニングの必要性自体は認めており、「表現を擁護している」=「全ての規制に反対している」というわけでもないようです。

擁護側Cに関しては、「現行の法が全てであり、法的根拠が無い以上ゾーニングは認められない。法改正された場合はそれに従う」といった、「合法か否か」という点に重きを置く視点が主なようで、「表現の規制」自体を一切認めないのであれば、当然「表現を規制する法・条例・自主規制は全て不要であり、すでに施行されている刑法175条の『わいせつ物頒布等の罪』や現行の映画・書籍のレイティングやゾーニングも廃止すべき」という主張になるはずですが、そういう層はあまり居ないようです。

以上のように、相互の共通項や差異は入り組んでおり、「批判派か擁護派か」というのはかなり乱暴な分類であることが分かります。

今回の騒動における私の立場について

一連の騒動に対する私個人の意見について説明します。

まず「あの絵が好きか嫌いか」と言われれば「献血ポスター」は「どちらかといえば好き」、「巨大看板」は「わりと好き」ですが、「掲示・使用方法に問題が有るか無いか」と言われれば「献血ポスター」は「問題が無いとは言い切れない」、「巨大看板」は「問題がある」となります。そして「規制すべきか」と言われれば、どちらも「規制すべきではない」となります。

「献血ポスター」に関しては「公共性の高い場所で使用する表現としては若干性的であり、批判する人が居るのも理解できる。自分は特に批判はしないが擁護する気にもならない」と考えます。

「巨大看板」に関しては「公共の場所に掲示する広告としては問題が有る内容であり、批判されるのは当然だと思うしあの広告は取り下げたほうが良いと思うが、積極的に抗議・撤去運動に関わろうと思う程ではない。区の条例に抵触するのであれば、行政の指示による撤去も止むを得ないと思うが、その際は法的な段取りをきちんと踏むべきだ」と考えます。

前項の分類で言えば、「献血ポスター」については「批判側1」と「擁護側A」の中間、「巨大看板」については「批判側1」ですが「批判側3」の言動も理解できるといった所で、どちらの場合も法的な規制をされるべきではないと思いますが、批判は有って当然で自由に行われるべきだと考えます。

今回の件以外でも、(同様の漫画的表現についてもそれ以外についても)全く問題ないと思えるものが批判されていれば擁護する側に回るだろうし、酷いと思うものが有れば批判する側に回る事もあるでしょう。

表現に対する批判について

物議を醸す表現が公開されている事も、その表現に対する批判が可視化されている事も、どちらも「表現の自由が機能している」ということだと考えます。全ての表現が無難で画一的なものになるのは不自然だし、どんな表現も全く批判されないというのも不自然です。自由な表現と自由な批判が共に存在して初めて「表現の自由」の存在が確認できると思うのです。

そして「違法でない限りはどんな表現でも許されるべき」という前提に立った場合、その表現を批判する事はもちろん、抗議したり撤去や修正を求めたりする事も「違法ではない」のですから、それらも許容しなければならないでしょう。(注1) 逆にその表現を守りたいのであれば、表現を撤去しないよう表現者側に要請するのもまた自由です。そして抗議を受けた側がどうするかも自由です。表現に対する批判が妥当だと思えば作品を修正するなり撤去するなり(注2) 作品にコメントを追加するなり批判を次回以降の表現に反映するなり自らの意思で行えば良いですし、批判の内容が間違っていると思えば反論するなり無視するなりすれば良いと思います。

表現への批判に対して聞く耳を持たず、批判を全て否定するのは、「自分が嫌いな表現を全て否定する」態度と同じであると私には思えます。

ただし、国会議員や地方自治体の長など、公権力を持つ人間が法的な根拠無く表現の内容に干渉したり公開を妨害したりするのは、まさに「表現の自由」を脅かす行為だと思います。(私人として表現に対する感想を述べるのは問題無いと思いますが)

広告表現の場合、その性質上必然的に不特定多数が目にする機会が多くなりますが、この場合表現物はあくまで物やサービスを売る為の手段の一部であり、内容を変更しても目的は達成できるものです。その商品・ブランド・企業のイメージダウンにつながるような表現を使用した時点で広告として失敗だとも言えます。「一部の顧客を失っても、それ以上の顧客を獲得できるのであれば成功」という発想もあるかもしれませんが、長期的に見れば得策とは思えません。

広告ではなく表現そのものの展示・上演・販売が目的の場合は状況が異なり、内容の変更や削除は目的の達成を断念する事につながります。表現の場がイベントスペースや劇場の中であったり書籍・雑誌の中身であったりと、ある程度「閉じた空間」での公開になるので、(注3)内容に対する批判は有ったとしても撤去や修正の要求は少ないかと思われますが、その要求を行う際は慎重であって欲しいと思います。特に「成人向け書籍」等、すでにレイティングやゾーニングがなされている作品に対する撤去・修正要求は、原則としてすべきではないと思います。

(注1)もちろん、脅迫・人格攻撃等の嫌がらせ・デマの流布やデマに基づく批判・業務妨害は論外です。当然「表現に抗議する者を批判する場合」もです。(「その他-1」参照)「業務妨害」と「正当な抗議・要求」の境界については議論になる場合も有るかもしれません。しかし「直接の抗議や要求を行う事」自体を否定することは、「表現の規制」と同様に危険な事だと思います。あくまで、抗議の内容や要求の根拠を問うべきでしょう。

(注2)良くないのは、表現者側が騒動を鎮める事だけを考え、何が批判されているのかを理解しないまま表現を取り下げてしまう事です。

(注3)路上パフォーマンス等特殊な例を除きます。また「雑誌の表紙」等の場合は議論になると思います。

表現の規制について

いかなる反社会的・反倫理的な内容であろうとも、作品の制作と公開が禁じられるべきではありません。極力、自由に表現し自由に享受できるようにすべきですが、自分には「完全に自由な状態が理想」とは思えないのです。

基本的に望まれる状態は、「見せたい人が好きな時好きな場所で何でも公開できて、見たい人が簡単に見る事が出来る事」と、「見たくない人が全く見なくて済む事(注4)」ですが、その完全な両立は不可能であり、前者の徹底が実現するのは「小学校の校門前にレイプされる少女の絵を掲げる事」や「地上波で日曜の昼に痴漢物のAVを放送する事」が許容されるような状態でしょうし、逆に後者の徹底が実現するのは、公共空間での表現が全て禁止され、テレビもネットも自分が設定したチャンネル・番組・広告のみが表示されるような状況か、すべての表現物が国家による検閲後に公開されるような全体主義的な社会の到来ではないでしょうか。そして私は、どちらの状態も望みません。

「作りたい・見せたい・見たい」と「見たくない」は、どちらも正当な要求です。双方の要求を可能な限り満たすための調整----ゾーニングは必要であり、またそれを最低限に抑える努力も必須だと思うのです。そして、その「最低限のライン」については、人々の議論と政治参加によって法・条例・業界のガイドライン(注5)、そして社会規範を常にブラッシュアップしていくしかないと思うのです。

(注4)「見たくない云々の問題ではなく、表現の存在自体がマイノリティに対する間接的な加害行為になる場合がある」という視点も有りますが、ここでは言及しません。

(注5)例えば、関連業界の自主規制による流通の阻害…コンビニや大手ネット通販サイトでの取り扱いが無くなる事によって、ジャンルやカテゴリ全体が商売として成り立たなくなり壊滅する…といったように、「自主規制」が実質的に「法規制による弾圧」と変わらない効果を持つ可能性は有り、その作成と変更は充分に慎重であるべきで、成立後は法規制同様に運用状況の監視が不可欠となるでしょう。

表現による影響について

全ての表現は人に何らかの影響を与えます。同一の表現でもその影響は受け手個人によって程度も種類も差が有り、(社会的に善いとされる影響も悪いとされる影響も有り得ます)影響を数値化するのも困難です。「特定の影響を強く広汎に与える表現」は有り得ますが、「犯罪発生の増加に繋がる」等の理由による法的規制は、現時点ではその科学的根拠が希薄であるとともに、表現する権利・表現を享受する権利を侵害するため、また国家権力による表現への介入は権力にとって都合の悪い情報や思想を潰す手段となり得る為、避けるべきだと思います。

むしろ個人への影響という点で、特に性加害の発生については、表現の影響以前に、性教育が充分に行われていない事と、性加害に対する法の甘さが大きな要因になっていると思います。加害へのハードルが(法的にも社会規範的にも)低い状況下で、性に関する知識や価値観を家庭や学校の教育からではなくフィクションから「学んだ」結果が性加害の発生に結びついている部分も有るのではないでしょうか。

理想としては小学校入学前から義務教育終了までの間の段階的な性教育の実施で、フィクションとの接し方も身につけられるのではないでしょうか。これには充分に練られたカリキュラムの作成や現場の教師への事前講習等が必要で、(注6)リソースの確保が課題となりそうですが、それ以前に現状の政治状況(後述)での実現は困難でしょう。「性加害の抑止」と「表現の自由」の為に、「性教育の拡充」と「性犯罪の厳罰化含む取り締まり関連の法整備」と「性表現の開放」はセットで行われるべきだと思うのですが…

(注6)これには当然ジェンダーやセクシャルマイノリティーに関しての知識も含まれる事になるでしょう。また学校においては教師自身が性暴力の加害者になる例が多い事は当然前提として対策が必要になります。

まとめ

好むと好まざるとに関わらず、すでに法や条例等で線は引かれています。その線をどちらの側に動かすにせよ、対話可能な人々同士で議論を深めておいた方が良いのではないでしょうか。表現物に関する批判が湧きあがった時こそ、その表現単体の扱いについて考えると共に、社会において「表現」をどう取り扱うのが適切なのか、個人個人がある程度具体的なビジョンを構想し、それを他者の意見とすり合わせていく良い機会になると思うのです。その際は、

「公共空間とは何か、公共と非公共の境界をどう定めるのか」(注7)

「公共空間において許されない表現とは何か」
 
「具体的に誰がどのような手順で表現を分類し規制するのか」

以上のような点が議論のポイントになると思います。

前述の通り、国家権力による表現への介入は極力避けなければなりません。理想的には、表現の実行前には企業のコンプライアンス規定等に基づく事前検討、実行後は表現者側と受け手側の対話を通じて問題解決を図るべきで、最悪でも関連業界内での規制に留めるべきだと思います。

とりあえず、表現者側(作家や編集者や企業の責任者)が表現を作成・公開する際に参照するための、法的拘束力や業界の強制力を持たない共通の「ガイドライン」は有った方が良いのではないかと、私は思います。

私自身は175条の「猥褻」の定義が曖昧なのは問題で、(そもそも「猥褻」を国が判断するのも規制するのも間違いだと思います)現在、性器の描写が禁止されている状態は全く無意味だと思っていますし、最低限のゾーニングさえ実現できていれば、175条は不要だと思っています。さらに「青少年の健全育成」を謳った各種条例も問題だと認識しており、都条例に対する反対運動にも参加してきました。しかし現状の政治状況、つまり自民党が政権与党の状態が続く限りは、規制を緩和する方向での法改正は困難でしょう。

逆に、規制を強化する方向での「改正」は有り得るかもしれませんが、その際は、官邸と警察庁の思惑により一部の「女性の声」を利用する形で、実質は性差別・性暴力の解消には有効とは言えない内容の、思想統制・言論弾圧と警察の権限・利権の拡大に活用可能な法が作成され、恣意的に運用される可能性が危惧されます。「表現規制を推進している勢力」「性教育を阻害している勢力」「性差別を温存し性加害の違法化に抗う勢力」は重複している、という認識は前提として持っておいた方が良いと思います。(参照 追記1)

(注7)例えば現在映画のレイティングは「G・PG12・R15+・R18+」の4つの区分で段階的に分けられており、これと同様に、空間の区別も段階的なものにするという選択も有り得ます。逆にレイティングを変更・廃止すべきという意見も有るでしょう。

その他 メモと蛇足

(1)
表現の自由を巡る一連の騒動では、(これは「表現の自由」関連の話題に限りませんが)嫌悪する対象を叩く事が目的化している層…「女性フェミニストに嫌がらせするのが楽しくてやっている層」や「嫌いな表現を全て駆逐したい層」そして、結論ありきで異論を全く受け付けない層が批判側・擁護側共に存在し、建設的な議論をする上でのノイズとなっているように思えます。とにかく「論争」して相手を言い負かすのが目的の人も居ます。(注8)

主張が対立している二つの層が有る場合、どちらの側にも(割合の差は有るでしょうけど)ダメな発言をする人は居て、相互に一番ダメな部分だけをピックアップし集中して叩きがちなので、あたかも相手側全体がダメであるかのように錯覚しがちです。特に気をつけなければならないのは、このような「一部の人間の意見や言動を、あたかも全体がそうであるかのように扱う」という『主語の拡大』と、「Aに賛成ならBにも賛成に違いない」といった勝手な決め付けや、文脈を無視した発言の切り取り、発言の時系列の入れ替え、悪質な場合はツイートの画像改竄まで行って、「相手が言っていない事をあたかも言っているかのように扱う」という『発言・主張の捏造』です。何か「問題発言」の情報が有った場合、それを批判する前に、対象者の実際の発言の確認(及び前後の文脈の確認)は極力行っておくべきでしょう。

どんな思想・主張も、時々は自分や相手(「味方」も「敵」も)を客観的に観るようにしないと、どんどんカルト化していくので気を付けたいところです。(注9)

(注8)
私のツイッターのタイムライン上では、今回の件についての意見は批判と擁護がほぼ半々くらいで、ある意味バランスが取れているとも言えるのですが、「批判側」は対立する相手の発言をスクリーンショットやリンクを使用し具体的に提示して批判しているものが多いのに対し、「擁護側」は「エアリプ」が多く、私にとっては「嫌いな表現を全て駆逐したい批判派」みたいな人の存在は伝聞でしかないのですが、それは私自身のタイムラインの「偏り」ということなのかもしれません。恐らくそういう人もいるのでしょう。どの程度の人数なのかは分かりませんが。

(注9)
「カルト化」を批判している人自身が、また別のカルトにハマっていないとは限りません。私も含め。「客観的に見る方法」については、また別の記事を書く予定です。(参照 追記2)


(2)
「反表現規制派」としては、現実の性暴力・性差別の解消への取り組みに積極的にコミット・サポートしていく事が、その主張をする上でプラスになっていくでしょうし、性加害の減少は、表現規制の根拠を無くしていく事にも繋がるでしょう。政治家に対する陳情や講演会・勉強会の開催等を地道に行っているような、前線で動いている「反表現規制派」の人は、だいたいマトモな人が多く、性暴力被害者の救済等に関わっている人も居るのですが、残念ながらネット上でセクハラ発言を繰り返している者の多くが「反表現規制派」の範疇に入っているように見えます。(参照 追記3)


(3)
詳しく調べた訳では無いので断定的な事は言えませんが、「言論弾圧・思想統制はエロ・グロの規制から始まる」みたいな言葉はかなり胡散臭いと思っていて、戦前、実際にはどうだったのかはともかく、少なくともここ十数年の間に、政治家がTVのドキュメンタリーや報道の内容に干渉したり、イベントの開催を妨害したり、路上で政府の政策を批判するプラカードを掲げていただけの人が警察に排除されたりといった状況になっているわけで、全く説得力を感じません。(むしろ「エロ・グロ」に関しては、国民のガス抜きの一環として、政府の批判をしない範囲なら容認される可能性すら有るだろうと思っています)そして、「漫画・アニメ作品への一般人による批判」に大きく反応する人が、上記のような「一般人の政治表現への政治家による圧力」に無反応であるならば、その人が守ろうとしているものは「表現の自由」ではなく、何か別のものだと思います。(参照 追記4)


(4)
あたかも、本来は未成年売買春に関する符丁だった「JK」という言葉が一般化したように、あるいは特殊な性的嗜好を表す「SとM」という言葉がほとんど性的なニュアンス無く使われるようになったように、ポルノ的な表現として発達した技法が一般化した結果、非ポルノ的な受容をされるようになっていく可能性は有るかもしれません。その過程でのコンフリクトが現在の「アニメ・漫画的な表現」周辺で起きているようにも思えます。


(5)
「特定の個人・組織・集団に対する加害(の教唆・扇動)を目的としたフィクション作品」は有り得るので、そうしたものの扱いは別途考る必要が有りそうです。


追記1

「表現規制を推進している勢力」「性教育を阻害している勢力」「性差別を温存し性加害の違法化に抗う勢力」が、反社会的カルト宗教や極右政治団体と深く関係し、その意向を尊重して動いている現与党・与党政治家である事が、人々に広く知られるようになってきました。

追記2

「客観的に見る方法」に関連した記事を以下のリンク先に公開しました。
 「自分を疑う」

追記3

都条例問題に対応していた頃の良識的な反表現規制派の多くは、最近の「表現の自由を守る」主流派となっている人々(与党議員含む)に嫌気がさして、前線を去りました。私も含め。

追記4

やはり、「言論弾圧・思想統制はエロ・グロの規制から始まる」というのはデマだったようです。<参考リンク
表現規制関連の話題でよく引き合いに出される有名なマルティン・ニーメラーの言葉でも、ナチスが最初に連れ去るのは「共産主義者」ですね。





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