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ベスト・フレンド・エンド(前半)

【小説・前半2400字+後半2500字・10分くらいで読めます】


――桜がその花を咲かせていたことを、夏になれば人々は忘れてしまう。

誰もが足早に、アスファルトの上を歩み去っていく。

そんな2011年7月の頃、わたしは親友に別れを告げた。

そうせざるを得なかった。


今こうして誰もいない自宅の畳の上に寝転んで天井を眺めていても、自然とその顔が脳裏に浮かび上がってくる。そのことがまたわたしを脆くする。


彼女とのたくさんの思い出が、時系列を無視して胸に去来する。そのことがまたわたしを弱くする。


振り払いたくて何度かまばたきをしたが、その人はまだ目の前にいた。続けて頭を左右に振ってみると、わたしのセミロングの髪が肩に揺れた。その中の数本が頬へ張り付いた。

窓からは日差しが差し込み、盛んな蝉の声が空っぽの六畳間に木霊していた。


何気なくわたしは虚空へと手を伸ばしてみた。重い荷物は持てそうにないその細い腕が、改めて強調されたニュアンスを伴って眼前に映り込んで来た。


このままじゃ暗黒に呑み込まれる、もっと強くありたいと願った。孤独な海の波間に溺れつつも必死にもがいた。


しかし現実には、窓ガラスを貫いた一条の陽光がただただ指と指の間から零れ落ちていくばかりで、わたしは何一つとして掴み取ることが出来なかった。


* * *


葵(あおい)との別れの原因は、結局のところ、わたしが悪かったのだと思う。


彼女はただ当たり前に生きていて、その中には当たり前にいくつかの出来事があった。

そんな日々の中でちょっとしたすれ違いもあったけれど、普通なら当たり前に話し合って解決できた範囲のことだったのかもしれない。


それこそ仲直りして、めでたしめでたしという具合に。

雨降って地固まる、定番のストーリー。


でもわたしはそこに着いていくことがもはや出来なかったのだ。


葵にはわたしだけを見ていて欲しかった。

ずっとわたしを大切にしていて欲しかった。

わたしはもうずっと、あなただけを見つめている。

二人だけの世界に誰も入ってこないで欲しいと願っていた。

そんな儚い願望を嘲笑するかのように、軽快な電子音のメロディがいつも空間を真っ二つに引き裂いていった。


葵の携帯電話にはたくさんの人からの着信が入り、彼女は躊躇することもなくそれに出る。わたしの知らない相手としばし楽しげに談笑し、やがて彼女は大学生の女の子らしい手帳を慣れた手つきで取り出し、視線を走らせる。


わたしの身体を戦慄が垂直に貫き落ちる。ガラスが砕け散る。

幸せな時間はもう、終わってしまうのだろうか。真夜中の十二時の鐘が鳴り、シンデレラの魔法が解けるかのように。

今は彼女がくれた温もりの残滓を燃料として、わたしという人間は動いている。古びたブリキの人形のように身体を軋ませながら。


* * *


葵との出会いは去年の四月のこと。わたしたちはまだ大学一年生だった。

当時の大学構内には浮き立った雰囲気があった。


新入生にとっては長い長い受験戦争というトンネルを抜けて、ようやく春の光を浴びられるようになったのだからそれも自然なのだろう。


また上級生たちもサークルのメンバー集めなどの仕事があり、新たな出会いを求めていた。


静かにその花を散らす桜の木を背景に、これら二つの力強いエネルギーのうねりが大学構内を活気づかせていた。沢山の人々が、何かを宣伝するために叫び声を上げていた。


そんな力場の中へ、電車で二時間強の道のりを経て通学していた。母親が下宿を許さなかったのだ。


わたしもそんな雰囲気の影響を受けつつも、しかしそのエネルギーのうねりと一体になれないような感覚があった。なんだか少し、喧騒から距離を置きたくなってしまう。

午前八時半、大学の最寄り駅からの坂道を上る圧倒的な数の人の流れにも、思わず立ち尽くしそうになる。


とりあえずこれから、どんな風に振る舞っていけばいいのだろうと頭を悩ませてしまう。最初が肝心だということは肌で感じている。


未知への期待や高揚よりは、不安と自信のなさが胸中に渦巻いていた。

せめて真面目に頑張ろう、人に嫌われるような面は見せないでおこう……校門をくぐりながらそう密かに決心した。

わたしはそんな物憂げな四月の朝を幾たびか連ねた。先の見通しが立てられなかった。


しかし困難な物語の一ページからすくい上げるかのように、突如として葵はわたしに話しかけてくれた――「おはよう」と。


誕生日が同じ月なのに彼女はわたしよりも少し背が高く、お姉さんっぽく見えた。


二人は同じ英米文学科で、名字が二文字目まで同じだったので学籍番号が隣同士だった。そのため入学当初のオリエンテーションやグループワーク等、何かと顔を合わす機会が多かったのだ。


* * *


五月の末になると事態はさらに良い方向へと推移し、葵は席が定められていない座学の授業でもわたしの隣に座ってくれるようになっていた。


彼女が引き連れてくる数人の友達とも少しは話せるようになりつつある。自分一人じゃ何も出来ないままだったけどね。


相変わらず、周りの世界は目まぐるしい速度で変化している。初めはエネルギーのうねりでしかなかったものが、徐々に現実的な形を持ち始めている。


学内にたくさんいた叫び声で何かを宣伝する人々も、桜の花が散り青々しい葉桜になると、めっきりとその数を減らしていた。

葵は教室やその周辺でわたしを見つけると、昼でも「おはよう。」と声をかけてきた。これが現在の彼女が属する世界でのやり方であるらしかった。


「なんでおはようなの?」とわたしが尋ねると、

「こんにちは、だと固すぎるでしょ。みんな大体そうしてるみたいだし。」と返ってきた。


みんなって誰だろう、とわたしは思った。なんとなく詳しくは聞けなかった。


「ねえ、本当にサークルとか部活とかやらなくていいの? 私はそろそろ一つに決めようと思っているところなんだけど。」と葵は言った。

「そういうのは苦手っていうか、団体行動とか好きじゃない人間だから。自分の好きな時に好きなことをしていたい。」とわたしは言った。


本当は、人を求める気持ちと距離を置きたい気持ちの二つに引き裂かれるような複雑な心を抱えていたけど、それをどう言い表せばいいのかわからなかった。



後半へと続く

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