市役所小説『お客さま、そんな部署はございません』【最終回・後編】お客さま、あなたは神様ではありません。ですが神様よりも大切な人です。
これは少し前のこと。私が働いていた場所での出来事と雑感を「セミ・フィクション(ゆるやかな事実)」的にまとめたお仕事小説ですーー
今回は、最終回の後編です。
今まで読んでくださった方、本当にありがとうございました(涙)
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「係長、今ちょっとお話できますか」
その日の勤務を終えた私たちは、総務課の給湯コーナーにいる係長を呼び止めた。
最後の凍え死にそうな冬を乗り切り(コロナのファンヒーターが命をくいとめてくれた!)春めいた空気になった、新年度すぐのことである。
係長は、お湯を淹れたマグカップに紅茶のティーバックを漬け込んで、上下にゆすっているところだった。
「たいへん言い出しにくいんですけど」
と、エンヤマさんが切り出した。
「おわかりのように、私たちはあと3か月で辞めるんです」
係長は「ああ」と唸った。
「そうでしたね。何か全然実感なくて」
ええ、ええ、そうでしょうねぇ私もですよ。
係長の動作に合わせて、私の中の杉下右京が言った。
ある日突然プツリとこの日々が途切れる時が来るなんて実感できない。
ただ、その時は必ず来るのだと想定して準備せねばならない。
「次の人、いつ来るんですか?」
つまり引き継ぎをどうするか。
それを聞くために思い切って声をかけたのだ。
「来るなら来るで、マニュアルとか、時間のある時に作っておこうかなと思いまして」
「どんな感じに引き継くことになるのかな、と思って」
私たちは様子を伺いながら、おそるおそる切り出した。
「うーん、それがですね・・・」
係長はカップの端にティーバックを押し付け、水分を絞った。
何度も繰り返すが、私たちは非常勤職員である。本来、後任の人事のことなど正直いってほおっておけばいいし、気づいていても、あとは野となれ山となれ、とやかく言うような立場でもない。だがロビーが混乱するのではないかという老婆心で、つい放っておけなかったのだ。というのは嘘だ。今になって考えるに、そんな美しき心からではない。それはもっと腹の底、泥臭いところから湧き上がって来た種の保存本能のようなものだ。私たちが悩みながら模索してきたあれやこれやの経験と知識、それを誰かに受け継がなければ、これまでしてきたこと、そればかりか私たちの存在まで、無意味で無価値なものになってしまわないだろうか?そんな焦りだ。遺伝子を遺したい、今ならば必死になるのも頷ける。
私たち3人は、誰が言うともなく課の応接スペースに向かった。そこは、何か聞かれたくない類の話がある者たちが、吸い込まれるようにして入っていく小部屋である。私たちはビニール製で、茄子のような色のソファに腰掛けた。私とエンヤマさんに向かい合うようにして係長が座った。
「ちょっと言い出しにくいんですけど・・・って言いつつ、言っちゃうんですけどね」係長の相変わらずの出だしである。
「ぶっちゃけ、まだ何の話も決まってないんですよね」
「採用試験の予定とかは?」
「ああ、全然ですね」
ただ・・・と係長は続けた。
「実はですね、最終的にコンシェルジュは1人でいいんじゃないか、そう言われてるんですよ」
話もないわりに、最終的に、じゃないだろう。
きっと何かが水面下で動いているのだ。
「誰にですか?」
私たちは身を乗り出した。
「まあ・・・市長ですかね」
「市長?」
係長は、たとえマズいことも全部包み隠さずに言ってくれる。ただし秘密はすぐに漏らす。常々「ワタシすっごい口軽いんで」そう自称していただけのことはある。でもここは、嘘だと思った。
どうせ部長だろ・・・
私は眉を寄せ目を細めた。
彼女の黒くて高いヒールが即座に脳裏に浮かぶ。部長はこの春異動が決まり、さらに「奥の院」へと引っ込む予定である。このぶんだと、副市長まであと一歩のところかもしれない。異動直前にこの入れ知恵か。遠い目になった。
「1人で、できると思ってるんですか?」
私よりも先にエンヤマさんが尋ねた。
「精神的に追い込まれますよ。それでもいいんですか?」
私も援護した。
まだ見ぬ「新人さん」を按じたような口ぶりで。いや、これも違う。あるにはある。けれど、まずもってこれは自分の尊厳を守るためだ。浴衣でも着て、お飾りで立っているのだろうと「内部からですら、思われてしまっている」自分からの、上層部に対する抗議だ。
上層部は最後の最後まで、受付を感情労働だと知らずに「誰にでも、簡単にできるお仕事です」に決めてかかっている。最低ランクの時給で働かせてもいい人間にカテゴライズしているのだ。
私は傷ついていた。きっとエンヤマさんも同じだろう。
「まあ、ワタシもそう言ったんですけどね」
係長は声をひそめた。
「そこまでやらなくてもいいなら、大丈夫なんじゃないかって。上はそういう言い方なんですよ。「あそこまでやらなくていいから、1人にすればいいんじゃないか」って」
あそこまでやらなくていいって、なに?
4年半以上、もう気にしないことにしようと思いながら、ずっと視界にチラチラしていた存在。私たちをよく思っていないはずの上層部のことは、頭の片隅にあった。彼らは、ひっそりと、私たちの振る舞いを「やりすぎ」と判断していたのだ。足らない、のではなく、過剰だったのである。
話し合いを終えて、私たちは無言でロッカー室に向かった。閉庁したフロアにパンプスの音だけが響く。それは乾いた、虚しげな音だった。
「だったら無理なお願いは断っていいと、黙ってないで言ってよね・・・」
エンヤマさんが、ロッカー室まで待てず息まいた。
「わざと言わないんですよ」エンヤマさんの言葉にかぶせた。「そう名言してしまうと逆に手を抜きかねない奴らだと、思ってるんですよ」
ロッカー室のドアを閉めたとたん、我慢ならなくなった。
「あっそ!」
「あっそう。じゃあいいわ」
だったら、もういいのだ。
私は私のやり方で、楽しく乗り切る方法を見つけ出したばかりだ。
「じゃあ辞めるまで、私は私で好きにやらせてもらいますよっと」
それを実行するまでだ。
やりすぎ、というなら、むしろ「やりすぎて」やろうじゃないのよ。
「ネコミズさん、自暴自棄になってない、よね?」
エンヤマさんが、様子をうかがってきた。
「いいえ、全ッ然」と即答したが、
「いやいやいや・・・その顔よ。もうヤバい感じしかしないわ」
エンヤマさんは笑った。
□
「え?あなたはどう思うね?!」
その日、私はおじちゃんに詰め寄られていた。
「ひどいと思わんかね!」
来年から着工される駅前の再開発と交通ルートの大変革。あまりにも大々的すぎて、従来から駅前に住んでいた近隣どころか、市の北半分に住む住民の大反対を巻き起こしていた。しかし市長は乗り気だ。その政策に対する不満を、いま、ここで、何故か私に、ぶつけている、目の前の農協の帽子をかぶったおじちゃんがいる。
「あ?あんた職員だろうが。どう思ってんだね!」
実は私も、あの開発は良く思っていない。
けれど、それをここで、あなたにぶつけることは、できない。そんなこと、あなただって、わかり切ってるじゃないのよ・・・
「いや、それは・・・」と、かわいく口ごもってもいいかもしれない。
でも、もうしない。
「え?私がどう思っているかなんて――」
「仮に私がどう思っていたとしても、今ここで、こうして仕事中なのに?言えるわけがないじゃないですか」
立場のさらに上、メタ立場だ。
誰もが口に出さない真実、当たり前すぎるが、なぜか絶対に日本では言えないことなのだ。
「まあな・・・」
おじちゃんは、急にトーンダウンした。
そうだ。こっちの方がうまくいくし、伝わる。
これがグルーヴだからだ。
「私に言わないで下さい。ちゃんと担当課がありますから、そこで言ってください」
私に来る大抵のクレームは、それ以上先には行かない。だって、そもそもが八つ当たりだからだ。私が電話を取り上げ、担当課のそれなりの役職の人につなごうとすると「もういい」とか、ひどい時には担当課長がやってきた頃には、すでにいなくなっていたりする。けれどそのおじちゃんは違った。
「よし、じゃあ行ってやろう。どこだ?」
「新市街推進課、68番窓口です!」
「よしきた」
おじちゃんはずんずんと中に入っていった。
私は背中にエールを送った。
こういうおじちゃんを、大事にしなければいけない。
エンヤマさんが言った。
「これが市役所の「本当のお客さま」よね」
お客さま、あなたは神様ではありません。
ですが神様よりもっと近しくて、大切な市民なんですよね――
翌日、市長への手紙が1枚、ひっそりとポストに入っていた。
「受付の人がクレーマーに毅然と対応していて凄かった」
「クレーマーじゃないし・・・」
私たちは、顔を見合わせて苦笑した。
最後の日のことは、よく憶えている。
なにせ思ったのと違った一日だったのだ。
その日は朝から「話しかけられる日」だった。私は最後の仕事を楽しんでいた。お客さまとのグルーヴ感を求めてから、まだ1年足らずである。不思議と、この考え方だと疲れ方が全く違った。肉体的には疲れるが、皮膚鏡面を削られるようなヒリヒリする肌感覚や、魂を抜かれたようなぐったりする感じはない。
これからがもっと面白くなっていきそうな予感がした。けれどタイムリミットは今日の5時半。これはもう仕方がない。
午後はどんな人と出会えるのだろう。今日は金曜だ。金曜午後は駆け込み来庁が多い。最後の業務にふさわしい、駆け抜ける感じが味わえるだろう。
「こんにちは」
「こんにちは」
「こんにちは」
「はいどうも」
「こんにちは」
「ちわーす」
あれ。
誰もが私を素通りしていった。
それぞれに自分の用事に取り掛かり始めたり、目当ての窓口に向かったり。
へえ。こんな終わり方なんだ・・・
意外だった。
「もう私たちは、いらないのかもしれない」
我々市民はもう大丈夫です、と、こういうことなのか。
それは何とも寂しく、しかしこの上なく優しい終わり方をする、ひと繋がりの音楽のようだった。
解放してくれたってことよねーー
涙をこらえて、そう思うことした。
5時25分。
若い男性がデスクに立ち寄った。
「えっと、トイレはどこですか?」
「そちらです」
私は右手を掲げて指し示す。
これが最後の案内だった。
まさに消え入るように、最後の音楽は鳴り止んだ。
もっと爆音で終わるかと思っていた。
つくづく現実ってよくわからないものだ。
私はコンシェルジュデスクから立ち上がった。ひざ掛けとわずかの資料、そして貴重品を持って椅子を整え、総務課に戻った。
このデスクは、週末に撤去される予定だそうだ。
□
これは少し前のこと。私が働いていた場所での出来事と雑感を「セミ・フィクション(ゆるやかな事実)」的にまとめたお仕事小説ですーー
いまこれを、私は少し離れた場所から書いている。
時間的にも空間的にも。
駅にいても、ショッピングセンターを歩いていても、私には困っている人が自然に目につく。券売機でチャージの仕方がわからないおばあさん。セルフサービスのコーヒードリップ機の前で固まっている老夫婦。
彼らは通りかかる私をちらっと見て、一瞬、なにか聞きたそうにする。
私はさりげなく、斜め下に目を伏せた。
(終わり)
第1話からもう一度!振り返って読んでいただけると嬉しいです。
毎日の労働から早く解放されて専業ライターでやっていけますように、是非サポートをお願いします。