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DAY11.  雨上がりの土曜日

 ホルモンのバランス。よく言うやつ。私の中で日々起こっている根拠のない浮き沈みは、恐らくそこにトリガーがある。そんなふうに思い出したのは、ごく最近のことだ。

 人の体に100種類以上あるホルモン。その中でも卵胞期に増えるエストロゲンと、排卵した後にぐんと上がるプロゲステロン、いわゆる2つの女性ホルモンの動きには、もはや抗いようのないところがある。

 ことあるごとに血液検査をされる不妊治療下、その時々の変化を数値で明確に突きつけられていると、自分の体の中で刻々と卵胞が成長し、排卵して、また生理に至る、そのサイクルに体のすべてが引き摺られているような気がするのだった。


 家の中までじっとりと湿り気を帯びて、そのうち自分までカビついてしまいそうだった雨模様の金曜が明けたら、今日は抜けるような青天が広がっている。

 洗濯物を干しにちょっとベランダへ出るだけで、じりりと刺すような紫外線を感じた。それでもリビングまで視界の端々にこぼれ届く陽光はやはり心地好く、どことなく軽やかな気分になっている。

 排卵した…? そんな予感がした。次に生理がきたら、またふりだしに戻って採卵からの治療が始まる。

「ちょっとさ、肉でも買いに行かない?」

 今日は何やら人に誘われて朝っぱらからゴルフの打ちっぱなしに出かけていた夫に声をかける。もう午前中には帰ってきて、私と一緒に遅めの朝ごはんを食べたところで力尽き、ソファでうたた寝をしていたところへ。

「ん、肉…?」

 私が1時間ほど前にかけておいたタオル地のブランケットをごそごそとしながら、夫は半開きの目で反応した。

「うん。この間アマゾンで試しに買ったステーキソース、もう賞味期限だから食べちゃわないと」

「いいね」

 寝起きの悪い夫から、文字通り二つ返事で同意を得る。だいたいの場合は「アイス」か「ケーキ」だけれど、夫が好きなものをコンビニやスーパーへ買いにいくのは、散歩につき合ってもらう打ってつけの口実だ。その目論見は9割がた成功する。

 このコロナ禍、ほとんどの食料品は毎週配達してもらうパルシステムでまかなっているものの、この間はすっかり頼み忘れてアマゾンのライフ2時間便を代打にすることになった。そこでたまたま目について買ったステーキソースの出番を、夫は心待ちにしていたのだ。

 栃木県発祥らしいステーキ宮の「宮のたれ」、1個152円の使い切り。たぶん、ごくごくシンプルなザ・ステーキソースなのだけれど。こんなちびっこいソース1つで日々の楽しみが1つ増えてしまうのだから、なんと安上がりな夫婦だろう。

 さっそく連れだって家を出ると、夫はいつものスーパーに向かうコースとは違う道をずんずん行く。

「え、こっち?」

 私の問いかけに不可解な顔をする夫に重ねて聞こうとしたところで、思い出した。

「ああ、お肉屋さんに行こうとしてる?」

「うん」

 何を言っているんだ当たり前だろうという顔をして、夫はまたずんずん歩く。けれども、私の頭に思い浮かんだその精肉店に行くのは今日が最初だ。

 この街に越してきたときには、もうコロナ禍の真っただ中だった。というか、コロナで都心に住んでいるのがばかばかしくなって、どこかもっと空気の良さそうな郊外の家はないかと探したのだ。

 だからすっかり外食からは足が遠のいて、いまだに近所でおいしい焼き肉屋もお好み焼き屋も見つけられていない。旨い蕎麦屋だけは、歴代最高峰じゃないかというところを見つけた。むしろ、それが家選びの決め手になったところがある。

 今も賃貸暮らしに甘んじている私たち夫婦は、これまでにも何度か引っ越しを重ねてきた。それぞれの街の思い出と言えば、だいたいが食べ物にまつわっている。

 最初の街では、激安スーパーのOKストアに初めて出会って感動した。それなりにいい調味料を選んで使うようになったのは、たぶんあそこからだったと思う。

 今でも我が家の味噌汁に欠かせない信州味噌の「家傳山吹」は、OKストアなら相場より安くなっているのだろうと買ったのが最初だった。

 出汁に使ういりこも、歴代使った中で最高だと思うのは、その街のOKストアにあった瀬戸内産のお得な大パック。魚が大きめで身の厚みや乾燥具合がほどよく、しっかり旨みも出て使いやすかったのに、ほかのスーパーではとんと見かけない。



 目的の店へ向かう途中、夫は「たぶんあそこは現金しか使えないと思う」とコンビニに立ち寄って金をおろした。最近はカードばかりになっていて、気づくと手元に現金がない。

 20分ほど歩いたところで、ようやくたどり着く。以前からこのあたりを車で通るたびに、「あそこの肉屋が気になってるんだよね」と夫がくり返し言っていた精肉店だ。

 目の前の道こそ車も多い大通りだけれど、赤い地に白字の店名を冠したビニールの雨よけは、だいぶ煤けて日に焼けている。歴史があるというよりは、片田舎にありそうな昔ながらの店構え。まるで時代に取り残されたような風情で、ぽつりとそこに佇んでいる。

 店先から中をのぞくと、とりどりの肉が並ぶショーウインドウには「豚バラ」とか「鶏もも」とか走り書きされた名札が2、3枚あるだけで、ほかには一体何があるのか、値段もよくわからない。

 奥には店主らしきむっくりとした男がひとりいて、ちらりとこちらへ目をやった。他に客はいないようだ。

 ウイルスの防御率が高いと評判のNF94マスクをした夫が、ひとりですたすたと店の中へ入っていく。布マスクにフィルターよろしく不織布を挟んだだけの私は、外からガラス越しに眺めて待つ格好になる。

 それから、まあまあの時間を要した。中ではこんな会話がくり広げられていたらしい。

「どうします?」
「え、何があるんですかね? 初めて来たんですけど…」
「ああ、うちは決まったのがないから」
「えっと…」
「どういうの欲しいの?」
「牛肉を…」
「食べたいもの言ってくれれば、見繕うんで」
「なるほど…。あの、ステーキで食おうかなと…」
「どれくらい? 何人分?」
「2人ですね。1人は普通くらいで、僕が少し多めかな…」
「ステーキね。脂は多いほうがいい?」
「いや、あんまり脂はないほうが好きですかね。あ、あと…牛ハラミとかあります?」
「あるよ。どれくらい?」
「うーん…」
「…」
「あの」
「どうします?」
「現金だけですよね? カードは使えない?」
「現金でお願いします」
「今…」
「はい?」
「今、財布に1万3千円しかないんで。もう、それで払える分だけ見繕ってください…!」
「いやいや、そんなにいかないから」

 初めての客にどこか訝しげだった店主も、勝手に腹を決めた夫に最後は吹き出す形になった。そうして「いいところを見繕うから」と、ぶ厚い赤身ステーキの塊肉を2つと牛ハラミを2人前強、目の前で切り出して包んでくれたのだという。

 占めて、5千5百円。近頃何かと頼んでしまうウーバーの出前1~2回分と考えれば、その値段で夫婦2食分のメイン肉を手に入れたのは、なかなかお得感があった。店の外観からは、あまりイメージできていなかったけれども。



 土曜日は結局、昼にステーキ、夜は牛ハラミ丼と豪勢な牛づくしの一日になったわけだが、どちらも夫がネットで調べ調べしながらこだわって焼き上げたことで、また格別の味わいになった。

 普段、家事はほとんどしなくても、焼き肉のときだけは「俺にまかせろ」になる焼き肉奉行の本領発揮だ。

「旨!」

「旨ーい!」

 ステーキはそのまま塩胡椒だけでミディアムに焼き上げたのも旨かったけれど、「宮のたれ」も期待を裏切らない好みの味だった。夫特製の牛ハラミ丼にはうやうやしく卵の黄身ものっていた。

 たった2人で、本日の戦利品である肉を囲む食卓。別にたいした話題もなく、ただただ旨い肉を頬張り、顔を見合わせてしみじみと味わっているだけなのだけれど。

 しゃべっていてもいなくても、2人でいると部屋の空気は自然とにぎわう。1人でいると、テレビをつけていたってどこか静寂に包まれる気がするのに。

 そこに子どもは「まだ」居ないのか、このままずっと居ないままなのかはわからない。たとえ未来永劫、居なかったとしても。2人いれば、この先もきっとこんなふうに、にぎやかな休日が過ごせるのだろう。

 もし、夫がいなかったら。私はこの土曜にそぞろ散歩に出たりなどしないし、大きな肉の塊を手に入れようなどとは夢にも思わない。旨いステーキや牛ハラミ丼にありつくこともなかった。でも、適当に腹を満たして、そろそろ映画館にでも出かけていただろう。

 エストロゲンやらプロゲステロンやらに翻弄されながら、浮きつ沈みつしながらも。その隣にはいつもだいたい夫がいて、ときどきケンカをし、そのたびに仲直りをして、たまにはこうしてふらりと出た近所の散歩をきっかけに、スペシャルな一日を満喫したりする。それはそれで奇跡的だ。

 でも、もしもそこに子どもがいたら。きっとケンカも倍になるだろうけれど、その分苦労しながら仲直りをして、2人だけではおよそ想像のつかないスペシャルな時間も生まれるのだろう。

 日曜の夜は「そうだ、この間つくり過ぎたおでんを切り刻んで炊き込みご飯にしよう」と私がキッチンに立つ。夫が牛ハラミ丼にのせた残りの白身は、しじみ汁にとき入れてしまおう。あとは適当に、あり合わせで…。

 2人だからこその朝ごはん、昼ごはん、夜ごはん。そのメニューもつくる量も味付けも、子どもが生まれたら、またがらりと変わる未来があるのかもしれない。ないのかもしれない。今は正直、想像もできない。でも、いつの日か。きっと、近い未来に。


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